著者
庄司 俊之
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.5, pp.99-112, 2015-03

大阪の釜ヶ崎で日雇い労働者や路上生活者たちの支援活動を行っている修道女、大野晶子さんにライフヒストリーを聞いた。最初に現在の釜ヶ崎の状況、その変貌する様子をどのように見ているかを説明してもらい、ついで、どのような過程をへて釜ヶ崎での活動に携わるようになったのか、自身の前半生について語ってもらった。1927年生まれ。釜ヶ崎の危機的状況については原発労働者や監視カメラなど、硬質な言葉で表現した。それに対して出身地で幼少期にみた光景について聞くと、戦前の神戸がいかに国際色豊かだったかを語ってくれた。この原体験としてある多様性への感覚は、現在の危機意識と鮮やかにコントラストをなしていた。また、大正ロマンを生きたという両親からは「キリストに従うこと」や「慈善のわざ」を受け継いだ。しかし両親は、おんなは結婚して夫の家の宗教にしたがうべきとする伝統的な考えをもち、娘の入信には反対したという。これを押し切るかたちで家を出て修道院に入り、第2バチカン公会議における「現代化」の思想や労働運動に携わっていた弟から「キリストの生き方」を学ぶなどしながら、やがて定年間近の年齢になって「つぎの段階へすすむ」ために大きな修道院を出て小さな共同体を生きることを考えるようになった。そのとき短期の研修として赴いた先のフィリピンでの経験こそ、彼女が釜ヶ崎で活動するようになる大きなきっかけとなった。以上の事例研究は、たとえば福祉活動に携わるアクターの諸類型を比較研究する際の有益な材料のひとつにもなりえるし、また、福祉の思想や宗教思想を掘り下げようとする際にも有効な示唆が得られるはずである。
著者
庄司 俊之
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.97-104, 2020-03-23

この研究ノートは死生観の歴史的変遷と現在を考えるための視点についての覚書である。第1節では、現代の状況を考えるための視点としてバウマンの「液状化する社会」を挙げる。そして液状化にもかかわらず、あるいはそれゆえに、きわめてシンプルな死生観に収斂していく可能性について述べ、さらに今日「死生観を問う」こと自体が政治的効果を発揮しうることを言う。つぎの第2節では、2019年にオランダで議論された「認知症の安楽死」をとりあげ、これを死生観全体でいえば先端部分に位置する論争点と理解したうえで、その歴史的な経緯や行方について考える。そして第3節では、先端から底辺へ視点を移し、戦後日本における死生観の変容について、そして世界史的な転換の構図について触れる。最後の第4節では、死生観を考える際に見落とされることの多かった生の諸相について、排泄と食べることを例にとって若干の考察を行なう。

1 0 0 0 IR 悲劇の系譜

著者
庄司 俊之
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.7, pp.109-124, 2017-03

「悲劇」という語は、現代では、繰り返してはならないもの、未然に防止すべきものというように、一義的にネガティブな意味が与えられているが、語源としての悲劇、演劇としての悲劇はそうではない。それはかつてポジティブな意味をもっていた。このコントラストを念頭に、本稿では、古代の『オイディプス王』からシェークスピアの4大悲劇を経由して現代の『ゴドーを待ちながら』における「悲喜劇」にいたるまでの、ひとつの系譜を追いかけていく。そこでは悲劇の古典的図式が変容し、失効し、現代になると悲劇がそのまま喜劇であるような作品が出現するという道筋が見通されることになるが、こうした演劇作品における変容のプロセスは、その背後にある社会変容の対応物と見なすことができるだろう。そして、演劇はたしかに芸術のなかでもマイナーな領域に降格してしまったけれど、しかしマイナーだからこそ、語源としての悲劇から遠く離れてしまって一義的にネガティブに捉えられるようになった現代の「悲劇」的状況に対して現代演劇における「悲喜劇としての悲劇」は一定の示唆を与えうるものになっていると考えられる。本稿が『オイディプス王』の分析を通じて提示する悲劇の古典的図式とは、一個の真理、循環する王権の安定した社会、安定ゆえに「逆転」が効果的な意味(カタルシス)をもつということである。それに対してシェークスピアの4大悲劇では、真理と虚偽が振動し、神々の不死ではなく生き続ける亡霊が世界を攪乱し、物語の結末が悲しみで終わるか喜びで終わるか、つまりその作品が悲劇なのか喜劇なのかは偶然が決定するようになる。死後の生、不死の世界が否定されると今度は「死」が特権化され、物語に最終的な意味を与える機能を「死」がもつことになるのである。そしてチェーホフを経由してベケットの『ゴドーを待ちながら』になると、それが悲劇なのか喜劇なのか、そうした区別そのものが消失する。詩的な表現は無数の無駄話のなかに配置されなければならず、悲劇的なシーンは必ずコメディータッチの演出をともなわなければならない。提示されるのは一個の悲劇的な真理ではなく、その「図」を成り立たしめる「地」を含みこんだ世界全体なのだ。『オイディプス王』以来、「自己への問い」は物語に組み込まれており、それはシェークスピア作品でも展開されていたが、『ゴドーを待ちながら』では作品が純粋な媒体と化し、すべては世界と対峙する自己へと折り返されることになる。本稿末尾では以上を踏まえ、「悲劇的」とされるウェーバー解釈、「イマームを待望しながら」を書いた晩年のフーコー、超高齢社会のなかベッドサイドで待ちつづけるひとびとのすがたについて附言する。
著者
庄司 俊之
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.9, pp.107-115, 2019-03

今日、死生観といえば死の問題に関心が集中し、「食べること」については殆ど問われることがない。社会学では「食べること」を多様なやり方で論じてきたが、正面から「食べること」を扱う連辞符社会学は成立していない。このような問題領域である「食べること」について、この研究ノートでは、いくつかのトピックにコメントを加えながら、問題の構図について大まかなデッサンを提示してみたい。ここで扱うのは、捕鯨/反捕鯨の対立と戦場のカニバリズム、そして断食である。後2者については文芸作品を素材とし、本稿後半では「食べないこと」に焦点をあてる。