著者
山下 清海
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.32-50, 2009 (Released:2018-04-12)

本研究は,インドの華人社会の地域的特色について考察するとともに,コルカタのチャイナタウンの現状を記述・分析することを目的とした。インドの華人は,イギリス植民地時代の首都であったコルカタに集中してきた。広東省籍が最も多く,特に客家人が最大多数を占め,彼らの経済活動は皮革業と靴製造業に特化してきた。1962 年に発生した中印国境紛争に伴う両国の関係悪化により,海外へ「再移民」する華人が増加し,華人社会は衰退し,今日に至っている。インドにおいてチャイナタウンが唯一存在するコルカタには2つのチャイナタウンがある。ティレッタ・バザール地区は衰退しているが,中印国境紛争までは繁栄し,その名残として,会館,廟,華文学校などの華人の伝統的な施設が集中している。一方,タングラ地区は,近年の皮革業の衰退により,皮革工場から中国料理店への転換が著しく,今日では中国料理店集中地区となっている。
著者
山下 清海 小木 裕文 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.1-26, 2012

中国では,多くの海外出稼ぎ者や移住者を送出した地域を「僑きょう郷きょう」とよんでいる。本研究では,浙江省の主要都市である温州市に隣接し,伝統的な僑郷であった青田県が,新華僑の送出により,僑郷としての特色がいかに変容してきたかについて,現地調査に基づいて考察することを目的とした。 山間に位置し貧困であった青田県では,清朝末期には,特産品である青田石の加工品を販売するため,陸路でシベリアを経てヨーロッパに出稼ぎする者も少なくなかった。光緒年間(1875 ~ 1908 年)には,ヨーロッパよりも日本へ出稼ぎに出る者が増加した。しかし,関東大震災の発生後,日本への出稼ぎの流れは途絶え,青田人の主要な出国先はヨーロッパになっていった。 中国の改革開放政策の進展に伴い,海外渡航者が急増し,青田県では出国ブームが起こった。その主要な渡航先はスペイン,イタリアを中心とするヨーロッパであった。海外在住者からの送金・寄付・投資などにより,僑郷である青田県の経済は発展した。ヨーロッパ在住者やヨーロッパからの帰国者の影響は,僑郷の景観や住民のライフスタイルにも現れている。
著者
山下 清海
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.13, no.3, pp.253-269, 2020 (Released:2021-03-16)
参考文献数
10
被引用文献数
4

1990年代以降,日本各地で新たな「中華街」の建設が実施され,あるいは計画段階で頓挫した例もみられた。本稿は,これら両者がモデルとした横浜中華街の成功要因の究明を通して,日本における地域活性化におけるエスニック資源の活用要件について考察した。まず,屋内型中華街として,立川中華街,台場小香港,千里中華街,および大須中華街の四つの例を取り上げ,それぞれの設立の背景や特色,閉業の経過・要因などを検討した。次に,構想段階で消滅した中華街として,仙台空中中華街,新潟中華街,札幌中華街,苫小牧中華街,福岡21世紀中華街を取り上げ,構想に至るまでの経過や問題点などを検討した。これらの検討を受けて,地域活性化におけるエスニック資源活用の成功事例として,横浜中華街の観光地としての変遷とその背景などについて考察した。以上の結果,エスニック資源を活用した地域活性化には,エスニック集団,ホスト社会,そして行政の三者の協力関係の樹立が不可欠であることが明らかになった。
著者
山下 清海
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
Geographical review of Japan, Series B (ISSN:02896001)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.83-102, 1986-12-30 (Released:2008-12-25)
参考文献数
28
被引用文献数
4 4

本稿は,シンガポールにおける華人方言集団のすみわけパターンとその形成要因について考察した.すみわけパターンを把握するために,華人会館や廟の分布,および華人会館会員の分布を,いくつかの時期ごとに地図化した.その結果,次のようなすみわけパターンが明らかになった。 華人の居住はシンガポール川の南岸地区(大披)から始まり,福建人,潮州人,および広東人の三大方言集団が,そこを大きく3つの地区にすみわけた.一方,移住時期が遅れた海南人,福州人,興化人などの少数方言集団がおもに居住したのは,シンガポール川の北岸地区(小披)であった.そこには3大方言集団も多数居住し,少数方言集団と互いにモザイク状にすみわけた. このように,華人方言集団のすみわけパターンは,シンガポール川を挾み,その南岸と北岸で著しい対照をなした.これらのすみわけパターンは, 1968年頃においても大きな変化はなかった. 以上のすみわけパターンの分析に基づいて,次にすみわけパターンの形成要因について考察した.華人移民は故郷を出発する時からシンガポールで生活を始めるまで,客頭,客桟,猪仔館などをとおして,7連の地縁的な鎖によって結ぼれていた.このような地縁的連鎖は,すみわけを促す要因の1つであった. 華人方言集団の内部には,すみわけを形成する内的要因が認められた・華人は方言集団内部の相互扶助に期待して,また,言語,宗教,食事習慣をはIじめ,自己の伝統文化を保持したいという欲求を抱いて集中居住し,アーパン・ヴィレッジを形成した.このようなアーバン・ヴィレヅジを核として,華人方言集団のすみわけは拡大していった. 華人の経済活動の特色について検討した結果,それぞれの華人方言集団は,特定の職業分野で卓越し,専門化する傾向が顕著に認められた.このことは,特定の華人方言集団の地域的集中を強める結果となり,すみわけを助長した。
著者
山下 清海
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.42-42, 2004

今日、世界の華人社会は、ダイナミックに膨張と拡散を続けている。中国では、1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い、新たに海外へ移住する者、すなわち「新移民」が急増した。香港では、1997年の香港の中国返還を前に、海外移住ブームとなり、多数の香港人が移住した。台湾でもアメリカを中心に海外移住の流れが続いている。 東南アジアでは、1970年代半ばからベトナム戦争やインドシナの社会主義化で、ボートピープルなどの難民(華人が多く含まれる)が流出した。いったん東南アジアや南アメリカなどへ移住した華人が、さらに北アメリカやヨーロッパなど他の地域へ移住して行く現象を、中国では「再移民」と呼んでいる。 従来の伝統的な華人社会は、「新移民」や「再移民」の増加によって、大きな変容を迫られている。 本研究は、このような最近におけるアメリカ華人社会の変容を、ロサンゼルス大都市圏を対象に考察するものである。考察に際しては、ダウンタウンのオールドチャイナタウンと、新しく郊外に形成されたニューチャイナタウン(モントレーパーク、ローランドハイツ)を比較しながら進めていく。なお、現地調査は、2003年8月と2004年7月に実施した。
著者
江 衛 山下 清海
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.106, 2003

最近における華人社会をグローバルスケールでみた場合、その大きな特色の一つは、華人の「新移民」および「再移民」の増加である。華人社会研究においては、中国の改革・開放政策の進行以後の中国大陸出身の新しい移民や1997年の香港の中国返還を前にした移民ブームで海外に移住した香港人、さらには最近の台湾人移民などを「新移民」と呼んでいる。また、いったん東南アジアや南アメリカなどへ移住した華人(ベトナム系華人など)が、さらに他の地域へ移住して行く現象を「再移民」と呼んでいる。 従来の伝統的な華人社会は、新移民や再移民の増加によって、大きな変容を迫られている。アメリカやカナダでは、従来のチャイナタウン(オールドチャイナタウン)の中に新移民や再移民が流入する一方で、彼らによる新しいチャイナタウン(ニューチャイナタウン)も形成されている(山下,2000)。 今日および今後の華人社会を考察する上で、これら新移民と再移民の動向に注目する必要がある。在日華人社会に関する従来の研究においては、横浜・神戸・長崎の日本三大中華街や伝統的華人社会を対象にした研究が多く、最近における華人新移民に焦点を当てた研究は乏しい。 外国人登録者数に基づく『在留外国人統計』の中国人(中国籍保有者)の人口をみると、1982年末の中国人は59,122人であったが、20年後の2002年末現在の中国人は424,282人に膨らんでいる。本研究では、日本において増加する華人新移民の動態を明らかにするために、埼玉県川口市芝園団地における中国人ニューカマーズの集住化のプロセスとそこにおける彼らの生活実態を明らかにすることを目的とする。 なお、本研究が対象とする華人新移民のほとんどが中国大陸出身のニューカマーズであることから、本研究では、中国大陸出身(香港・台湾出身者を除く)の華人新移民という意味で中国人ニューカマーズという語を用いることにする。 一般に華人社会の研究においては、関連の統計の不足に加えて、華人の警戒心の強さなどから聞き取り調査やアンケート調査の実施は容易ではない。本研究では、共同研究者の一人が中国出身者すなわち「同胞」である点を生かして、研究対象者との信頼関係を徐々に築きながら、出身地・学歴・職業・来日時期などについて聞き取りおよびアンケート調査を実施し、芝園団地への集住化のプロセスについて考察し、芝園団地在住の中国人ニューカマーズの生活の実態について明らかにした。
著者
山下 清海
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.9, no.3, pp.249-265, 2016 (Released:2018-04-04)
被引用文献数
1

1970年代以降,日本では在留外国人が増加し,国籍別の構成にも大きな変化がみられるようになった。本稿では,特定の外国人集団のみに焦点を当てるのではなく,多様な在日外国人の動向を日本全体でとらえることに努めた。とりわけ,2008年のリーマンショックおよび2011年の東日本大震災を契機とする在日外国人を取り巻く状況の大きな変化を明らかにし,その要因について考察することを目的とした。第二次世界大戦後の在日外国人の動向とその背景について,第1期(1970年代以前),第2期(1980年代~2008年),そして第3期(2009年以降~現在)に分けて検討した。特にリーマンショックおよび東日本大震災の影響を受けた第3期は,在日外国人の状況が,これまでと大きく異なる新しい段階に入ったことを指摘した。すなわち日系ブラジル人の減少,および「ポスト中国」として,ベトナム人,ネパール人などの留学生・技能実習生の急激な増加がみられた。外国人ニューカマーは,ホスト社会の日本で多様な適応戦略を採っているが,それらの中でも特徴的な中国大陸出身者が経営する「台湾料理店」,およびネパール人の「インド・ネパール料理店」の経営の背景に借り傘戦略があることを明らかにした。
著者
齋藤 譲司 市川 康夫 山下 清海 Yamashita Kiyomi
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.56-69, 2011

本稿では横浜における外国人居留地と横浜中華街の変容について報告する。横浜は開港から150 年間が経過した。その歴史を鑑みると,外国人居留地の建設に始まり,関東大震災や戦災,港湾機能の強化,華人の集住による中華街の形成など地域が目まぐるしく変化してきた。本稿では横浜開港の経緯について述べた後,外国人居留地の状況と変容,外国人向けの商店施設が集積した元町,最後に居留地の中で華人が集住して形成された横浜中華街について報告する。150 年の歴史の中で横浜の景観は大きく変容し,開港当時の景観や外国人居留地の様子を窺い知ることは難しい。しかし,19 世紀に描かれた絵地図と照らし合わせることで現在の景観と比較することが可能であった。近年では,「歴史を活かしたまちづくり」や「中華街街づくり協議会」が発足し,横浜の外国人居留地は新たな段階に進んでいる。
著者
山下 清海 尹 秀一 松村 公明 杜 国慶
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.503, 2008

1.問題の所在<BR> 1970年代末以降の改革開放政策の進展に伴い,中国では,海外への留学や出稼ぎなどの出国ブームが起こり,これは現在でも継続している。今日,世界の華人社会は,ダイナミックに膨張と拡散を続けており,従来の伝統的な「華僑像」ではとらえきれない新しい局面を迎えている。日本においても,1980年に52,896人であった在留中国人(中国籍保有者)は,2007年には606,889人となり,韓国・朝鮮人(593,489人)を抜いて,国籍別で初めて第1位となった。<BR> 本報告は,中国の改革開放政策実施後,日本において急増した華人ニューカマー(いわゆる「新華僑」)の日本への送出プロセスの解明を目的に進めている研究プロジェクトの中間報告である。今回の発表では,中国東北地方,特に吉林省延辺朝鮮族自治州での現地調査の成果を中心に発表する。現地調査は,遼寧省の瀋陽・大連,黒龍江省のハルビン,吉林省の長春・延辺朝鮮族自治州(州都は延吉)で,2006~2008年の毎年夏に実施し,特に延辺朝鮮族自治州での調査に重点を置いた。各調査地では,日本語学校,大学の日本語教育機関,海外留学・労務斡旋会社,日本渡航経験者,日本在留者の留守家族,日系企業などを対象に聞き取り調査,資料収集を行った。また,並行して,日本国内の華人ニューカマーからの聞き取り調査も実施した。<BR><BR>2.日本における東北出身者の増加<BR> 在留外国人統計に基づいて,日本在留中国人人口の推移をみると,華人ニューカマーが増加したのは,1978年末の中国の改革開放政策実施後,とりわけ1980年代後半以降である。在日中国人人口が増加する過程で,非常に興味深い特色は,出身地(本籍地)の変化である。<BR> 日本政府は1983年に「留学生10万人計画」を打ち出し,就学生の入国手続きを簡素化した。一方,中国政府は1986年,公民出境管理法を施行し,私的理由による出国も認めるようになった。このような日中両国の規制緩和により,中国から就学ビザや留学ビザで来日する者が急増した。<BR> 当時の中国人就学・留学生の多くは,上海市と福建省の出身であった。しかし,2007年には在日中国人(606,889人)のうち,_丸1_遼寧省16.1%,_丸2_黒龍江省10.3%,_丸3_上海市9.5%,_丸4_吉林省8.5%の順となり,遼寧・黒龍江・吉林の東北3省(東北地方)を合計すると全体の34.9%(211,951人)を占めるまでになった。<BR><BR>3.東北地方出身ニューカマーの中国における送出プロセス<BR> 2000年の中国の人口センサスによれば,中国の55の少数民族のうち,朝鮮族は人口順で13位(1,923,842人)であり,その大多数は東北地方に居住している。朝鮮語は文法や発音などで日本語と類似しており,朝鮮族にとって日本語は,外国語の中で最も学び易く,大学入学の外国語科目の試験では得点が取り易い外国語であった。1980年代後半から,就学ビザを取得して日本へ渡航できるようになると,東北地方では,特に日本語能力の高い朝鮮族の間で,日本への留学ブームが起こった。朝鮮族にとっては,最も身近な外国は韓国であるが,韓国より多くの収入が得られ,子どもの時から学校では,英語でなく日本語を外国語として学んできた朝鮮族にとって,日本は渡航希望先として第1の国であった。先に日本へ行った親類や友人を頼り,チェーン・マイグレーションにより日本へ渡航する朝鮮族が増加していった。東京の池袋駅や新大久保駅周辺には,朝鮮族が開業した中国東北料理店や中国朝鮮料理店などが集中している。延辺朝鮮族自治州の延吉郊外の朝鮮族の村では,若者の多く(男女とも)が,日本や韓国に渡航したまま帰国せず,海外からの送金によって高齢者ばかりが生活している村がみられる。<BR> 東北地方における外国企業では,韓国企業の進出が最も目覚ましいが,日本企業も韓国に次いで重要な地位を占めている。特に大連には日本企業のコールセンターやソフト関連施設が多数設けられ,日本語能力が高い人材が求められている。東北地方は,中国国内でも日本語学習者や日本留学希望者が多い地域である。日本語を習得して大連,さらには上海,深圳などの沿海地域の大都市に進出した日系企業への就職を志望する者が多い。<BR> 近年の中国国内の留学ブームを反映して,大連,瀋陽,ハルビン,長春,延吉など東北地方の主要な都市には多数の外国語学校・留学斡旋会社がある。2003年に発生した福岡一家4人殺害事件(犯人の3人の中国人留学生のうち2名は吉林省出身)以後,日本留学のビザ申請に対する日本側の審査が厳格化したため,外国語学校や留学斡旋会社では,主要な渡航先であった日本から,重点を韓国への留学や出稼ぎに切り替えている
著者
山下 清海 張 貴民 杜 国慶 小木 裕文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.33, 2011

1.はじめに<BR> 中国では,多くの海外出稼ぎ者や移住者を送出した地域を「僑郷」(華僑の故郷という意味)とよんでいる。報告者らは,すでに在日華人の代表的な僑郷の一つである福建省北部の福清市で調査研究を行った(山下ほか 2010)。<BR> 今回の一連の発表(1)~(3)では,現地調査に基づいて,僑郷としての青田県の変容とその背景について考察する。現地調査は,2009年12月および2010年8月において,青田県華僑弁公室,青田県帰国華僑聯合会,青田華僑歴史陳列館,郷・鎮の華人関係団体などを訪問し,聞き取り調査,土地利用調査,資料収集などを実施した。<BR> 本発表(1)では,とくに在日華人の伝統的な僑郷としての青田県の地域的特色について考察するとともに,今日に至るまでの僑郷としての変容をグローバルな視点から概観する。<BR> 研究対象地域の青田県は,浙江省南部の主要都市,温州市の西に隣接する県の一つで,1963年に温州市から麗水市に管轄が変わったが,歴史的にも経済的にも隣接する温州市の影響を強く受け,温州都市圏に属しているといえる。青田県の中心部である鶴城鎮は温州市の中心部から約50km離れており,高速道路を使えば車で1時間あまりである。青田県は,面積2484km2,人口49.9万(2009年末)で,そのうち83.4%は農業人口という農村地域である(青田県人民政府公式HP)。<BR> 本研究の研究対象地域として青田県を選定した理由としては,青田県が在日華人の伝統的な僑郷であったこと,中国の改革開放後,青田県から海外(とくにヨーロッパ)へ移り住む「新華僑」が急増していること,海外在住の青田県出身華人との結びつきにより,青田県の都市部・農村部が大きく変容していることがあげられる。<BR><BR>2.青田県からヨーロッパ,日本への出国<BR> 青田県出身者の出国は,青田県特産の青田石の彫刻を,海外で売り歩くことから始まった。清朝末期には,すでに陸路シベリアを経由して,ロシア,イタリア,ドイツなどに渡った青田県出身者が,青田石を販売していた。第1次世界大戦中の1917年,イギリスやフランスは不足する軍事労働力を補うために中国人(参戦華工という)を中国で募集し,多くの青田県出身者もこれに応じ,終戦後,多数が現地に残留した。ヨーロッパの伝統的な華人社会においては,浙江省出身者が多いが,その中でも青田県出身の割合は大きく,改革開放後の青田県出身の「新華僑」の増加の基礎は,同県出身の「老華僑」が築いたものといえる。<BR> 一方,日本への渡航をみると,光緒年間(1875~1908)には,出国者はヨーロッパより日本に多く渡っている。初期には日本でも青田石を販売していたが,しだいに工場などで単純労働に従事するようになった。日本の青田県出身者は東京に多く,関東大震災(1923年)および直後の混乱時の日本人による虐殺により,青田県出身者170人が犠牲となった。<BR> ちなみに福岡ソフトバンクホークス球団会長の王貞治の父,王仕福は,1901年,青田県仁庄鎮で生まれ,1921年に来日した。1923年,関東大震災に遭遇し,一旦帰国したが,1924年に再来日した。<BR><BR>3.改革開放後の新華僑の動向と僑郷の変容<BR> 今日の青田県は,都市部においても農村部においても,僑郷としての特色が,人びとの生活様式にも景観にも明瞭に反映されている。<BR> 青田県の中心部,鶴城鎮には外国語学校のポスターが各所に貼られている。ポスターに書かれている学校で教えられている外国語は,イタリア語,スペイン語,ドイツ語,英語,ポルトガル語であり,この順番は出国先の人気や出国者の多さを示している。また,最近ではワインを飲んだり,西洋料理を食する習慣が浸透し,ワイン専門店や西洋料理店・カフェなどの開業が続いており,ヨーロッパ在住者が多い僑郷としての特色が強まっている。<BR> 農村部においても,イタリアやスペインから帰国した者や,出国の準備をしている者が多く,帰国者や在外華人の留守家族などによる住宅の建設が各地で見られる。<BR><BR>〔文献〕<BR> 山下清海 2010. 『池袋チャイナタウン-都内最大の新華僑街の実像に迫る-』洋泉社.<BR>山下清海・小木裕文・松村公明・張貴民・杜国慶 2010. 福建省福清出身の在日新華僑とその僑郷.地理空間 3(1):1-23.<BR>
著者
山下 清海 小木 裕文 松村 公明 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-23[含 英語文要旨], 2010

本研究の目的は,日本における老華僑にとっても,また新華僑にとっても代表的な僑郷である福建省の福清における現地調査に基づいて,僑郷としての福清の地域性,福清出身の新華僑の滞日生活の状況,そして新華僑の僑郷への影響について考察することである。 1980年代後半~1990年代前半における福清出身の新華僑は,比較的容易に取得できた就学ビザによる集団かつ大量の出国が主体であった。来日後は,日本語学校に通いながらも,渡日費用,学費などの借金返済と生活費確保のために,しだいにアルバイト中心の生活に移行し,ビザの有効期限切れとともに不法残留,不法就労の状況に陥る例が多かった。帰国は,自ら入国管理局に出頭し,不法残留であることを告げ,帰国するのが一般的であった。 1990 年代後半以降には,福建省出身者に対する日本側の審査が厳格化された結果,留学・就学ビザ取得が以前より難しくなり,福清からの新華僑の送出先としては,日本以外の欧米,オセアニアなどへも拡散している。 在日の新華僑が僑郷に及ぼした影響としては,住宅の新改築,都市中心部への転居,農業労働力の流出に伴う農業の衰退と福清の外部からの労働人口の流入などが指摘できる。また,新華僑が日本で得た貯金は,彼らの子女がよりよい教育を受けるための資金や,さらには日本に限らず欧米など海外への留学資金に回される場合が多く,結果として,新華僑の再生産を促す結果となった。Based on field research in Fuqing City (Fujian Province, China), this paper is aimed to investigate the living situation of Chinese newcomers in Japan, as well as the regional characteristics of this representative emigrant area for both Chinese oldcomers and newcomers, and how the newcomers affected their hometown. During the period from late 1980 s to early 1990 s, most of newcomers from Fuqing City came to Japan in groups with easily acquired "Pre-college Student Visa". Learning in Japanese schools, such newcomers kept doing part time jobs to earn their living wages, tuition and the cost to Japan, and gradually their life goals changed to part time jobs from study. Numerous newcomers chose to stay and work illegally for a few years when their visas are no longer valid, and present themselves to the Immigration Bureau, admit their illegal stay and go back to China at last.With the enforcement of strict examination on visa applications from Fujian Province in late 1990s, visa of student or pre-college student became quite difficult to acquire, and newcomers from Fuqing City changed their emigrant destination from Japan to other areas such as Europe, America and Oceania, etc.Under the influence of Chinese newcomers in Japan to their hometowns, their houses were built or reformed, their families moved from suburban to urban areas, agriculture declined and labor moved in from other areas because of local labor lost. Furthermore, newcomers diverted their saving acquired in Japan for their or their children' abroad education in Europe and America as well as Japan, and as a result, stimulated the reproduction of Chinese newcomers.
著者
山下 清海 小木 裕文 張 貴民 杜 国慶
出版者
地理空間学会
雑誌
地理空間 (ISSN:18829872)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.95-120, 2013 (Released:2018-04-05)

ハルビン市方正県は,第二次世界大戦の終戦末期,満蒙開拓団の日本人が多数亡くなったところである。と同時に,終戦後,残留孤児・残留婦人として多くの日本人が現地に残されたところでもある。1972 年の日中国交正常化後は,方正県の中国残留邦人が,家族とともに日本へ帰国し,また同郷人を日本へ呼び寄せ,方正県は数少ない「中国北方の僑郷」とよばれるようになった。本研究では,方正県における現地調査にもとづいて,方正県がいかにして在日新華僑の僑郷に発展していったのかを明らかにすることを目的とした。日中国交正常化以後,日本人による水稲作の技術指導により,方正県の水稲栽培は飛躍的に発達し,良質の方正県産米はブランド米となっている。中国残留邦人の日本への帰国に伴い,血縁・地縁関係を利用して数多くの方正県人が親族訪問,出稼ぎ,国際結婚,留学などの形で日本へ行き,日本に定住または長期滞在するようになった。日本在留の方正県出身者の人口増加に伴い,方正県在住の親族への送金などによって,日本からの資金が方正県へ流入するようになった。地元政府も,僑郷の特色を活かした発展計画を進め,方正県の中心市街地も,日本との密接な関係を示す店舗や施設が多い。
著者
山下 清海
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>1</b><b>.はじめに</b><br> 世界各地に多数のチャイナタウンが形成され,特定のチャイナタウンの事例研究も多くなされている。しかし,グローバルな視点から,世界のチャイナタウンを比較研究し,それらの共通する特色や地域的特色を考察した研究は乏しい。<br> 1978年末以降の改革開放政策の実施後,海外へ移り住む中国人が急増し,彼らは中国では「新移民」と呼ばれる。新移民は,移住先のホスト社会への適応様式において,以前から海外に居住していた「老華僑」とは大きく異なる。本研究では,「老華僑」と比較するために,「新移民」のことを「新華僑」と呼ぶことにする。<br> 従来,アフリカ大陸は,南アフリカを除き,いわば華人空白地帯であった。しかし,中国政府のアフリカ重視政策に伴って,アフリカ大陸各地に,多数の新華僑が移り住んでいる。このようなアフリカ大陸における新華僑の実態については,マスメディアで注目されているが,アフリカの新華僑に関する研究はまだ少ない。そこで本研究では,アフリカの中でも,最大の華人人口を有する南アフリカの最大都市ヨハネスブルグにみられる新旧のチャイナタウンに着目し,ヨハネスブルグのチャイナタウンの地域的特色を明らかにすることを目的とする。2018年9月,3ヵ所のチャイナタウンにおいて,土地利用調査,聞き取り調査などを行った。<br><br><b>2</b><b>.オールドチャイナタウン~ファースト・チャイナタウン~</b><br> 世界のチャイナタウンは,おもに老華僑によって形成されたオールドチャイナタウンと,新華僑によって形成されたニューチャイナタウンに二分できる。CBDの近くに形成されたファースト・チャイナタウン(First Chinatown,中国語では第一唐人街または老唐人街と呼ばれる)が,ヨハネスブルグのオールドチャイナタウンである。<br> 1991年のアパルトヘイト関連諸法の撤廃後,CBDは衰退し,そこに大量の移民が集住し、治安が悪化した。これに伴い,ファースト・チャイナタウンは衰退し,新華僑もここに居住することはなかった。現在,ファースト・チャイナタウンには,杜省(トランスバール)中華会館(1903年創立)や杜省華僑聯衛会所(1909年創立),中国料理店(3軒),その他の華人経営の店舗(4軒)が残るのみである。<br><br><b>3</b><b>.ニューチャイナタウン~シリルディン・チャイナタウン~</b><br> 新華僑は,治安が悪いヨハネスブルグ中心部を避けて,東郊に多く居住した。なかでもCBDからから北東約6kmの郊外に位置するシリルディンに新華僑が集住し,郊外型ニューチャイナタウンが形成された。中国・南アフリカ両国の政治的関係の強化に伴い,シリルディン・チャイナタウンは,2005年,「ヨハネスブルグ・チャイナタウン」(約翰内斯堡唐人街)としてヨハネスブルグ市に登録された。2013年には,牌楼(中国式楼門)も建設された。<br> シリルディン・チャイナタウンのメインストリート,デリック・アヴェニュー(Derrick Ave.,西羅町大街)の両側には,筆者の調査で華人関係の店舗・団体が38軒認められた。このほか、店舗の2階、3階などに「住宿」と書かれたゲストハウスやマッサージ店なども見られる。シリルディン・チャイナタウンでは、「超市」(超級市場の略語)の看板を掲げたスーパーマーケットと中国料理店が中核をなしている。<br><br><b>4</b><b>.モール型チャイナタウン~チャイナモール~</b><br> 一般にチャイナモール(China mall,中国商場)と呼ばれる新華僑経営の店舗が集中するショッピングモールが,Crown Cityなどヨハネスブルグの市内各地に形成されている。これらチャイナモールは,新華僑の重要な経済活動の場であるとともに,居住・生活の場でもあり,モール型ニューチャイナタウンである。チャイナモールでは,中国から輸入した様々な商品を現地向けに販売する新華僑が経営する店舗が集まっており,防犯のため,高い塀で囲まれ,自動小銃を構えた警備員が警戒している。<br> ヨハネスブルグでは,上述したような3つの類型のチャイナタウンを確認することができた。オールドチャイナタウンの衰退やチャイナモールの厳重警備も,治安悪化というヨハネスブルグ特有の地域的特色を反映しているといえる。<br><br>〔付記〕本研究を進めるにあたり,平成29~33年度科学研究費基盤研究(B)(一般)「地域活性化におけるエスニック資源の活用の可能性に関する応用地理学的研究」(課題番号:17H02425,研究代表者:山下清海)の一部を使用した。<br><b>文献</b><br>山下清海(2016):『新・中華街―世界各地で<華人社会>は変貌する』講談社.<br>山下清海(2019):『世界のチャイナタウンの形成と変容』明石書店.