著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-180, 2014-01-31

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。
著者
高橋 敏子 久留島 典子 山部 浩樹 高橋 慎一朗 金子 拓 馬田 綾子 池田 好信
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2002

中世東寺を統括していた長者・凡僧別当・執行などに関する史料を系統的に調査した結果、「東寺長者補任」の諸本、「東寺凡僧別当引付」、京都国立博物館所蔵「阿刀家伝世資料」、天理大学附属天理図書館所蔵「東寺執行日記」、「東寺過去帳」などの写真や情報を収集することができた。その上で、これまで行われてこなかったこれらの史料学的検討を行った。1.「東寺長者補任」諸本の調査とそれらの史料学的考察の結果、従来認識されていなかった長者補任の類型を抽出することができた。さらに、諸本それぞれの特徴を提示するとともに、いくつかの補任については作成者を確定することもできた。2.「東寺執行日記」については、これまで研究の素材として主に利用されてきたのは内閣文庫所蔵の二種類の写本であったが、今回の調査によって天理図書館所蔵のより良い写本を発見することができた。今後は、こちらが研究の基礎史料になると考える。3.「東寺文書」「東寺百合文書」「教王護国寺文書」など、これまで利用されてきた東寺関係史料に「阿刀家伝世資料」を加えて分析することによって、平安時代から近世初期に至る東寺執行職の歴代を確定し、その根拠となる史料を翻刻提示した。また執行の職務内容についても検討し、新たな知見をえた。4.東寺に伝来してきた複数の「過去帳」について、それぞれの性格を確定した。また、東寺と関係の深い醍醐寺の過去帳分析も行った。今後も収集史料の史料学的研究を継続するとともに、「東寺執行日記」のテキスト化を行う予定である。
著者
馬場 基 中川 正樹 久留島 典子 高田 智和 耒代 誠仁 山本 和明 山田 太造 笹原 宏之 大山 航 中村 覚 渡辺 晃宏 桑田 訓也 山本 祥隆 高田 祐一 星野 安治 上椙 英之 畑野 吉則
出版者
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2018-06-11

国際的な歴史的文字の連携検索実現のため、「IIIFに基づく歴史的文字研究資源情報と公開の指針」および「オープンデータに関する仕様」(第一版)を、連携各機関(奈良文化財研究所・東京大学史料編纂所・国文学研究資料館・国立国語研究所・京都大学人文学研究所・台湾中央研究院歴史語言研究所)と共同で策定・公表し、機関間連携体制の中核を形成した。また、上記「指針」「仕様」に基づく、機関連携検索ポータルサイト「史的文字データベース連携システム」の実証試験版(奈文研・編纂所・国文研連携)を令和2年3月に公開。令和2年10月には、台湾中研院・国文研・京大人文研のデータを加えて、多言語(英語・繁体中国語・簡体中国語・韓国語)にて本公開を開始した(https://mojiportal.nabunken.go.jp/)。なお、連携・サイト公開は、国内および台湾メディアで報道された。木簡情報の研究資源化として、既存の木簡文字画像(約10万文字)をIIIF形式に変換した。また、IIIF用の文字画像切出ツールを開発し、新規に約15,000文字(延べ)のデータを作成した。過年度と合わせて合計約115,000文字の研究資源化を実現した。文字に関する知識の集積作業として、木簡文字観察記録シートを約50,000文字(延べ)作成した。なお、同シートによる分析が、中国簡牘・韓国木簡にも有効であることが確認されたことを踏まえ、東アジア各地の簡牘・木簡文字の観察作業も実施した。国際共同研究・学際研究として、令和1年9月に、東アジア木簡に関する国際学会を共催した(北京)。当初、国際学会の開催は、研究計画後半での実施を予定していたが、本研究遂行にあたっての共同研究等の中で、学会共催の呼びかけを受け、予定を繰り上げて国際学会を共催した。また、人文情報学の国内シンポジウム等において、IIIF連携等本研究の成果を報告した。
著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-181, 2014-01

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。It is commonly considered that after distinguished war service or performing acts of valor, their recording and the acquiring of rewards in recognition are the most fundamental and important practice of a bushi ( warrior) , and many studies have been conducted on gunchujo ( requests for recognition of military success and heroic deeds) made during the period of the Northern and Southern Dynasties (1336–1392) . However, it has not been completely clarified how gunchujo changed, disappeared, and reappeared during the period of the Warring States (1493–1590) and later were used in early-modern times during which internally Japan was at peace. To explore both the differences and common points found in documents from the archives of samurai families of the medieval period and early-modern times, this paper focuses on historical materials that record meritorious service in war and examines changes to their content, style and the system of application.In 1869, just before the return of the han ( domain) registers to the Meiji Emperor, a survey on military exploits in the Boshin War and other wars was systematically conducted among samurai families in the Hagi han. In compliance with the directions given by the han, the chief retainers submitted records with phrasing typical of medieval period gunchujo. The han then returned these records to the samurai with a seal of proof similar to those used in the medieval period. When these records are compared with other records of military exploits submitted by volunteer corps including peasant soldiers, war casualties and war dead are commonly described, but a significant distinction is whether they were written in the typical format and style of gunchujo or not. In other words, it can be considered that han and retainers in the closing days of the Tokugawa Shogunate positioned gunchujo as a symbol of their rank as bushi.Now the question arises: What is the historical meaning of this gunchujo? According to the historical sources, in early times the reporting and acknowledgement of martial exploits to receive rewards was made verbally in the presence of a commander. However, during the battles of the Mongol Invasions (1274 and 1281) , the Shogunate government who were the arbitrators of rewards resided in Kamakura, far from the battle area. The battles were on a large scale and the number of bushi wishing acknowledgement of military exploits numerous; therefore, for the first time bureaucratic work to confirm acknowledgement of military exploits by means of documents was carried out. Afterward, documents related to military affairs were standardized, and procedures concerning acknowledgement of military exploits were systematized, consequently becoming those documents on military affairs used during the period of the Northern and Southern Dynasties, in which battles were fought in many regions over a prolonged period.In the late 15th century, however, most documents on military affairs changed to a simple citation to praise military exploits, and throughout Japan the remaining examples of gunchujo and other documents to record and report military exploits significantly decreased. Later, however, daimyo (feudal lords) and bushi in the western part, who wanted to display their strong connection with the Shogunate, started to use gunchujo and kubichumon again, reviving the old customs and manners of samurai families of the Muromachi Shogunate, and in the high season of the Warring States period, they were increasingly drawn up in the domains of the Otomo and Mori clan warlords.Moreover, after the establishment of the Hideyoshi administration, a system to acknowledge military exploits was further refined in the form of a military exploit report and a document confirming its acceptance, as symbolized by hana uketorijo (the nose receipt documents) issued during the attempted conquest of Korea. After the Battle of Sekigahara (1600) , and the two Sieges of Osaka (1614 and 1615) , a massive amount of military exploit record documents were created; the Shimabara Uprising (1637–1638) , which is regarded as the last battle in the beginning of earlymodern times, also gave rise to numerous gunchujo created by "outside" daimyo families and their retainer families in Kyushu. Gunchujo at this period specifically described details of a bushi's military action and deeds, and formal elements are minimal. In addition, these documents were kept, managed, and stored in the residence of a daimyo as a basic material to report military exploits to the Tokugawa family, as well as to provide evidence for the allocation of rewards to retainers. In due course, even after the formal completion of the actual acknowledgement procedure, many samurai families came to collect their military exploit records and incorporated them into their family tradition and history as very important evidence confirming their relation with the Tokugawa family. The Shogunate as well came to compile such records of military exploits.As described above, by following the genealogy of military exploit records, it has been found that gunchujo, which first appeared for the very practical purpose of acclaiming military exploits and receiving rewards, subsequently developed in two directions. In one direction their function as a document for administrative procedure was further refined, and they came to be kept as a record of an application by the side granting acknowledgement, not by the side making the application; and in the other direction they were absorbed into the family tradition as a "memory of the family," becoming a kind of physical verification to be handed down through the generations, in other words, a reliable source for honoring and commemorating the memory of a family's ancestors.The gunchujo of the Hagi han in the last days of the Tokugawa Shogunate can also be positioned in a genealogical record where the record of military exploits changed from the Warring States period through to early-modern times, and reached the end with the Shimabara Uprising. One can safely state that this also suggests an aspect whereby the military soldier of modern times tenaciously carried on the mores of medieval and early-modern bushi.
著者
三成 美保 姫岡 とし子 小浜 正子 井野瀬 久美恵 久留島 典子 桜井 万里子 小川 眞里子 香川 檀 羽場 久美子 荻野 美穂 富永 智津子 桃木 至朗 成田 龍一
出版者
奈良女子大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究の主な成果は、以下の3つである。①三成・姫岡・小浜編『歴史を読み替えるージェンダーから見た世界史』2014年と長野・久留島・長編『歴史を読み替えるージェンダーから見た日本史』2015年の刊行。②前者(『読み替える(世界史編)』)の合評会を兼ねた公開シンポジウムの開催(2014年7月)。③科研費共同研究会(比較ジェンダー史研究会)独自のウェブサイト(http://ch-gender.jp/wp/)の開設。このウェブサイトは、『読み替える』の情報を補足すること及びジェンダー史WEB事典として活用されることをめざしている。また、高校教科書の書き換え案も提示している。
著者
林 譲 横山 伊徳 加藤 友康 保谷 徹 久留島 典子 山家 浩樹 石川 徹也 井上 聡 榎原 雅治 遠藤 基郎 大内 英範 尾上 陽介 金子 拓 木村 直樹 小宮 木代良 近藤 成一 末柄 豊 藤原 重雄 松澤 克行 山田 太造 赤石 美奈 黒田 日出男 高橋 典幸 石川 寛夫
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2008-05-12

東京大学史料編纂所が60年間にわたって収集・蓄積した採訪史料マイクロフィルムをデジタル化し、ボーンデジタルによる収集の仕様を確立し、一点目録情報などのメタデータを付与したデジタルデータを格納するアーカイヴハブ(デジタル画像史料収蔵庫)を構築し公開した。あわせて、デジタル画像史料群に基づく先端的プロジェクト・歴史オントロジー構築の研究を推進し、研究成果を公開した。
著者
久留島 典子
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.182, pp.167-181, 2014-01

戦功を記録し、それを根拠に恩賞を得ることは、武士にとって最も基本的かつ重要な行為であるとみなされており、それに関わる南北朝期の軍忠状等については研究の蓄積がある。しかし戦国期、さらには戦争がなくなるとされる近世において、それらがどのように変化あるいは消失していくのか、必ずしも明らかにされていない。本稿は、中世と近世における武家文書史料の在り方の相違点、共通点を探るという観点から、戦功を記録する史料に焦点をあてて、その変遷をみていくものである。明治二年、版籍奉還直前の萩藩で、戊辰戦争等の戦功調査が組織的になされた。そのなかで、藩の家臣たちからなる軍団司令官たちは、中世軍忠状の典型的文言をもつ記録を藩からの命令に応じて提出し、藩も中世同様の証判を据えて返している。これを、農兵なども含む有志中心に編成された諸隊提出の戦功記録と比較すると、戦死傷者報告という内容は同一だが、軍忠状という形式自体に示される儀礼的性格の有無が大きな相違点となっている。すなわち幕末の藩や藩士たちは、軍忠状を自己の武士という身分の象徴として位置付けていたと考えられる。ではこの軍忠状とは、どのような歴史的存在なのか。恩賞給与のための軍功認定は、当初、指揮官の面前で口頭によってなされたとされる。しかし、蒙古襲来合戦時、恩賞決定者である幕府中枢部は戦闘地域を遠く離れた鎌倉におり、一方、戦闘が大規模で、戦功認定希望者も多数にのぼったため、初めて文書を介した戦功認定確認作業がおこなわれるようになったという。その後、軍事関係の文書が定式化され、戦功認定に関わる諸手続きが組織化されていった結果が、各地域で長期間にわたって継続的に戦闘が行われた南北朝期の各種軍事関係文書であったとされる。しかし一五世紀後半にもなると、軍事関係文書の中心は戦功を賞する感状となり、軍忠状など戦功記録・申告文書の残存例は全国的にわずかとなる。ところがその後、軍忠状や頸注文は、室町幕府の武家故実として、幕府との強い結びつきを誇示したい西国の大名・武士たちの間で再び用いられ、戦国時代最盛期には、大友氏・毛利氏などの戦国大名領国でさかんに作成されるようになった。さらに豊臣秀吉政権の成立以降、朝鮮への侵略戦争で作成された「鼻請取状」に象徴されるように、戦功報告書とその受理文書という形で軍功認定の方式は一層組織化された。関ヶ原合戦と二度の大坂の陣、また九州の大名家とその家臣の家では、近世初期最後の戦争ともいえる島原の乱に関する、それぞれ膨大な数の戦功記録文書が作成された。この時期の軍忠状自体は、自らの戦闘行動を具体的に記したもので、儀礼的要素は希薄である。しかもそれらは、徳川家へ軍功上申するための基礎資料と、恩賞を家臣たちに配分する際の根拠として、大名の家に留めおかれ管理・保管された。やがてこうした戦功記録は、徳川家との関係を語るきわめて重要な証拠として、現実の戦功認定が終了した後も、多くの武家で、家の由緒を示す家譜等に編纂され、幕府自体も、こうした戦功記録を集成していくようになった。以上のように、戦功記録の系譜を追ってくると、戦功を申請し恩賞に預かるというきわめて現実的な目的のために出現した軍忠状が、その後、二つの方向へと展開していったことが指摘できる。一つは事務的手続き文書としての機能をより純化させ、戦功申告書として、申請する側ではなく、認定する側に保管されていく方向である。そしてもう一つは、「家の記憶」の記録として、家譜や家記に編纂され、一種の由緒書、つまり記念し顕彰するための典拠となっていく方向である。最初に考察した幕末萩藩の軍忠状も、戦功の記録が戦国時代から近世にかけて変化し、島原の乱で、ある到達点に達した、その系譜のなかに位置づけられる。そしてこのことは同時に、近代以降の軍隊が、中世・近世武士のあり方から執拗に継受していった側面をも示唆するといえる。It is commonly considered that after distinguished war service or performing acts of valor, their recording and the acquiring of rewards in recognition are the most fundamental and important practice of a bushi ( warrior) , and many studies have been conducted on gunchujo ( requests for recognition of military success and heroic deeds) made during the period of the Northern and Southern Dynasties (1336–1392) . However, it has not been completely clarified how gunchujo changed, disappeared, and reappeared during the period of the Warring States (1493–1590) and later were used in early-modern times during which internally Japan was at peace. To explore both the differences and common points found in documents from the archives of samurai families of the medieval period and early-modern times, this paper focuses on historical materials that record meritorious service in war and examines changes to their content, style and the system of application.In 1869, just before the return of the han ( domain) registers to the Meiji Emperor, a survey on military exploits in the Boshin War and other wars was systematically conducted among samurai families in the Hagi han. In compliance with the directions given by the han, the chief retainers submitted records with phrasing typical of medieval period gunchujo. The han then returned these records to the samurai with a seal of proof similar to those used in the medieval period. When these records are compared with other records of military exploits submitted by volunteer corps including peasant soldiers, war casualties and war dead are commonly described, but a significant distinction is whether they were written in the typical format and style of gunchujo or not. In other words, it can be considered that han and retainers in the closing days of the Tokugawa Shogunate positioned gunchujo as a symbol of their rank as bushi.Now the question arises: What is the historical meaning of this gunchujo? According to the historical sources, in early times the reporting and acknowledgement of martial exploits to receive rewards was made verbally in the presence of a commander. However, during the battles of the Mongol Invasions (1274 and 1281) , the Shogunate government who were the arbitrators of rewards resided in Kamakura, far from the battle area. The battles were on a large scale and the number of bushi wishing acknowledgement of military exploits numerous; therefore, for the first time bureaucratic work to confirm acknowledgement of military exploits by means of documents was carried out. Afterward, documents related to military affairs were standardized, and procedures concerning acknowledgement of military exploits were systematized, consequently becoming those documents on military affairs used during the period of the Northern and Southern Dynasties, in which battles were fought in many regions over a prolonged period.In the late 15th century, however, most documents on military affairs changed to a simple citation to praise military exploits, and throughout Japan the remaining examples of gunchujo and other documents to record and report military exploits significantly decreased. Later, however, daimyo (feudal lords) and bushi in the western part, who wanted to display their strong connection with the Shogunate, started to use gunchujo and kubichumon again, reviving the old customs and manners of samurai families of the Muromachi Shogunate, and in the high season of the Warring States period, they were increasingly drawn up in the domains of the Otomo and Mori clan warlords.Moreover, after the establishment of the Hideyoshi administration, a system to acknowledge military exploits was further refined in the form of a military exploit report and a document confirming its acceptance, as symbolized by hana uketorijo (the nose receipt documents) issued during the attempted conquest of Korea. After the Battle of Sekigahara (1600) , and the two Sieges of Osaka (1614 and 1615) , a massive amount of military exploit record documents were created; the Shimabara Uprising (1637–1638) , which is regarded as the last battle in the beginning of earlymodern times, also gave rise to numerous gunchujo created by "outside" daimyo families and their retainer families in Kyushu. Gunchujo at this period specifically described details of a bushi's military action and deeds, and formal elements are minimal. In addition, these documents were kept, managed, and stored in the residence of a daimyo as a basic material to report military exploits to the Tokugawa family, as well as to provide evidence for the allocation of rewards to retainers. In due course, even after the formal completion of the actual acknowledgement procedure, many samurai families came to collect their military exploit records and incorporated them into their family tradition and history as very important evidence confirming their relation with the Tokugawa family. The Shogunate as well came to compile such records of military exploits.As described above, by following the genealogy of military exploit records, it has been found that gunchujo, which first appeared for the very practical purpose of acclaiming military exploits and receiving rewards, subsequently developed in two directions. In one direction their function as a document for administrative procedure was further refined, and they came to be kept as a record of an application by the side granting acknowledgement, not by the side making the application; and in the other direction they were absorbed into the family tradition as a "memory of the family," becoming a kind of physical verification to be handed down through the generations, in other words, a reliable source for honoring and commemorating the memory of a family's ancestors.The gunchujo of the Hagi han in the last days of the Tokugawa Shogunate can also be positioned in a genealogical record where the record of military exploits changed from the Warring States period through to early-modern times, and reached the end with the Shimabara Uprising. One can safely state that this also suggests an aspect whereby the military soldier of modern times tenaciously carried on the mores of medieval and early-modern bushi.
著者
久留島 典子 林 譲 本郷 恵子 柴山 守 有川 正俊 山口 英男 遠藤 基郎 木村 直樹 山家 浩樹 馬場 基 山田 太造 近藤 成一 小宮 木代良 古瀬 蔵
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2014-04-01

前年度に引き続き東大史料編纂所歴史情報システム(以下、SHIPSと略記)が擁するDB群から、各DBに格納された人物情報を抽出し、人物情報レポジトリへとデータ移行を推進した。レポジトリへ移行を可能とするDB数もさらに2つ増加し、計19種へと拡大することで、総登録データ数は約42万件に達した。前近代における人物情報を総覧する環境が整いつつあり、これを軸として、地理情報・史料典拠情報・史料目録情報といった情報との連接を視野に入れたところである。SHIPS-DBから人物情報レポジトリを参照・応答するAPIについては、前年度に構築したシステムを基盤として、より詳細な応答を実現するモジュールを「新花押データベース」内に実装した。花押を記した人物を比定するために、随意にレポジトリ参照が可能となったことは、より正確な情報蓄積を進めるうえで極めて有効と言ってよい。また人物レポジトリを直接検索するためのインターフェイス(「人名典拠サービスモジュール」)が安定的に運用されるに至り、多様な検索に応答しうる環境が整備されつつある。蓄積データのシームレスな運用という観点からは、前年度に引き続き、人物情報レポジトリ総体のRDFストア化を推進し、検索結果をRDF形式で出力するためのAPIの安定運用を実践することで、オープンデータ環境への移行を目指した。地理情報レポジトリについては、外部参照用APIの運用を開始し、国立歴史民俗博物館の「荘園データベース」との連携を実現した。
著者
三成 美保 粟屋 利江 村上 薫 小浜 正子 鈴木 則子 小野 仁美 長 志珠絵 山崎 明子 桃木 至朗 河上 麻由子 野村 鮎子 久留島 典子 井野瀬 久美惠 姫岡 とし子 永原 陽子 落合 恵美子
出版者
奈良女子大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2020-04-01

「アジア・ジェンダー史」の構築に向けて、次の3つの課題を設定して共同研究を行う。①「アジア≪で≫問うジェンダー史」に関する史資料の収集・整理、②高校「歴史総合」のための「アジア≪を≫問うジェンダー史」教材の作成、③アジア諸国の研究者と協力して「アジア≪から≫問うジェンダー史」研究を発展させることである。研究成果は書籍として刊行するほか、比較ジェンダー史研究会HP(https://ch-gender.jp/wp/)を通じて広く国際社会に成果を公表する。とくに②については、高校教員との対話や共同作業を通じて、ジェンダー視点から歴史教育の発展をはかるためのテキスト・資料を作成・提供する。
著者
白井 啓一郎 耒代 誠仁 井上 聡 久留島 典子 馬場 基 渡辺 晃宏 中川 正樹
雑誌
研究報告人文科学とコンピュータ(CH)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.7, pp.1-6, 2013-01-18

汚損,破損,および経年変化が著しい古文書から抽出した字形には多くのノイズが見られる.このような字形にノイズ除去のための汎用の画像処理手法を適用した場合,字形の細部が失われることがある.筆者らは,異方性拡散と距離画像を組み合わせることで,字形の本質的な形状を保存するノイズ除去のための画像処理手法を実現した.本稿では,古文書に記された字形を含む画像にこの画像処理手法を適用した結果を示すと共に検証を行う.Character shapes extracted from historical documents with stains, damages and time-related degradations contain much noise. General-purpose image processing for noise reduction often shaves off the detail of the character shapes. We have implemented new image processing for noise reduction that consists of anisotropic diffusion and geodesic morphology. In this manuscript, we show several results of the image processing applied to character shape image of historical documents and make considerations of the results.
著者
井上 寛司 山岸 常人 小林 准士 平 雅行 久留島 典子 関根 俊一 淺湫 毅 松浦 清 大橋 泰夫 小椋 純一 和田 嘉宥 的野 克之 田中 哲雄 松本 岩雄 鳥谷 芳雄 花谷 浩 山内 靖喜 野坂 俊之 石原 聡
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

天台宗の古刹である浮浪山鰐淵寺は、中世出雲国一宮出雲大社の本寺として創建され、極めて重要な役割を果たした。本研究は、鰐淵寺に対する初めての本格的な総合学術調査であり、鰐淵寺の基本骨格や特徴、あるいは歴史的性格などについて、多面的な考察を加え、その全容解明を進めた。
著者
久留島 典子
出版者
日本史研究会
雑誌
日本史研究 (ISSN:03868850)
巻号頁・発行日
no.572, pp.51-65, 2010-04