著者
出口 顯
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.169, pp.7-28, 2011-11-30

スカンジナビア諸国では,不妊のカップルが子供をもつ選択肢として国際養子縁組が定着している。養子はアジア・アフリカ,南アメリカの諸国を出生国としており,国際養子は異人種間養子でもあり,親子の間に生物学的・遺伝子的絆がないのは,一目瞭然である。彼らの間では,遺伝子や血縁といった自然のつながりより,日々の生活をともにしたつながりが親子の絆として大切にされている。最近の国際養子縁組においては,養子に受け入れ国の一員としてだけでなく,出生国の文化を担った人間でもあるダブルアイデンティティをもたせようという考え方が浸透している。そのような中,国際養子が不妊になり,実子ではなく養子縁組によって家族を新たに形成するとき,養子の出生国選択の理由は何によるのか,養父母になった国際養子5例の事例を紹介し,生物学的特徴の類似性が決して重要ではないことを浮き彫りにする。
著者
出口 顯
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.221-241, 2015

本稿ではヌアーとディンカの宗教研究におけるエヴァンズ=プリチャード(E-P)とリーンハートの思想の意義を、近年のアニミズム的存在論にも言及しながら検討する。まずシベリアのチュクチの供犠において生け贅の代用について論じるウィレスレヴの議論とE-Pによるヌアーの供犠における代用の解釈を比較する。代用を可能にする類似性が物質と物質のあいだにみられ、観念は物質の一形態であると説くウィレスレヴに対して、代用において類似しているのは観念と観念であると説くE-Pは、観念と物質の非連続性を強調する。ついで、人間から遠くかけ離れていながらも人間の生活に直接介入し体験される神の存在を理解するために、インゴルドによるメッシュワークという考え方を応用する。人間は神が張り巡らし神の一部でもあるメッシュワーク上にあり、人がメッシュワークに絡み取られる経験の相に応じて、現れる神の姿は異なる。そしてこの神と人々の経験の結びつきをさらに論じたのがリーンハートである。「力」(神性や神霊)がディンカの経験のイメージであるとリーンハートが言うとき、イメージとは視覚的印象ではなく、連続した生の経験を一定の配置のもとで人々に把握させ、経験への対処を定めさせるものである。「カ」が過去の出来事の保管庫であるなら記憶は「力」という外部から人間に到来するものであり、人の心は「力」の介入を俟ってはじめて成立する。リーンハートのこの思想は「機械の中の幽霊ドグマ」で有名な哲学者ライルの影響を受けているが、彼らと照らし合わせるとき、ヴィヴェイロス・デ・カストロやデッコラのアニミズム論は、彼らが批判しているはずの心身二元論という「機械の中の幽霊ドグマ」を乗り越えていないことがわかる。E-Pも心身二元論とは異なる立場にいたが、Nuer Religionは神観念をめぐるシニフィアンとシニフィエの安直な連結を解体する試みとして読まれるべきである。
著者
出口 顯
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.439-459, 2002-03-30 (Released:2018-03-27)

臓器移植は生命の贈り物といわれるが、いかなる意味で「贈り物」なのかを考えたい。少なくともそれはモースが考察の対象とした「アルカイック」な贈与とは異なることがアメリカでの臓器移植を積年研究してきたフォックスとスウェイジー批判で示される。さらにこの問題を考えるとき、人類学で培われた贈与理論がどの程度有効なのかを、ワイナーとゴドリエからマリリン・ストラザーンへと、比較的新しい理論からそれ以前の理論へいわば脱構築しながら検討する。ゴドリエの理論は「贈与」されるのが生命それ自体であり、臓器はその表象であることを明らかにするのに有効であるが、西洋近代の人格概念を前提にしているため、ドナーと自らの二つの人格あるいは生命が併存する共同体として自己を受けとめるレシピアントの体験を据えきれない欠点がある。むしろ、ストラザーンのメラネシアの人格観のモデルが、そうした体験をうまく説明できるものとなっている。しかしストラザーンのモデルでは、柄谷行人の言う「他者」が不在であり、また柄谷にしてもストラザーンにしても「自己」が「他者」化する可能性は全く考慮されていない。自己自身にとって他者となる自己という主題を考察してきたのは、さらに時間を遡るが、レヴィ=ストロースである。自己の内部に出現する他者や侵入者というその視点から、臓器移植は概して外部からの侵入者の物語であることがわかるが、それを内部の侵入者としてとらえる余地はないか最後に検討を試みてみる。
著者
出口 顯
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.439-459, 2002-03-30

臓器移植は生命の贈り物といわれるが、いかなる意味で「贈り物」なのかを考えたい。少なくともそれはモースが考察の対象とした「アルカイック」な贈与とは異なることがアメリカでの臓器移植を積年研究してきたフォックスとスウェイジー批判で示される。さらにこの問題を考えるとき、人類学で培われた贈与理論がどの程度有効なのかを、ワイナーとゴドリエからマリリン・ストラザーンへと、比較的新しい理論からそれ以前の理論へいわば脱構築しながら検討する。ゴドリエの理論は「贈与」されるのが生命それ自体であり、臓器はその表象であることを明らかにするのに有効であるが、西洋近代の人格概念を前提にしているため、ドナーと自らの二つの人格あるいは生命が併存する共同体として自己を受けとめるレシピアントの体験を据えきれない欠点がある。むしろ、ストラザーンのメラネシアの人格観のモデルが、そうした体験をうまく説明できるものとなっている。しかしストラザーンのモデルでは、柄谷行人の言う「他者」が不在であり、また柄谷にしてもストラザーンにしても「自己」が「他者」化する可能性は全く考慮されていない。自己自身にとって他者となる自己という主題を考察してきたのは、さらに時間を遡るが、レヴィ=ストロースである。自己の内部に出現する他者や侵入者というその視点から、臓器移植は概して外部からの侵入者の物語であることがわかるが、それを内部の侵入者としてとらえる余地はないか最後に検討を試みてみる。