著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.1-19[含 英語文要旨], 2010-03

旅の大衆化が進んだ江戸時代の後期、主体的に旅を楽しむ女性が多く存在したことは、近年とくに旅日記や絵画資料などの分析から明らかになってきた。しかしながら、講の代参記録のような普遍化した史料には女性の旅の実態が反映されないことから、江戸時代の女性の旅を体系的に理解することは難しいのが現状である。本稿では、個人的な旅日記を題材に、そこに記された女性の旅の実態を通して、旅を支えたしくみを考える。題材とした旅日記は、❶清河八郎著『西遊草』、❷中村いと著「伊勢詣の日記」、❸松尾多勢子著「旅のなくさ、都のつと」の3点である。❶は幕末の尊攘派志士として知られる清河八郎が、母を伴って無手形の伊勢参宮をした記録である。そこには、非合法な関所抜けがあからさまに行われ、それが一種の街道稼ぎにもなっていた事実が記されており、伊勢参宮を契機とした周遊の旅の普及にともない、女性の抜け参りが慣例化していた実態が示されている。❷は江戸の裕福な商家の妻が知人一家とともに伊勢参宮をした際の日記で、とくに古市遊廓での伊勢音頭見物の記録からは、旅における女性の遊興と、その背景にある確かな経済力を確認することができる。❸は、幕末期に平田国学の門下となった信州伊那の豪農松尾家の妻多勢子が、動乱の最中にあった京都へ旅をし、約半年にわたって滞在した記録である。特異な例ではあるが、身につけた教養をひとつの道具として、旅先の見知らぬ土地で自ら人脈を築き、その人脈を故郷の人々の利用に供したことは注目に値する。女性の旅人の存在は、街道や宿場のあり方にさまざまな影響を及ぼしたと思われる。とくに、後年イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが明記した日本の街道の安全性は、女性の旅とは不可分の関係にあり、江戸時代後期の日本の旅文化を再評価するうえで、今後さらに女性の旅の検証を重ねていくことが必要である。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.155, pp.1-19, 2010-03-15

旅の大衆化が進んだ江戸時代の後期、主体的に旅を楽しむ女性が多く存在したことは、近年とくに旅日記や絵画資料などの分析から明らかになってきた。しかしながら、講の代参記録のような普遍化した史料には女性の旅の実態が反映されないことから、江戸時代の女性の旅を体系的に理解することは難しいのが現状である。本稿では、個人的な旅日記を題材に、そこに記された女性の旅の実態を通して、旅を支えたしくみを考える。題材とした旅日記は、❶清河八郎著『西遊草』、❷中村いと著「伊勢詣の日記」、❸松尾多勢子著「旅のなくさ、都のつと」の3点である。❶は幕末の尊攘派志士として知られる清河八郎が、母を伴って無手形の伊勢参宮をした記録である。そこには、非合法な関所抜けがあからさまに行われ、それが一種の街道稼ぎにもなっていた事実が記されており、伊勢参宮を契機とした周遊の旅の普及にともない、女性の抜け参りが慣例化していた実態が示されている。❷は江戸の裕福な商家の妻が知人一家とともに伊勢参宮をした際の日記で、とくに古市遊廓での伊勢音頭見物の記録からは、旅における女性の遊興と、その背景にある確かな経済力を確認することができる。❸は、幕末期に平田国学の門下となった信州伊那の豪農松尾家の妻多勢子が、動乱の最中にあった京都へ旅をし、約半年にわたって滞在した記録である。特異な例ではあるが、身につけた教養をひとつの道具として、旅先の見知らぬ土地で自ら人脈を築き、その人脈を故郷の人々の利用に供したことは注目に値する。女性の旅人の存在は、街道や宿場のあり方にさまざまな影響を及ぼしたと思われる。とくに、後年イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが明記した日本の街道の安全性は、女性の旅とは不可分の関係にあり、江戸時代後期の日本の旅文化を再評価するうえで、今後さらに女性の旅の検証を重ねていくことが必要である。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01-31

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.167, pp.127-142, 2012-01

漁村から町場や農村への魚行商は、交易の原初的形態のひとつとして調査研究の対象となってきた。しかし、それらの先行研究は、近代的な交通機関発達以前の徒歩や牛馬による移動が中心であり、第二次世界大戦後に全国的に一般化した鉄道利用の魚行商については、これまでほとんど報告されていない。本論文では、現在ほぼ唯一残された鉄道による集団的な魚行商の事例として、伊勢志摩地方における魚行商に注目し、関係者への聞き取りからその具体像と変遷を明らかにすると同時に、行商が果たしてきた役割について考察を試みた。三重県の伊勢志摩地方では、一九五〇年代後半から近畿日本鉄道(以下、近鉄)を利用した大阪方面への魚行商が行われるようになった。行商が盛んになるに従って、一般乗客との間で問題が生じるようになり、一九六三年に伊勢志摩魚行商組合連合会を結成、会員専用の鮮魚列車の運行が開始される。会員は、伊勢湾沿岸の漁村に居住し、最盛期には三〇〇人を数えるほどであった。会員の大半を占めるのは、松阪市猟師町周辺に居住する行商人である。この地域は、古くから漁業従事者が集住し、戦前から徒歩や自転車による近隣への魚行商が行われていた。戦後、近鉄を使って奈良方面へアサリやシオサバなどを売りに行き始め、次第にカレイやボラなどの鮮魚も持参して大阪へと足を伸ばすようになった。それに伴い、竹製の籠からブリキ製のカンへと使用道具も変化した。また、この地区の会員の多くは、大阪市内に露店から始めた店舗を構え、「伊勢屋」を名乗っている。瀬戸内海の高級魚を中心とした魚食文化の伝統をもつ大阪の中で、「伊勢」という新たなブランドと、当時まだ一般的でなかった産地直送を看板に、顧客の確保に成功した。そして、より庶民的な商店街を活動の場としたことにより、大阪の魚食文化に大衆化という裾野を広げる役割をも果たしたのではないかと考えられる。Fish peddling from fishing villages to towns or farming villages, as a primitive trade form, has been the subject of studies. Previous studies, however, were mainly conducted on fish peddling on foot or by cattle and horse before the development of modern transportation, and there have been few reports about fish peddling by railway, which became prevalent over the country after World War II. In this paper, focusing attention on fish peddling in the Ise-Shima region as an example of the only one remaining collective fish peddling by railway, a concrete image of it and changes are clarified from interviews with the persons concerned, and the role that the peddling played is considered.In the Ise-Shima region in Mie Prefecture, fish peddling to the Osaka area using trains operated by Kintetsu Corporation (hereinafter referred to as Kintetsu) started in the latter half of the 1950s. As peddling became more active, problems between peddlers and general passengers increased. In 1963, the Ise-Shima Fish Peddling Association was formed, and fresh fish trains only for its members started operation. The members resided in fishing villages on the coast of Ise Bay, and the number of members exceeded 300 in its peak period.Most of the members were peddlers who resided around the Ryoushi-cho in Matsuzaka City. From long ago, this region has been home to many people engaged in the fishing industry, and from the prewar period, fish peddling to neighboring areas on foot or by bicycle was conducted. After the war, they began selling Japanese littleneck shell and salt mackerel to the Nara area by Kintetsu and gradually expanded the peddling to the Osaka area, carrying fresh fish such as righteye flounder and mullet. Along with the expansion, the tools they used changed from bamboo cages to tin cans. Many of the members in this region, who started trading at roadside stands, had their own shops called "Iseya" in Osaka City. In Osaka with its tradition of fish culture of mainly quality fish from the Seto Inland Sea, the new brand "Ise" and the direct-from-the-farm style, which was not common at that time, attracted people and led to the successful acquisition of customers. It is considered that by using shopping streets that were more familiar among ordinary people as their places of activities, it played the role of expanding the lower end of fish food culture in Osaka among the public.
著者
山本 志乃
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.181, pp.11-38, 2014-03

日本における定期市は,近代化の過程で多くが姿を消したが,一方で,現在でも地域の経済活動として機能していたり,形を変えて新たに創設されるものがあるなど,普遍性をもった商いの形である。定期市への出店を生業活動としてみた場合,継続的な取引を成り立たせる販売戦略がそこには存在する。本稿では,これを生業の技術のひとつと考え,現行の定期市における具体例を用いて分析を試みた。事例としたのは,藩政期にさかのぼる歴史をもつ高知の街路市で,親子2代約60年にわたって榊(サカキ)と樒(シキミ,本稿では地元の呼称にしたがってシキビと表記する)のみを扱ってきた店である。サカキとシキビはともに歳時習俗に関わる身近な植物であり,高知では年間通して需要がある。もとは山に自生するものを切り集めて売っていたが,1970年代より中山間地域の現金収入手段のひとつとしてとくにシキビの栽培が奨励されたことから,人工栽培された良質の枝を仕入れて販売するようになった。その際,キリコとよばれる伐採専門の技術者が,山主と契約してサカキ・シキビの管理・伐採に携わる。高知では概して,コバ(小葉)とよばれる小ぶりでつやのある葉が好まれる。こうした商品価値の高い枝に育てるのは,山主の丹念な消毒作業と,キリコの技術による。一方で街路市の売り手は,さまざまな技量を駆使し,安い単価で少しでも多くの荷を捌く。この店に対しては,品物の質がよいことと良心的であることが最大の評価として聞かれ,結果として多くの常連客を抱えている。つまり,山主・キリコ・売り手の3者それぞれがもつ技の連携によって,小規模ながらも客に対して最良の品を提供する流通を成り立たせてきたことになる。また売り手にとっては,この連携を継続することが究極の目標でもあり,街路市の商売に潜在する共存への指向性が改めて浮き彫りとなった。Regular markets held on fixed days of the week or month is one of general business forms in Japan. While many were disappearing in the modernization process, some are still working as a local economic activity, and some have been newly established in a different form. If you make a living by running a stall at a regular market, you need a sales strategy to continue your business. Regarding this as one of occupational techniques, this paper analyzes a concrete example of current regular market business.As a case study, this paper focuses on a shop that has only dealt in Japanese anise (shikimi, also known as shikibi in the study area) and cleyera (sakaki) for about 60 years over two generations at the street market in Kochi, whose history dates back to the feudal period. Both Japanese anise and cleyera are familiar plants used for seasonal events and celebrations, and they are in demand at all times of the year in Kochi. People used to gather branches from trees growing wild in the mountains for sale. Since the 1970s, however, as Japanese anise cultivation was promoted as one of ways for earnings in the hilly and mountainous areas, people have sold high-quality branches supplied by tree farms. Expert loggers called kiriko have been involved in this process through management and lumbering of Japanese anise and cleyera under contract with landholders. In Kochi, in general, branches with small, shiny leaves called koba are very popular. These commercially valuable branches can be produced by landholders' careful sterilization and loggers' high techniques.On the other hand, street market vendors make use of their various skills and keep prices low to sell as many products as possible. The store in this study is most highly evaluated for its good quality and trustworthiness, so it has a large patronage. It has collaborated with landholders and loggers by combining respective skills so that the distribution system can provide customers with best products, in spite of its small scale. Continuing this cooperation is vital for vendors. In other words, the study reveals the potential orientation of street market business to a harmonious relationship.