著者
島津 毅
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.8, pp.1-36, 2016 (Released:2018-10-10)

中世京都では清水坂非人集団の奉行衆(ぶぎようしゆう)(以下、坂と記す)が京中の葬送を統轄していたと、これまでの研究では理解されてきた。そして坂が葬送を統轄するまでの経過は、次のように説明される。 ①十三世紀末、清水坂非人(以下、坂非人(さかひにん)と記す)は、葬送を担った対価として、葬場へ持ち込まれた諸道具類を没収する権利を持っていた。 ②十四世紀中頃、坂は京中の葬送を統轄しており、十五世紀、坂は京中の寺家(じけ)に免(めん)輿(よ)と言って三(さん)昧(まい)輿(こし)使用の免許を与え、寺家が独自に葬送を行える権限を与え得る存在であった。 以上のような理解は、現在も通説として用いられているが、少なくとも二つの問題を抱えていた。一つは坂非人が葬送で諸道具類を取得し得た権利の由来が解明されていないこと、二つに、中世後期における坂の権益が獲得された経緯や背景が解明されていないことである。そこで、本稿はこれら問題を解明するために検討を進め、次のようなことが明らかになった。 (1)少なくとも十世紀初め頃の葬送から行われていた、葬場での輿や調度品等の上(あげ)物(もの)を焼却する儀礼が十三世紀前半頃に廃れてゆき、代わって坂非人が上物を乞場(こつば)であった鳥(とり)辺(べ)野(の)で非人施行(せぎよう)の一環として受けるようになる。 (2)十三世紀後半、坂は鳥辺野を「縄張り」として支配権を強め、葬地へもたらされた「具足」を当然に取得できる権益として確立する。 (3)十五世紀頃、寺家の常住輿使用による葬送に坂が対処した結果、坂の得分が現物輿の取得から免輿措置としての金銭取得に変化する。 (4)十五世紀以降、寺家による境内墓地創設への対処として、坂は鳥辺野での既得権益を梃子として、鳥辺野以外の葬地における葬送へも輿をはじめとする葬具の使用料などを取得するようになる。 以上のように坂の得分の実態は、中世後期における葬送墓制の変化に対して、乞場・鳥辺野で得られなくなる輿等の葬具に対する補償を求めた坂の措置に過ぎなかった。
著者
島津 毅
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.1, pp.1-36, 2020 (Released:2021-09-02)

古代中世の葬送において女性がどう関わっていたのか。これまで葬送史研究、および女性史研究でも検討されたことはなく、両者の歴史的な関係を解明する必要性があった。 そこで本稿は、八世紀から十六世紀までの葬送事例を通して、女性における葬送への参列参会の実態と歴史的な変化を検討し、その背景を葬送の性格と女性の位置という二側面から考察した。 まず十三世紀半ばまででは、次のようなことを指摘した。一に、葬送が凶事とされたため、身体を保護する必要性から幼女や妊婦は葬送の参列もできなかった。二に、女官・女房や女性親族は、故人を愛しみ遺体に触れることも可能であった。しかし、九世紀中頃から女性が公的な社会から疎外されていくなか、女性親族が会的側面をもつ葬送への参列や葬所への参会が行われなくなる。一方女官・女房は、公的立場をもった女性として、職務の一環から参列参会していた。三に、皇后・中宮はさらにその身位がもつ制約から、夫であった天皇や上皇の葬送にも参列参会できなかった。 そして、十三世紀後半以降では次のようなことを指摘した。十二世紀以降、父祖経歴の官職を嫡系が継承していく中世的な「家」の成立により、女性の位置関係にも変化が現れた。一方、禅律系寺院が境内に荼毘所・墓地を構えたことから葬所が「結縁の場」となる。こうして十三世紀後半を期に、公家・武家などの葬送では寺院で葬送が完結して葬列がなくなり、女性親族が葬所へ参会し始めるようになる。ところが十四世紀以降、后も立てられず、女房が妻妾として天皇に仕え、娘の皇女は尼となっていた。天皇家のこうした特異な状況によって、葬列が組まれ続け、平安時代以来の形態を残す天皇・上皇の葬送にも、妻妾が参列して娘とともに荼毘に参会するようになっていた。 以上のように古代中世の女性と葬送の位置関係には、九世紀半ばと十三世紀半ばの二度の画期があったことを解明した。
著者
島津 毅
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.122, no.6, pp.1029-1061, 2013-06-20 (Released:2017-12-01)

From the Heian period on, we observe many examples of funereal ritual in which the corpse was moved to religious facilities, like Buddhist temples. In many of these cases, the corpse was removed in the same manner as removing living persons. The research to date on the subject has termed such activity "heisei-no-gi" and "nyozai-no-gi" and has interpreted its purpose as an attempt to veil the manifestation of impurity arising from death. However, due to both the limited timeframe and material dealt with in the research literature, its conclusions lack sufficient historiographical confirmation, showing that they have been built on a fragile edifice of mere supposition and conjecture. Given such a situation, the author of the present article, referring to the way in which corpses were moved as "heisei-no-gi" citing cases from the 10th century to 16th century, proceeds to identify the very first requirement and the accepted condition through that age. He then points out that while "heisei-no-gi" was a part of funereal procedures, it was a unique practice existing apart from funereal ritual per se. First, as to the purpose of "heisei-no-gi" in terms of its most fundamental meaning, an examination of its relationship between "heisei-no-gi" and ritual impurity shows that even in many cases where "heisei-no-gi" is evident, ritual impurity still occurred, thus proving the conventional interpretation of veiling ritual impurity untenable. Next, the author argues that in funereal rites per se, fear and affright of possibly leading a person to his eventual death would exist, and, therefore, "heisei-no-gi", which was apart from funereal ritual per se, was a device for avoiding that kind of fear and affright. And so the necessity to remove the corpse in a non-funereal manner, by treating it as if it were still alive, gave rise to the practice known as "heisei-no-gi".
著者
島津 毅
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.1, pp.1-36, 2020-01
著者
島津 毅
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.97, no.6, pp.849-884, 2014-11

本稿は、中世における葬送形態としての僧俗分業構造とその変化の実態を解明しようとしたものである。従来の研究では、十四世紀前半を境に入棺・茶毘・拾骨等の葬送に携わる者が顕密僧から禅律僧に変化し、それは顕密僧が触穢を忌避したためだと理解されてきた。ところが、この理解には葬送の執行者として俗人が充分に位置付けられておらず、また中世後期の葬送で盛んに用いられた「一向僧沙汰」に対する理解も的確ではなかった。本稿は、九世紀から十六世紀までに行なわれた葬送を対象に検討を進めた結果、中世の葬送形態は、葬送全体を「一向沙汰」する奉行人と、個々の儀礼を司る者との重層的な執行体制を有していたこと、その変化は、この両層において俗人と僧侶との問でそれぞれ生じていたことなどを明らかにした。そして、顕密僧や禅律僧といった僧侶や親族・近臣といった俗人が、それぞれの置かれた立場からどう死穢と向き合っていたのかを明らかにした。
著者
島津 毅
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.8, pp.1359-1394, 2016-08