著者
宮武 慶之
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-17, 2021-03

江戸の材木商・冬木屋上田家は多くの優れた道具を所蔵したことで著名であるものの流出後の所有者についての研究では松平不昧(一七五一│一八一八)が述べられるに過ぎない。流出後の冬木屋道具の所蔵者は江戸時代後期の茶の湯文化史や美術史で重要な位置を占めると考えられるが、その実態や移動に関しては検討の余地がある。本稿では冬木屋からの道具流出に関係した本屋惣吉親子すなわち了我(一七五三生)、了芸(一七九〇生)に着目する。その理由は二代了芸による箱墨書が冬木屋道具の移動に関する資料となりうるからである。特に坂本周斎(一六六六│一七四九)による『中興名物記』(別に千家中興名物記とも)に所載される冬木屋道具の中には了芸による箱墨書が確認できる。さらに売立目録の図版中の了芸の箱墨書からかつて冬木屋が所蔵した道具に関する記述を確認した。これらを資料として活用することで、冬木屋道具の移動と了芸との関係性を明確にする。
著者
宮武 慶之
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.18, pp.235-246, 2020-03

江戸時代中期から後期にかけて江戸で活躍した道具商である竹本屋は三代にわたり五兵衛を名乗った。祖父五兵衛は『古画備考』の記述から従来、英一蝶(一六五二│一七二四)との関係が中心に述べられてきた。また父孤雲は川上不白(一七一六│一八〇七)の門人である。さらに子の五兵衛は松平不昧(一七五一│一八一八)の茶会記に登場し、また『雲州蔵帳』に所載される水指を取り次いでおり、茶の湯道具との関係も少ないない。さらに五兵衛は江戸時代後期にも活躍したことが知れ、江戸の鳥羽屋に出入りしたことが知られている。従来、竹本屋五兵衛は祖父が一蝶と親しくした点が触れられているに過ぎず、孤雲については井上如雪による『牡丹考』(一九九六)で紹介しているが、竹本屋の活動を明らかにしたものではない。 そこで本稿では『古画備考』の記述を起点として、竹本屋の三代にわたる活動を明らかにする。
著者
宮武 慶之 Yoshiyuki Miyatake
出版者
同志社大学文化情報学会
雑誌
文化情報学 = Journal of culture and information science (ISSN:18808603)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1-2, pp.154-140, 2022-03-31

江戸の地廻り酒問屋である鴻池屋永岡家が所蔵した「五節句図」(大倉集古館蔵)には抱一書簡二通が付属し従来、宛名の鴻儀とは作画を依頼した永岡伊三郎とされてきた。しかしながら鴻池屋歴代の活動時期は明らかにされていない。そこで鴻池屋が江戸町会所御用達であった点に着目し、御用達に関する記録から鴻池屋歴代の活動時期を区分し抱一書簡を再検討することで当時の周縁を明確にする。
著者
宮武 慶之
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.59, pp.37-62, 2019-10-10

江戸時代後期に茶の湯道具の収集で著名な松江藩七代藩主松平治郷(不昧/一七五一~一八一八)の元には多くの道具商が集った。この道具商のうちの一人に本屋惣吉(了我/一七五三生)がいる。本屋惣吉については、従来、元は貸本屋であり、冬木家の道具流出に関与し、それらの道具を不昧に売却したことが知られる。また天保年間に成立した『江戸名物詩(初編)』では江戸新右衛門町角の道具商である本惣を紹介しており当時、成功したことがわかる。しかしながら、不昧と親しくし、今日でも著名な美術品の取引に関与した人物でありながら、その行状についてはこれまで明らかにされていない。また了我の後を継いだ人物として了芸(一八五七か一八五八没)がいる。新右衛門町にあった本惣は近代まで事業を続け、質商として活動していた。了芸、了我親子の行状を明らかにすることは江戸時代後期の江戸での美術品移動と本惣の経営形態を考える上でも重要と考える。そこで本稿では次の二点について論じる。一点目は本惣と不昧との交流である。不昧に多くの道具を取り次ぐ一方で、不昧に近侍し、その用をなしたことが確認できる。特に道具の取り次ぎと、茶会への参加を中心に論じることとする。二点目は本惣が天保年間に江戸で有力な道具商になっていた点に注目した上で、人と金の流れに注目する。人の動きに関しては、了芸が長命であった点に加え、子である了芸、また同じ新右衛門町に店を構えた本屋吉五郎(生没年不詳)の活動を考察の対象とする。金の動きに関しては、了我や了芸の頃の本惣の理財活動に注目する。近代の本惣は、質商と地主を兼ねており、金融と土地の観点から、本惣の初期の経営形態を明らかにする。以上の二点を中心として、これまで明らかにされていない不昧と本惣の創業の関係を明らかにする。
著者
宮武 慶之
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.37-62, 2019-10-10

江戸時代後期に茶の湯道具の収集で著名な松江藩七代藩主松平治郷(不昧/一七五一~一八一八)の元には多くの道具商が集った。この道具商のうちの一人に本屋惣吉(了我/一七五三生)がいる。本屋惣吉については、従来、元は貸本屋であり、冬木家の道具流出に関与し、それらの道具を不昧に売却したことが知られる。また天保年間に成立した『江戸名物詩(初編)』では江戸新右衛門町角の道具商である本惣を紹介しており当時、成功したことがわかる。
著者
宮武 慶之
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.252-223, 2015-03-01

江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。
著者
宮武 慶之
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.252-223, 2014

江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。In the Edo period, the Mizoguchi House governed the Shibata-Niigata district. In Meiji 37, items from the Mizoguchi House were sold off. However, very few records from those days remain. A writer discovered Tsurezure-no-tomo, which is a document articling the sale of items in the Meiji Era. Tsurezure-no-tomo was written by Ginsho-an, Kitaro Matsuyama. In a part for a main subject, the background out of which the tool of Mizoguchi house flows Tsurezure-no-tomo into reference is discussed.
著者
宮武 慶之
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.13, pp.252-223, 2014

江戸時代を通じ溝口家は新潟新発田を中心とした下越地方を治めた。歴代藩主は文芸や茶の湯に親しんだため、多くの道具を所蔵した。それらの道具の大半は明治三七年の売立およびそれ以前の個人取引で流出した。溝口家の売立目録は確認されていない。調査により松山喜太郎(一八三六─一九一六)による「つれづれの友」を息子・米太郎(一八七〇─一九四二)が写した写本の存在を確認した。「つれづれの友」には溝口家の売立に関する記述があり、この点から当時の周縁を明らかにする。本稿では筆者のこれまでの調査から美術品の移動とそれに関係する人物の関係、溝口家の当時の家政状況などを明らかにした。調査により溝口家の道具流出は当時の当主であった溝口直正の意向と次女・久美子の輿入れも関係していることが判明した。明治期の溝口家のコレクションの大半が流出する点を明らかにすることができれば近世大名家の道具流出の実態の一例を溝口家においてみることができるものと考える。