著者
大塚 英志 小松 和彦 安井 眞奈美 エルナンデス アルバロ 荒木 浩 劉 建輝
出版者
国際日本文化研究センター・プロジェクト推進室
雑誌
日文研大衆文化研究叢書 全5巻序論集
巻号頁・発行日
2022-03-17

国際日本文化研究センターによる大衆文化研究プロジェクト(人間文化研究機構機関拠点型基幹研究プロジェクト「大衆文化の通時的・国際的研究による新しい日本像の創出」)の成果として刊行された「日文研大衆文化研究叢書」シリーズ全5巻 [『日本大衆文化史』(KADOKAWA, 2020年9月)、『禍いの大衆文化 : 天災・疫病・怪異』(KADOKAWA, 2021年7月)、『身体の大衆文化 : 描く・着る・歌う』(KADOKAWA, 2021年11月)、『〈キャラクター〉の大衆文化 : 伝承・芸能・世界』(KADOKAWA, 2021年11月)、『戦時下の大衆文化 : 統制・拡張・東アジア』(KADOKAWA, 2022年2月)] の序論を集めたもの
著者
小松 和彦

講書始の儀におけるご進講の内容(平成31年1月11日)
著者
小松 和彦 コマツ カズヒコ
雑誌
井上円了選集
巻号頁・発行日
vol.21, pp.449-463, 2001-05-20
著者
篠田 知和基 吉田 敦彦 丸山 顕徳 松村 一男 中根 千絵 鈴木 正崇 不破 有理 服部 等作 山田 仁史 立川 武蔵 後藤 敏文 荻原 真子 木村 武史 後藤 明 廣田 律子 近藤 久美子 竹原 新 坂井 弘紀 諏訪 春雄 小松 和彦 鷹巣 純 栗原 成郎 依田 千百子
出版者
広島市立大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2009-04-01

世界神話の基本的な二元構造を日本神話、ギリシャ神話、エジプト神話、インド・イラン神話、オセアニア神話、シベリア神話、アメリカ神話などにさぐった。明暗、水中の火、愛の二元性、罪と罰、異界と常世などのテーマでシンポジウムをおこない、それぞれの論文集を刊行した。生死、善悪の問題はそのつど検討された。最後は聖と穢れについて総括討論会をおこなった。その結果、世界神話は聖なるものを水中の火のような矛盾した概念のなかに追及するものであることがあきらかになった。
著者
小松 和彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
「日本研究」再考 : 北欧の実践から
巻号頁・発行日
pp.11-13, 2014-03-31

「日本研究」再考 : 北欧の実践から

2 0 0 0 OA 妖怪

著者
小松 和彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
妖怪
巻号頁・発行日
2007-05-21
著者
小松 和彦 コマツ カズヒコ
雑誌
井上円了選集
巻号頁・発行日
vol.21, pp.449-463, 2001-05-20
著者
小松 和彦 板橋 作美 常光 徹 小馬 徹 徳田 和夫 關 一敏 内田 忠賢 高田 衛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
1999

三年計画の研究は以下の四つのテーマに従って展開され、成果がまとめられた。(1)怪談・妖怪関係資料の収集及び民俗調査:全国各地(青森・東京・福島・千葉・石川・富山・新潟・愛知・京都・香川・愛媛・高知・福岡・長崎・沖縄等)でおこない、報告書(冊子体)に各分担者が三年間の調査・研究をまとめた。(2)怪異伝承データベース構築のための事例収業とカード化:民俗学関係雑誌さらには近世の随筆から妖怪・怪異関連の記事を抜き出し、情報カードの作成を行なった。作成した情報カードの件数は13,364件にのぼり、それらの書誌情報のコンピュータ入力を終了した。一般公開をみこした怪異伝承データベースの利用方法についての議論は今後の課題であるが、民俗学における妖怪・怪異研究の動向把握など現時点でも幅広い活用が期待できる。(3)怪異・妖怪研究の研究動向調査:網羅的な文献リストを作成した。また追加で妖怪・怪異研究に従事している外国人研究者のリストを調査可能な限りにおいて作成した。今回の調査で、日本の妖怪・怪異は近年関心を集め続けてきたことがわかった。.今後予定しているインターネットを通じた怪異伝承データベースの公開は国際的に価値の高い情報発信となることが予想される。(4)一般公開:本研究の成果の一部は、国立歴史民俗博物館の企画展「異界万華鏡」に生かされた。またSCS討論会「異界ルネッサンス」を催した。これは国際日本文化研究センターと国立歴史民俗博物館の間で衛星中継による公開テレビ討諭会である。いずれも一般入場者からの高い関心を得た。
著者
小松 和彦
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.115-136, 1996-03-29

死はさまざまなイメージで語られる。生者にとって,死の体験を語ることができない限り,死は外在的なものであり,他人の死を眺め,その死の体験を想像し,そのイメージを作り上げることによってしか死を表現することができない。物部の葬送儀礼では,まずそのイメージは「生」のカテゴリーの象徴的逆転として語り示される。日常における「右」の強調に対して「左」の強調,日常の作法に対するその逆転の作法,等々。そうした葬式の作法によって「死」のカテゴリーが形成され,そして,そうした「死」の記号は死の記号であるがために,死という出来事の回りに配置され,日常生活のなかに持ち込むことがタブーとされることになる。日本では,葬式にこうした「死」の記号が用いられるのは一般的なことに属するが,物部の葬式ではそれがかなり徹底しているといっていいだろう。物部の葬式は,死者の霊の「あの世」への追放と「あの世」での再生を期待したモチーフを強調した儀礼となっている。その典型的儀礼行為が,山伏の宿借りを拒絶する奇妙な儀礼的問答(山伏問答)であろう。死出の旅に発ったはずの死者の霊が立ち戻ってくるということを演劇化したこの儀礼は,亡くなったばかりの死者とは,あの世に行くのを好まずに現世に戻ってくるものなのだ,という観念を前提にしており,物部の人々の死を迎える気持ちや死後観を如実に伝えているといえる。物部の葬送儀礼では,西方浄土観が強調されている。しかし,それは葬送儀礼が仏教の影響を強く受けているためであって,それ以前は,古代の地下の冥界にもつながるような他界観を持っていたことが「みこ神」儀礼などからうかがうことができる。しかし,西方浄土観にせよ,地下他界観にせよ,そのイメージはきわめて素朴で,現世こそ楽園であるということを強調している。一種の異装習俗である「師走男に,正月女」の埋葬習俗は,調査資料も乏しく,まだほとんど解明されていない習俗である。ここでの「異装」は,怨霊の一種である「七人みさき」に引かれるのを避けるために,「女」ならば「七人みさき」の災いが発現するので「女」を「男」とみせかけて埋葬する,いわば「トリック」である。「異装」して埋葬するという奇妙な埋葬法に関心が向かいがちであるが,むしろ問題の核心は,なぜ正月という「時」に「女」が死ぬと「七人みさき」が発現するのか,という点にある。物部村に限ったことではないが,葬送儀礼に参加した人たちは儀礼的ケガレ,いいかえれば一種の日常生活からの隔離の状態に入る。物部では,これを「ブクがかかる」と称している。物部では,ブクと呼ばれるケガレは死,出産,婚礼の際に生じるという。いわゆる誕生・結婚・死の人生における大きな節目に当たり時にブクが生じるのである。この人生の節目に当たる儀礼で共食するとブクがかかるという。したがって,物部では,ブクは儀礼に参加した人々のカテゴリーを浮き上がらせる機能も帯びている。
著者
小松 和彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.39, no.2, pp.130-158, 1974

Manokusa Taro (A Lazy Boy) is one of the most famous tales in Otogi-Zoshi, a collection of short popular tales formed through Muromachi Era and early Edo Era. For an analysis of the tale, the following procedures are taken in this paper . First, its sequential structure obtained through morphological analysis is presented. Second, its component elements are extracted and re-arranged into various schemes of binary oppositions. Third, the relations between the sequential structure and the schemes of binary oppositions are considered on the assumption that the whole text forms a system of paragrammatical network. Many features of analytical interest have emerged as a result of these procedures, but in this paper only two problems are taken up. The first is concerned with the validity of the strongly supported theory that the tale should be included in the category of Honji tales. The second is an old problem as to why the protagonist Taro changes his character or role so often in accordance with different situations ; lazy beggar→faithful servant→reckless bandit→good poet→handsome nobleman→deity of love. The morphologcal structure common to Honji tales is generally as follows ; protagonist of noble or sacred origin degrades himself by some misfortunes and after a long wandering in exile filled with much suffering somehow re-establishes himself in his former status. Tales of this type usually account for the origins of certain Buddhism and/or Shinto deities. Adopting Bremond's morphological models, it is possible to say that Honji tales consist morhologically of "processus de degradation" and of "processus d'amelioration". In the tale in question, however, Taro is a lazy beggar apparently humble origin in the beginning, his noble descent being disclosed only at the end of the story. Thus we find in it only the "processus d'amelioration". For this reason, it is not appropriate to regard it as a Hanji tale. It could even be argued that the tale is a parody of Honji tales, a subject not discussed in this paper.