著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100025, 2017 (Released:2017-05-03)

軍用気象学への認識の高まりを受け、軍用気象会が昭和5年に設立されたが、陸軍の砲工・航空の両学校では必要に応じて(陸士卒)を中央気象台に短期派遣し、気象に関する講習を受講させていた。昭和6年からは、陸軍航空本部に教室を整備し、近接する中央気象台に依嘱して気象勤務要員の養成が行われた。第1・2回(昭和7・8年)各8名(大尉・中尉)が修学し、戦中期の陸軍気象部の中核を担う人材が養成された。 昭和10年8月、陸軍砲工学校内に附設の気象部が設立され、軍用気象学をはじめ、軍用気象勤務、気象観測、気象部隊の編成・装備・運用等の研究、軍用気象器材の研究・検定、兵要気象の調査、気象統計、兵要誌の編纂、気象要員の養成が主な業務であった。武官の職員には、武や古林などの気象勤務要員の教育を受けた将校も携わった。外部から気象学、物理学、数学関係の権威者を専任教官として講師に任命した。第1期生(昭和11年)は、荻洲博之、田村高、夕部恒雄、泉清水、中川勇の5名が入学し、修了後は気象隊、関東軍司令部、陸軍気象部、南方軍気象部等に派遣された。第2期生(昭和12年)も久徳通夫高他5名、第3期(昭和13年)は蕃建弘他4名の大尉や中尉が連隊等から派遣されている。 昭和13年4月、陸軍気象部令が公布され、陸軍砲工学校気象部が廃止されて陸軍気象部が創設された。「兵要気象に関する研究、調査、統計其の他の気象勤務を掌り且気象器材の研究及試験並に航空兵器に関する気象器材の審査を行ふ」と定められ、「各兵科(憲兵科を除く)将校以下の学生に気象勤務に必要なる学術を教育を行ふ」とされ、「必要に応じ陸軍気象部の出張所を配置する」とされた。組織は、部長以下、総務課(研究班、統計班、検定班を含む)、第一課(観測班、予報班、通信班)、第二課(学生班、技術員班、教材班)で構成され、気象観測所、飛行班も設けられた。ここでも、陸軍砲工学校気象部の出身者が班長を務め、嘱託として中央気象台長の岡田武松をはじめ、気象技師、著名な気象学者などの名前も見られ、中央気象台の技師が技術将校として勤務した。戦時下で企画院は気象協議会を設立し、陸軍・海軍と中央気象台・外地気象台の緊密な連繋、さらには合同勤務が図られた。昭和16年7月には、陸軍中央気象部が臨時編成され、陸軍気象部長が陸軍中央気象部を兼務することになり、昭和19年5月には第三課(気象器材の検定等)が設けられた。さらに、気象教育を行う部署を分離して陸軍気象部の下に陸軍気象教育部を独立させ、福生飛行場に配置した。終戦時には、総務課200名、第一課150名、第二課1,800名、第三課200名が勤務していた。 陸軍気象部では、例えば昭和15年には甲種学生20名、乙種学生80名、甲種幹部候補生92名、乙種幹部候補生67名に対して11カ月から5か月の期間で延べ259名の気象将校の養成が計画・実施されていた。また、中等学校4年終了以上の学力を有する者を採用し、昭和14年からの2年間だけでも675名もの気象技術要員を4か月で養成する計画を立て、外地の気象隊や関東軍気象部に派遣していた。戦地拡大に伴う気象部隊の兵員補充、陸軍中央気象部での気象教育、本土気象業務の維持のため、鈴鹿に第一気象連隊が創設された。昭和19年に入るとさらに気象部隊の増強が急務となり、第二課を改編して前述した陸軍気象教育部を新設し、新たに航空学生、船舶学生、少年飛行兵の教育を開始し、気象技術要員の教育も継続された。養成された気象将校や気象技術要員は、支那に展開した気象部(後に野戦気象隊、さらに気象隊に改称)をはじめ、外地に展開した気象部隊に派遣された。 第一課では、兵要気象、気象器材の研究・考案・設計、試作・試験が行われ、気象観測所の開設や気象部隊の移動にも十分に耐え得る改良が求められた。第二課では、高層気流・ラジオゾンデ観測と改良、ガス気象観測、台湾での熱地気象観測などが実施され、中央気象台や海軍の水路部などの測器との温度器差も測定された。さらに、気象勤務教程や気象部隊戦闘規範を作成して気象勤務が詳細に定められ、現地で実施されていた。陸軍気象部では作戦用の膨大な現地気象資料、陸軍気象部月報、現地の気象部隊でも各種の気象資料や気象月報が作成されていた。 終戦により膨大な陸軍気象部や気象部隊の書類・資料は機密保持の目的で大部分が焼却された。連合軍司令部は陸軍気象部残務整理委員会を立ち上げ、陸軍気象機関の指揮系統・編成、気象部隊の分担業務、気象器材の製作会社、陸軍気象部の研究調査内容、陸軍と海軍における気象勤務の協力状況、中央気象台との関係、さらには予報の種類、観測・予報技術など120頁にわたる報告書を作成させた。なお、終戦時に内地・外地に展開していた気象要員の総数は2万7千名にも達していた。
著者
山本 晴彦
出版者
The Society of Agricultural Meteorology of Japan
雑誌
農業気象 (ISSN:00218588)
巻号頁・発行日
vol.48, no.1, pp.77-83, 1992-06-10 (Released:2010-02-25)
参考文献数
14
被引用文献数
2 1
著者
立石 欣也 吉越 恆 山本 晴彦 岩谷 潔 金子 奈々恵 山本 実則 原田 陽子
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.19-28, 2012 (Released:2017-02-28)

本研究では、2004年に世界遺産に登録された和歌山県の「熊野参詣道」を対象として、小型で安価な焦電型人感センサを用いて、観光客の動態を分析した。人感センサは、観光名所である大門坂および険しい山岳ルートに位置する円座石に設置した。調査は、2010年4月23日から2011年6月16日に実施した。実測値との比較を行い、人感センサによるカウント値を補正した値を、通過人数とした。大門坂は円座石に比べ、通過人数が多く、大型観光バス等を利用して、気軽に世界遺産の雰囲気を楽しむ観光客が多いことが分かった。このように、人感センサは小型で安価であるため、多数の設置が可能であり、地域的な観光客の動態の把握が可能である。
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100029, 2017 (Released:2017-05-03)

明治4年、兵部省海軍部に水路局が設置され、翌5年には海軍省水路局となっている。明治6年10月には芝飯倉に海軍観象台が創設され、気象の毎時観測が開始されている。水路局は水路寮への改称を経て、明治9年には再び海軍省水路局に改称されている。同年には『気象略表』が発行され、10月には水路局の所掌に観象が追加され、観象台事務専任が置かれている。明治13年には長崎と兵庫に海軍気象観測所が設けられ、海軍観象台では天気予報が開始されている。明治15年、内務、文部両省、水路局の気象観測報告を一元化して海軍観象台が取りまとめている。明治19年には海軍水路部官制により、海軍水路部に改称され、天文、気象および磁気観測、測器試験、警報等の業務が追加されている。しかし、明治21年には海軍観象台の天文・地磁気関係の業務が文部省に、気象業務ならびに海軍気象観測所が内務省に移管され、これ以後、気象観測事業は内務省の主管となり、海軍水路部は水路部に改称されている。なお、明治27年からは海岸(海軍)望楼、同30年からは鎮守府での気象観測も開始された。第一次世界大戦へ参戦した海軍は、委任統治した南洋群島で大正4年より臨時南洋群島防備隊による気象観測を開始したが、同9年には南洋庁が設置されたことにより、気象業務は南洋庁観測所に移管されている。一方、国内では横須賀に日本初の海軍航空隊が開設され、翌年には霞ヶ浦海軍航空隊が開隊している。この時期に水路部から日本近海気象図や北太平洋気象図が発行されている。大正9年の水路部令により海象観測は水路部第四課の所管となり、気象観測業務は第一課(一部は第二課)が担当することとなった。昭和3年、海軍兵学校卒の山賀守治と大田香苗の大尉が、海軍大学校選科学生として東京帝国大学理学部の聴講学生として派遣され、気象将校としての人材養成が開始された。教程修了後は山賀が水路部員、大田は霞ヶ浦航空隊に気象士官が配員された。昭和8年には最初の水路部気象観測所が北千島の幌筵島塁山に開設され、これ以降、千島・樺太、南洋群島に観測所が遂次開設されている。同年9月には、海軍大演習において第四艦隊が三陸沖で台風に遭遇し、大事故(第四艦隊事件)が発生している。この事件を契機に、海軍内で気象業務や気象将校養成の重要性が次第に認識され始めていく。なお、昭和9年には海軍航海学校が開校し、ここで気象専攻学生(雀部利三郎、飯田久世他)として気象学の教程を修学させる方針に変更している。昭和11年、水路部に第五課が設置され、気象・海象の業務を所掌することとなった。翌12年には、中央気象台に海軍連絡室が設置され、気象通報や天気図作成に関して気象台との合同勤務が実施されている。同年11月には企画院気象協議会が設置され、陸軍、海軍、中央気象台の緊密な連繋が図られ、気象業務が軍用気象に取り込まれていく。日中戦争(支那事変)が起こり、戦地が拡大する最中、上海海軍気象観測所が設置された。昭和13年には、不足する気象技術員の養成を目的に、水路部で第1期の普通科気象技術員講習が開始される(昭和18年3月に第21期が修了)。また、文官技術者を中央気象台や大学や専門学校卒の採用、海軍委託生として採用後は中央気象台附属の測候(気象)技術官養成所に派遣し、実戦部隊へ配属させていた。昭和16年には水路部内に気象業務を所掌する第三部(第六課、七課)が新設され、同時に人材速成のための修技所(後に気象修技所)が設置され。大量の技工士が養成されている。また、中央気象台構内の海軍連絡室が水路部分室となり、海軍気象通報業務と予報業務を実施することとなった。外地では第二気象隊(上海)、第三気象隊(スラバヤ)が開隊され、パラオの海軍第四気象部がトラックに移動し、第四気象隊が開隊され、南洋庁気象台の職員が第四艦隊司令部附となっている。昭和17年4月、水路部内に海軍気象部が特設され、第一課、第二課が置かれて第三部の職員が兼務した。同年5月には第五気象隊(厚岸)、11月には第八気象隊(ラバウル)が開隊されているが、翌年2月にはガダルカナル島での敗戦により気象隊も撤退を余儀なくされている。水路部以外では、昭和18年4月には、海軍航海学校内に気象教育を専門とする分校が設置され、翌年7月には観測術教育を実施する阿見分校となり、昭和20年3月には阿見分校が独立して海軍気象学校が土浦に開設されている。昭和20年6月には、陸軍、海軍、中央気象台で陸海軍気象委員会が設置され、大本営気象部の開設が検討されたが、終戦により実現を見なかった。終戦後は海軍気象部の全気象業務が中央気象台に移管された。連合軍司令部より海軍の気象業務や気象器材に関する解答の作成が要求され、海軍気象部の大田早苗が残務整理班の中心となり回答書を10月15日に提出している。
著者
小林 北斗 山本 晴彦 原田 陽子
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.27-36, 2015 (Released:2017-02-28)

現在、小売業や商店街の店舗数は大型スーパーマーケットの存在や後継者不足等の要因で衰退の一途をたどっている。それらに加えて洪水による被害も衰退加速の要因となる場合があり、結果的に多くの店舗で廃業せざるを得ない状況に陥ってしまうこともある。特に、商店街における高齢化は深刻な問題である。そのため、自然災害の被害を受けた店舗への実態を把握し、様々な方面から支援を行うことが大事である。本内容では、現在の商店街における状況把握や今後の防災対策、避難行動へと還元することを目的に、自然災害、特に豪雨によって被害を受けた二つの商店街(2009年台風9号によって8月9日に兵庫県で発生した豪雨の被害を受けた佐用郡佐用町の佐用商店街と、2010年梅雨前線によって7月15日に山口県で発生した豪雨の被害を受けた山陽小野田市厚狭地区の厚狭商店街)についてアンケート調査を実施した。その結果、両商店街において回答の違いが見られ、浸水深の違いが影響していると推察される。また、住民と行政間でコミュニケーションを取り合うことが重要であり、高齢化の進む商店街への対策も併せて考える必要がある。
著者
山本 晴彦
出版者
日本海水学会
雑誌
日本海水学会誌 (ISSN:03694550)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.110-117, 2007 (Released:2013-02-19)
参考文献数
14
被引用文献数
1

“Saltdamage” in Crop is classified into three,(1) salt water damage,(2) salt wind damage, and (3) salt soil damage, according to the difference in a generating mechanism.This paper, it introduces about the characteristics of the salt wind damage by the typhoon 0415. Typhoon 0415 (T0415, MEGI) passed through the Sea of Japan coast of Hokuriku and Tohoku Districts on August 19-20, 2004. Agust of wind stronger than 30m/s was recorded in the coastal region, and a gust of wind at 38.3m/s, 39.6m/s, and 41.1m/s was observed in Aikawa, Sakata, and Akita, respectively. However, there was little rainfall before and after the passage of the typhoon. Consequently, the adhering salt entered the rice plant, and salty wind damage occurred by drying up the cells. Near the seashore, 2.7-3.2mg salt had adhered to the panicle, and the amount of salt adhesion per panicle (mg/panicle) negatively correlated with the distance from the seashore. The total amount of the agricultural damage by T0415 was 18 billion yen, 10,200million yen, and 7,200million yen in Ahta Prefecture, Yamagata Prefecture, and Niigata Prefecture, respectively. The amount of rice damage occupied three fourths of the whole crop The ratio to normal year of the rice yield fell greatly in Akita Prefecture (Kisakatacho, southern prefecture coast area) and Niigata Prefecture (Sadocity). In the Niigata Sado area and the Akita Honjo area, the quality of rice deteriorated remarkably.
著者
松本 淳 林 泰一 山根 悠介 小林 茂 寺尾 徹 山本 晴彦 釜堀 弘隆 久保田 尚之 赤坂 郁美 福島 あずさ 村田 文絵 藤波 初木 加藤 内藏進
出版者
首都大学東京
雑誌
基盤研究(S)
巻号頁・発行日
2014-05-30

国内で実施中のデータレスキュー研究活動をまとめ、国際的活動と連携するACRE-Japanを、本研究を中核として組織し、アイルランドと北京で開催された国際会議報告を国際共著論文にまとめた。またMAHASRIプロジェクトの後継となるアジアモンスーンに関する国際共同研究の立案を開始し、国内・国際ワークショップを主宰した。南アジアについては、旧英領インドの現ミャンマー・バングラデシュ領内の日降水量データの原本照合・品質チェックが完了し、過去120年スケールの長期変化傾向についての解析を進めた。インド北東部チェラプンジの104年間の日降水量データから、インド北東部のモンスーン活発期の発生機構を明らかにした。バングラデシュの1955年~1980年後半、インドアッサム州の1930年~1950年代後半までのシビアローカルストームデータベースを構築し、発生日の長期変動について解析した。スリランカの1860年代以降の日降水量データ収集した。東南アジアについては、フィリピンの過去115年間のモンスーン開始期および20世紀後半以降における降水の季節変化パターンの長期変動を解明した。日本とフィリピンの過去120年間の台風活動を調べ、近年の大きな被害を出した台風と類似の台風が過去にも上陸していたことを示した。中国については、日降水量データ(Zi-ka-wei)1890年代~1930年代のデジタル化を完了した。樺太、朝鮮、北支那における気象データの統合と検証を行い、東北部黒龍江省における温暖化解析と水稲冷害のリスク解析、東北部・内蒙古自治区の乾燥地帯における雨季の変動解析を行った。帝国日本の気象観測ネットワークに関する2冊の書籍を刊行した。東アジアの多彩な季節サイクルの長期変動解明を行なった。日本については、東海・四国地方の明治・大正期の日降水量データをデジタル化し、大雨発生の長期変化等を解析した。
著者
山本 晴彦 岩谷 潔 鈴木 賢士 早川 誠而 鈴木 義則
出版者
CROP SCIENCE SOCIETY OF JAPAN
雑誌
日本作物学会紀事 (ISSN:00111848)
巻号頁・発行日
vol.69, no.3, pp.424-430, 2000
被引用文献数
3

1999年9月24日早朝, 九州西岸に上陸した台風18号は, 九州を縦断し周防灘から山口県に再上陸し西中国地方を通過した後, 日本海に抜けた.台風の経路上および経路の東側に位置した気象官署では最大瞬間風速40m/s以上の強風が吹き, 最大風速も九州中南部を中心に20m/s以上を観測した.九州や西中国地方では台風の通過と満潮が重なり, 有明海沿岸や周防灘では高潮により堤防が決壊し, 農作物に塩害が発生した.台風に伴う九州7県の農作物および農業用施設の被害総額は914億円, 被害面積20万haにも及んだ.また, 山口県の小野田市や宇部市の消防本部では最大瞬間風速が52.0m/s, 58.9m/sの強風を観測した.宇部港では最高潮位が560cmを観測し, 推算満潮位351cmを209cmも上回る著しい高潮であった.このため, 周防灘に面した山口県内の市町では高潮災害が相次いで発生し, 農林水産被害は高潮に伴う農耕地の冠水と塩害, 強風に伴う農作物の倒伏, ビニールハウスや畜舎の損壊, 林地の倒木など約100億円に及んだ.山口市秋穂二島でも堤防の決壊により収穫直前の水稲や移植直後の野菜苗に約100haにわたり塩害が発生し, 収量が皆無となった.
著者
山本 晴彦 岩谷 潔 高山 成 白水 隆之 土谷 安司 兼石 篤志 原田 陽子 東山 真理子
出版者
日本自然災害学会
雑誌
自然災害科学 (ISSN:02866021)
巻号頁・発行日
vol.27, no.3, pp.291-306, 2008-11-29
被引用文献数
1

Typhoon No. 0613 (SHANSHAN) went north up the west coast of Kyushu on September 17, 2006. After the typhoon landed near Sasebo city, Nagasaki past 18:00, it escaped from northern Kyushu into the Sea of Japan. As the typhoon passed through, it triggered a tornado in Nobeoka City of Miyazaki Prefecture, with the peak gust speed recorded at 46.0m/s (14:06) at Asahi Kasei Corporation. The length of the tornado path was estimated as 7.5km and the maximum width 300m based on the damage investigation. The tornado caused 3 fatalities, and around 1,300 damaged homes. The Fujita and Pearson scales were estimated to be F2 and P2, based on the extent of the tornado damage, and the length and width of the damage, respectively.
著者
兼光 直樹 山本 晴彦 渡邉 祐香 村上 ひとみ
出版者
日本自然災害学会
雑誌
自然災害科学 (ISSN:02866021)
巻号頁・発行日
vol.39, no.S07, pp.13-31, 2020 (Released:2021-06-30)
参考文献数
14
被引用文献数
1

2018年7月豪雨において岡山県でも特に浸水被害が甚大であった真備町の箭田地区を対象に,アンケート調査を実施した。夜間の急激な水位上昇により避難の判断が困難で,避難率は高かったが住民は切迫した状況下にあり,非避難者では判断の遅れや誤りがあった。また,ハザードマップの理解や防災活動は,実際の避難行動には結びつかず効果があったとは言えない。浸水想定区域であったにも関わらず多数の犠牲者が発生した要因として,80歳代以上の高齢者の避難率の低さが挙げられ,特に同居家族1~2人の80歳代以上の高齢者では,身体的・精神的にも避難が困難であり避難率が低かった。被害拡大防止のため,地域内でのつながりを強め,高齢者への避難時の支援体制をつくることが重要である。
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.160, 2019 (Released:2019-03-30)

1.近世における気象観測1874年にフランス人司祭のクロード・シャルル・ダレが記した『Histoire de L'Eglise de Coree』の序論を翻訳した『朝鮮事情(朝鮮教会史序論)』には「Climat」(気候)に関する記述が見られる。「(前略)北緯35度以北では、宣教師たちは温度が零下15℃以下に下がることを経験しなかった。しかし、北緯37度30分あるいは北緯38度以北ではしばしば零下25℃以下に下るのを経験した。(後略)」と記されおり、温度計を用いた簡易な気温観測が宣教師により行われていたことがわかる。ロシア公使シー・ウエーバーは、1887年4月から京城(ソウル)で毎日9時、15時、21時の気温、雨量、積雪、風向、風力、雷電、霧、雹、露等の観測を行っていた。さらに1889年4月からは晴雨計を用いて気圧の観測も開始しており、本格的な気象観測であったことがわかる。この3年半の観測記録はサンクトペテルブルクにあるロシア中央気象台の台長であったウイルドが発刊した気象年報にも掲載されている。海関では、朝鮮政府に雇われたドイツ人外交官メレンドルフが、ヨーロッパ人を中心に職員を雇用し、仁川では1883年6月、元山では同年10月、釜山でも同年11月に海関を開設して気象観測を実施している。また、日本領事館(釜山、仁川、元山、鎮南浦、平壌)においても気象観測が行われ、1881年からの漢城(京城、現在のソウル)の気象観測記録「朝鮮国漢城日本公使館気候経験録」については、大阪大学名誉教授の小林茂氏が紹介している。なお、朝鮮王朝の時代に実施された「測雨器」による雨量観測については省略する。2.臨時観測所の創設と朝鮮統監府観測所・韓国政府への移管日露戦争における軍事ならびに航路保護の目的で、1904年3月に勅令第60号を発令して臨時気象観測所(第一~第五、技手15人)を開設し、中央気象台に臨時観測課を設けて和田雄治技師が課長に就き、朝鮮での臨時観測所の開設業務を任せられた。和田は朝鮮に派遣され、位置の選定、庁舎の借入等の検討に当たり、自ら初代所長に就任した。第三臨時観測所の仁川は、事務開始が1904年4月6日で、日本居留地第四十一号 民家を借入使用し、用地買収計画を待たずに気象観測が開始している。仁川の第三臨時観測所は翌年1月1日、鷹烽峴山頂に新庁舎が完成し、移転している。1907年4月には『朝鮮統監府観測所官制』により文部省の中央気象台(臨時観測課)の所管から朝鮮統監府に移管され、仁川の第三臨時観測所を朝鮮統監府観測所に改称し、釜山、木浦、龍巌浦、元山、城津の臨時観測所を支所とする本所・5支所の体制へと改編された。しかし、翌1908年3月には『朝鮮統監府観測所官制』が廃止され、4月より韓国政府が勅令第十八号『観測所官制』を発令し、農商工部告示第六号により観測所及同附属測候所の位置・名称を定めた。これにより、韓国政府は1907年に開設した農商工部所管の京城・平壌・大邱の測候観測所、そして朝鮮統監府観測所の本所・支所を韓国政府に移管させ、仁川の観測所を本所とし、釜山・元山・京城・平壌・大邱・木浦・城津・龍巌浦の8か所の測候所を管轄する体制が韓国政府により構築された。だが、実質的には中央気象台から派遣された和田所長以下の技手によって気象業務が実施されていた。3.朝鮮総督府観測所の創設2年後の1910年8月には韓国併合に関する条約(日韓併合条約)により韓国が日本に併合される。9月には勅令第三百六十号『朝鮮総督府通信官署官制』が発布され、観測所は通信局所管となり、再び中央気象台の気象観測ネットワークに組み込まれ、外地(台湾・朝鮮・満洲・関東州・樺太)での気象業務が展開していくこととなる。
著者
山本 晴彦
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100241, 2014 (Released:2014-03-31)

1.日露戦争の開戦による臨時観測所の開設日露戦争に際して軍事並びに航路保護の目的から、1904年3月の勅令第60号により、中央気象台(現在の気象庁)の管轄のもとに5月までの間に臨時観測所が釜山(第1)、木浦(第2)、仁川(第3)、鎮南浦(第4)、元山(第5)に設置された。関東州においても、その直後の8月に青泥窪(第6、大連)・営口(第7)、翌年には戦火の拡大により4月には奉天(第8)、5月に旅順(第6・出張所)と順次設けられた。さらに、朝鮮には城津(第9)、樺太には九春古丹(第10、大泊)にも臨時観測所が開設され、計11ヶ所の観測所は日本の中央気象台臨時観測課)が統轄した。また、清国には臨時観測員を日本領事館に派遣し臨時出張所(芝罘、天津、杭州、南京、漢口、沙市)を開設した。2.東清鉄道(北満鉄道)による北満気象観測ロシアにより北満で連続的に気象観測が開始されたのは哈爾浜の1898年が最初で、少し遅れて1903年に鉄道沿線の数ヶ所で、その後測候所は漸次、数が増えていった。「北満農業気候概論」では、哈爾浜は1989年から、満洲里、海拉爾、免渡河、扎蘭屯、斉々哈爾、一面坡、牡丹江、太平嶺は1908年から、その他の観測所は全観測期間の観測資料が掲載されている。なお、一部の表では、博克図、安達、哈爾浜農事試験場、三姓、密門、愛河農事試験場、延吉も含め、計16ヶ所の観測所の気象概要が記載されている。多くの測候所は東清鉄道沿線に位置するが、三姓と延吉のみが例外的に沿線より外れている。1935年3月、北満鉄道は満洲国に譲渡されることとなり、これらの気象観測所と観測記録は満洲国中央観象台に引き継がれた。3.関東州における気象観測施設の変遷1906年7月、関東州に関東都督府を置く「関東都督府官制」が制定され、9月からは文部省が管轄していた中央気象台の臨時観測所は関東都督府へ移管され、大連、営口、奉天、旅順の臨時観測所は測候所に改称された。本台の大連観測所には技師1人、技手4人、営口・奉天・長春・旅順の各支所には技手1人のみの配置で、わずか9人で関東都督府観測所の本台と各支所の観測業務が行われていた。1926年6月には「関東都督府観測所」が「関東庁観測所」へ改称され、前年の1月からは南満洲鉄道株式会社の委託観測所での観測記録の整理、無線電信に関する気象業務が加わっていることから、徐々に増員が図られている。1929年9月には上層気流観測も加わっている。1934年12月には「関東庁観測所」が「関東観測所」に改称され、四平街でも観測所が開設され、1938年にはら関東気象台に改称され、技手が22名と当初の3倍弱の人員にまでに増員されている。なお、後述するが、満洲国中央観象台が1933年11月に創設され、奉天・四平街は移管、長春(新京)は新設されたが、周水子(大連飛行場出張所)、海洋島、貔山窩、普蘭店に測候所が開設されて、航空気象を中心に充実し、技師9人、属4人、技手45人の58人の体制となっている。4.南満洲鉄道株式会社における気象観測施設の開設1906年に設立された南満洲鉄道(株)は、1909年の熊岳城を初めとし、鉄道沿線の附属地に農事試験場・試作場・事務所を開設し、農業試験研究における業務内容の一部に気象観測を附設していった。1931年には、公主嶺、鳳凰城、鄭家屯、洮南、開原、斉々哈爾、敦化、林西、海龍、哈爾浜、海倫、遼陽の13ヶ所にまで拡充された。本観測記録は、「産業資料第35輯 第三次 満洲農業気象報告」など3冊に纏められ、中央観象台の気象資料にも掲載されている。5.満洲国中央観象台の創立と変遷 当初は関東観測所の長春(新京)支所を借りて気象業務を開始したが、関東軍参謀部の満洲国観象機関設置計画により、国防上きわめて重要な満洲北部の満ソ国境の黒河と満洲西部の海拉爾の地方観象台の整備を1934年に先行させ、翌年には新京の南嶺地区に本台が整備された。創設当初は、台長以下、技正3人、属官3人、技士6人のわずか13名の人員体制であり、日本の測候所クラスの規模であった。1935年には7ヶ所(富錦、綏芬河、満洲里、克山、赤嶺、興安、哈爾浜)、翌1936年は6ヶ所(牡丹江、索倫、延吉、承徳、密山、東寧)に観象台・観象所が開設され、定員も約60名まで増員されている。以降、毎年のように観測台・所の開設による測候職員等の増員が図られ、1940年には340名となり、北満の満ソ国境付近の鷗浦、呼瑪、佛山、羅子溝にも観象所が相次いで開設されている。これにより、1943年は458人、1944年には716人にまで職員が膨れ上がっている。
著者
山本 晴彦 松岡 光美 渡邉 祐香 兼光 直樹 坂本 京子 岩谷 潔
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-30, 2021-12-31 (Released:2022-07-01)

2020 年7 月6 日から8 日にかけて梅雨前線が九州北部付近に停滞し,太平洋高気圧の周辺から暖かく湿った空気が 流れ込み,広い範囲で記録的な大雨となった。6 日の日降水量は大牟田のアメダスで388.5mm(観測史上第1 位)を観 測し,7 月6 日0 時から翌日の8 日24 時までの48 時間降水量(2 日間)は,福岡県南筑後地方,熊本県山鹿・菊池地 方,大分県日田市南部の東西40km,南北20km の帯状の範囲で,600mm 以上の地域が広がっていた。本豪雨により大牟田市では内水氾濫が発生し,死者2 人,住家被害は全壊11 棟,床上浸水1,341 戸,床下浸水713 戸の計2,054 戸に上った。特に,諏訪川下流左岸の三川地区では,三川ポンプ場の排水能力(64.4mm/時間)を超える集中豪雨に見舞われたことにより,ポンプ場が内水氾濫により浸水して排水機能が停止した。これにより,三川地区では約800 戸が最高2m 近くまで浸水し,復旧が進んでいない住宅も数多く見受けられた。浸水被害が甚大であった三川地区の汐屋町,樋口町,上屋敷町1・2 丁目付近は,戦前はレンコン畑や水田が広がる低平地であったが,1960 年代に入って埋め立て工事に伴う区画整備が急速に進み,標高が周囲より低く浸水リスクの高い地域での開発が被害の拡大を助長していた。
著者
山本 晴彦 渡邉 祐香 兼光 直樹 松岡 光美 福永 祐太 坂本 京子 岩谷 潔
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.35-56, 2020 (Released:2021-06-14)

2019年台風19号の通過時に、長野県の千曲川上流に位置する佐久地方の上石堂では、10月12日の日降水量が553mmを記録するなど、上流で記録的な豪雨に見舞われた。千曲川中流の千曲市に位置する杭瀬下水位観測所では12日の21時50分に氾濫危険水位の5mを大きく超える6.40mの水位を観測した。増水した千曲川から新田霞堤の開口部に洪水流が流れ込み、先端部を超えて堤内地の新田・杭瀬下地区に洪水流が流入した。この洪水により千曲市では1,677世帯に浸水被害が発生しており、霞堤の開口部閉鎖についての検討が進められている。浸水した地区は住居誘導地区や都市機能誘導地区に指定されており、浸水被害の軽減対策が求められている。
著者
山本 晴彦 渡邉 祐香 兼光 直樹 松岡 光美 福永 祐太 坂本 京子 岩谷 潔
出版者
日本時間学会
雑誌
時間学研究 (ISSN:18820093)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.79-105, 2020 (Released:2021-06-14)

2019年台風19号の通過時に、栃木県の日光から福島県の白河の延びる那須連山、茨城県北部から福島県浜通り地方と宮城県南部の阿武隈高原では、降水量が300mmを超える記録的な豪雨に見舞われた。両山系から阿武隈川に流入した降雨により、中流の須賀川、郡山、本宮、福島、下流の丸森町等では既往の水位を超える洪水災害が発生した。郡山市では阿武隈川からの越水、支流の谷田川の破堤や逢瀬川の越水等により、死者6名、建物被害は1万1千件に上り、1986年の「8.5水害」を超える水害となった。特に、阿武隈川と谷田川に挟まれた水門町、十貫河原、中央工業団地等では事業所や工場等で最高4m近くまで浸水し、現在も復旧が進んでいないケースも見受けられた。
著者
山本 晴彦 吉越 恆 岩谷 潔 園山 芳充
出版者
一般社団法人 照明学会
雑誌
照明学会誌 (ISSN:00192341)
巻号頁・発行日
vol.98, no.12, pp.630-634, 2014-12-01 (Released:2019-10-05)

Artificial optics for plants has recently been developed and used in Japanese factories, where light emitting diodes (LED) maintained by conventional fluorescent lamps are used to advance plant production. This report introduces; (1) the use of LED lighting as a light source for plant growth, as well as (2) the photosynthesis that occurs in these factories, (3) the difference between fluorescent tube-type LED lighting and fluorescent lamps as illuminators, (4) the implementation of fluorescent tube-type LED lighting in plant factories, (5) the development of techniques for effectively using this lighting, and (6) how the practice can reduce costs.
著者
山本 晴彦 早川 誠而 鈴木 義則
出版者
社団法人 農業農村工学会
雑誌
農業土木学会誌 (ISSN:03695123)
巻号頁・発行日
vol.65, no.9, pp.943-948,a2, 1997-09-01 (Released:2011-08-11)
参考文献数
11

神戸市長田区と須磨区に立地する小規模な7つの都市公園を対象に, 阪神大震災による公園内に植栽された樹木の被災状況と延焼防止機能を調査した。菅原通公園, 御蔵通公園, 大国公園の植栽の被災率は, 38%, 10%, 58%であった。これらの公園における周辺の焼失地域は1~2方位で, 公園の周縁部に植栽されたクスノキなどの常緑性高木樹が火炎を遮断することで公園内部に植栽された樹木の被災率が低くなった。さらに, 公園内に設けられたオープンスペースの存在が相乗効果となり, 後背部への延焼防止「焼け止り」の現象が発揮されたと考えられた。植栽の被災率が比較的低かった公園では, 被害樹の樹勢が徐々に回復していることがわかった。