著者
杉山 あかし 神原 直幸
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2004

本研究の目的は、今日、世界的にも注目を集めている我が国「おたく文化」の文化社会学的分析を行ない、文化に関する社会学理論の再構築を行なうことである。具体的な研究対象はコミック同人誌即売会「コミックマーケット」(通称「コミケ」)である。このイベントは現在、東京、有明の国際展示場を借り切って夏と冬の年2回、3日間日程で催行されており、参加者は一日あたり15万人を超える。運営はボランティアによるものであり、世界最大規模の文化運動と呼ぶことができる。本研究では初年度(平成16年度)に以下の(1)〜(3)の3調査、そして平成17年度には(4)の調査を実施し、調査対象の巨大さに対応して、文化社会学分野でこれまでにない規模の、極めて膨大なデータを集積した。このデータについてその後の各年度において分析作業を行なってきた。(1)【サークル参加者質問紙調査】サークル参加者全数調査。得られた質問紙回答は37,620票。(2)【スタッフ参加者質問紙調査】コミックマーケットを運営するボランティア・スタッフに郵送法によって行なった質問紙調査。得られた質問紙回答は336票。(3)【スタッフ参加者グループ・インタビュー調査】コミックマーケットを運営するボランティア・スタッフに対して行なったグループ・インタビュー調査。6グループについて実施。テープ起こし字数、総計23万5千字。(4)【米澤嘉博氏インタビュー調査】コミックマーケット準備会代表、米澤嘉博氏への聞き取り調査。テープ起こし数、総計3万5千字。データ分析・検討の結果、大衆操作という観点から立論された大衆文化論、ならびに、反抗の契機として大衆文化を捉えるカルチュラル・スタディーズといった、これまでの文化理論のいずれもが適用できない、"中間文化的"な現代日本文の動態が明らかとなった。
著者
杉山 あかし
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, pp.2_77-2_92, 1989-10-20 (Released:2009-03-31)
参考文献数
17
被引用文献数
1

ダーウィニズムの視点から見た場合、これまで論じられてきた社会進化論のいくつかの主張にはかなりの問題がある。本稿はまず、ラマルキズムからダーウィニズムヘの変革において存在した、論理の組み立て方の転換を明らかにする。そして、この転換によって本来可能になるはずであった議論展開の可能性を考えながら、社会進化論の通念を吟味していく。「選択によってより優れたものが残る」という命題が、社会的事象に適用される場合の問題点が示され、しかもここでの「優れたもの」の含意が日常語的な意味とは懸け離れたものであることへの注意が喚起される。また、ダーウィニズムと、「分化」「複雑化」「発展段階」といった理論装置は、結び付くことが困難であることが示される。本稿は、このような考察の後に、ダーウィニズムの今後の展開方向を示唆する。まず、個人意識の社会による規定や、利他行動についてのダーウィニズム的解釈についての言及がなされ、そして、ある種のミクロ・マクロ・リンクの理論として、ダーウィニズムが、社会というマクロな過程によって疎外されていく人間のあり方を考える一つの方法となりえることが示される。ここに、再生産論としてのダーウィニズムの、再展開の可能性が示唆される。
著者
杉山 あかし
出版者
九州大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2003

本研究の目的は、おたく文化系コンベンションの実態を明らかにすることである。本年度は最終年として、研究の取りまとめを行なうとともに、研究成果報告書を作成した。本研究で主に取材・調査対象としたのは、同人誌即売会の「コミックマーケット」と造形物即売会の「ワンダーフェスティバル」である。この二つのコンベンションを中心に、(1)日本におけるおたく文化系コンベンションの歴史と展開をあとづけ、(2)現在のコンベンションの実態を明らかにし、そして、(3)おたく文化系コンベンションの社会的意味について考察した。研究成果報告書の目次を以下に掲げる。第1章 おたく文化系コンベンションについて1.「おたく文化系コンベンション」と「おたく文化」2.おたく文化系コンベンションの展開(1)同人誌即売会3.おたく文化系コンベンションの展開(2)造形物関係4.大衆文化生産社会と「おたく文化系コンベンション」第2章 おたく文化系コンベンション調査1.「ワンフェス」実地調査2.「コミックマーケット」一般参加者調査2.1.調査の実施と回収2.2.調査結果(1)回答者の基本属性2.3.調査結果(2)同人誌即売会参加状況2.4.調査結果(3)同人誌購入状況2.5.調査結果(4)コミックマーケットの魅力など2.6.結びに換えて第3章 そして"解放"とは本研究の当初予定した方法論はカルチュラル・スタディーズ的エスノグラフィー作成であったが、調査対象(コミックマーケット)からの好意的な協力によって、数量的な社会調査の実施が可能となり、調査方法を変更した。これまでこの種の調査の対象となって来なかったおたく文化系コンベンションの実態を数量的データの形で明らかにすることができた。
著者
杉山 あかし
出版者
九州大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2015-04-01

マス・メディアは直訳すれば、「人々(大衆)を媒介するもの」である。実際、新聞は、新聞記事を通して人々を媒介し、その新聞の読者という集団を生み出し、他のメディアもそれぞれの視聴者、聴取者といったものを生み出してきた。インターネットの普及は、この状況に大きな衝撃を与えた。新聞記事もテレビ番組も、インターネットで見えるようになってしまい、今や人々は自らの好き嫌いによってコンテンツに接するようになり、メディアの区分けに拘束されなくなった。もはや従来のメディア概念で社会を分析するのは困難である。本研究はメディアを技術別ではなく、社会的媒介の広がりとして定義し直すことを目指し、3つの実証研究を行なった。
著者
杉山 あかし
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, pp.77-92, 1989

ダーウィニズムの視点から見た場合、これまで論じられてきた社会進化論のいくつかの主張にはかなりの問題がある。本稿はまず、ラマルキズムからダーウィニズムヘの変革において存在した、論理の組み立て方の転換を明らかにする。そして、この転換によって本来可能になるはずであった議論展開の可能性を考えながら、社会進化論の通念を吟味していく。「選択によってより優れたものが残る」という命題が、社会的事象に適用される場合の問題点が示され、しかもここでの「優れたもの」の含意が日常語的な意味とは懸け離れたものであることへの注意が喚起される。また、ダーウィニズムと、「分化」「複雑化」「発展段階」といった理論装置は、結び付くことが困難であることが示される。本稿は、このような考察の後に、ダーウィニズムの今後の展開方向を示唆する。まず、個人意識の社会による規定や、利他行動についてのダーウィニズム的解釈についての言及がなされ、そして、ある種のミクロ・マクロ・リンクの理論として、ダーウィニズムが、社会というマクロな過程によって疎外されていく人間のあり方を考える一つの方法となりえることが示される。ここに、再生産論としてのダーウィニズムの、再展開の可能性が示唆される。
著者
杉山 あかし 直野 章子 波潟 剛 神原 直幸 森田 均
出版者
九州大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2007

本研究は、テレビ放送を、個別の番組としてではなく、われわれが生きている環境を形作るものとして捉え、この環境の分析を行うことを目的としている。具体的主題は、「戦争と原爆の記憶」である。わが国では例年、8月前半に満州事変から第二次世界大戦に到る戦争についての特集番組が多く組まれ、人々の戦争観の形成に大きく寄与している。8月前半、1日~15日の地上波アナログの全テレビ放送を録画・内容分析し、現代日本における戦争・原爆に関するメディア・ランドスケープを明らかにする。本年度は、H.19年度、H.20年度に録画記録したデータを分析する作業を行なった。分析結果の一端として数量的分析によって得られた知見を以下に列挙する。(1)登場人物は日本人と推定される者がH.19年で89.7%、H. 20年で81.1%。これに対し連合国(アジア地域を除く)側と推定された者がそれぞれ9.4%、15.9%であった。朝鮮(当時地域名)・中国、その他の日本占領地を含むアジア地域の者はそれぞれ1%以下、2%以下と、ごく少ない。(2)日本人の描かれ方は、H.19年で74.0%、H.20年で52.8%が被害者として描かれており、加害者としての取り上げはそれぞれ8.1%、7.4%であった。(3)日本人が被害者として描かれる比率はかなり大きく変動しているが、これは描写の仕方が変化したためではなく、北京オリンピックの放送編成に対する影響であったと考えられる。ワイドショーはオリンピック一色であり、ドラマについては、この期間、特集的なものはほとんど放送されなかった。結果としてH. 20年に当該戦争を描いた番組は、ほとんどドキュメンタリー形式の番組であり、ドキュメンタリーで比較すれば、H.19年とH.20年で日本人の描かれ方(被害者的/加害者的)に大きな差はなかった。
著者
杉山 あかし
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
新聞学評論 (ISSN:04886550)
巻号頁・発行日
no.38, pp.111-123, 273-274, 1989-04-30

In communication between those whose social backgrounds are different, we can expect much misunderstanding because of the difference of background knowledge, background experience, vocabulary, mays to construct conversation, and so on. In those societies that contain different social groups. we must assume 'discommunication' -communication in which inteneded meanings are not transmitted- to be the prevailing mode of communication. The theme of this article is to speculate on the social consequences of the discommunicative social situation at the level of social structure. It we accept the fact that every society has some social cleavages and that despite the existence of such cleavages the society is still one society, not two or more, then we can suspect that the discommunicative social situation contributes to social unity. Usually, every social group has its own value system that supports its social activities. The value system may be constructed as a system of meanings, or a self-evident world. Discommunication will prevent each social group's self-evident world from having real contacts with others, which may give steadiness to the self-evident worlds, and which may permit the coexistence of different elements of society. Indeed, we can expect the variety of social groups to have their own value systems, but it would be false to presume that social groups can freely have their own as they like. A group's value system usually fits the group's position in the social structure, such as the division of labor. So we must assume a mechanism that makes for coincidence between people's value system and the socially reguired value system. For this purpose, in this article I propose an ecological model of the social distribution of knowledge that is the base of the value system. The model follows a logistic-curve diffusion model which is applicable to the discommunicative social situation. As an emergent property of such a situation, such coincidence may be achieved to certain extent. In this article, there are some additional references to other emergent properties relating to the discommunicative social situation. With them, as a whole, this article can be a step toward a social theory of discommunication.
著者
杉山 あかし KOGA Browes.S.P KOGA-BROWES Scott KOGA-BROWES S
出版者
九州大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

入社プロセスならびに入社後の社内教育過程において、ニュース取材者の専門性や倫理観は形成されると考えられ、それはメディアの内容に直接反映されると考えられるが、ニュース制作者のあり方はこれまで明確ではなかった。テレビが現実についてのイメージを作り出すにあたって、テレビの内容を創り出す制作者の現実観は大きな影響を持っていると考えられるので、その人々のあり方を明らかにするのが本研究の目的である。具体的には、以下の項目に関する詳細な理解を可能とする情報収集を行なった;(1)テレビニュース制作者が職業上のこの立場を獲得する過程、(2)テレビニュース制作者の典型的な職業履歴パターン、(3)経営者・同僚から評価される個人的・専門的資質。本年度は、1、中堅現役報道カメラマンに同行取材し、長時間録画カメラにて本人のバックグラウンド及び学歴、今までの研究研鑽経歴を調べた。映像を作る際の基準や価値観、倫理観まで切り込んだ。/2、入社から退職までをカメラマンとして過ごした既退職カメラマンにインタビュー取材し、現在のカメラマンの在り方及び価値観と比較した。/3、人事採用担当者に採用基準をインタビューした。/4、入社内定者に入社前インタビューを行ない、テレビ局で働くイメージとキャリアへの展望を聞いた。/5、NVivoソフトを使って、インタビュー取材した映像をデータベース化した。/6、NHK資料館、TBS資料館、慶応大学メディア・コミュニケーション研究所、東京大学図書館(情報学際情報学環)を尋ね必要な資料を収集した。ただし、東日本大震災のため、テレビ局が多忙となり、当初予定したものよりも調査は小規模なものにならざるをえなかった。
著者
杉山 あかし
出版者
九州大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2000

本研究は、コミック同人誌即売会という文化活動をカルチュラル・スタディーズ的視点から実証的に分析しようとするものである。具体的課題は、若者たちの自発的な活動として形成されてきたこの文化的な場の構造・実態を明らかにし、その中から現代の若者文化が持つ可能性と、現代の若者が直面している社会的な課題・問題を明らかにすることである。本年度は、本研究3年目の最終年として、以下の各項目を実施した。(1)文献調査(2)一昨年度実施した郵送調査の分析作業の完成および(3)昨年度実施したカセットテープ郵送調査の分析の完成(4)コミック同人誌即売会(コミック・マーケット62)の観察(5)調査結果の妥当性を検討するための、コミック同人誌関係者ならびにコミック同人誌に詳しい研究者への聞き取り調査(6)報告書の作成本年度得られた知見のうち特徴的なことは、「コミック・マーケット」という場の日常化の進行であった。かつて、「コミック・マーケット」は文化運動、あるいは、祝祭論で言う「祭り」としての性格を持ち、日常生活とは一線を画した特殊な場として参加者たちから捉えられていたが、現在では単なる日常生活の一部分としてしか受け取られなくなっている傾向があった。同人誌出版物の書店での流通がめずらしくなくなるといった状況から見て、同人誌文化は社会において一般化する段階を迎えており、これはもはや同人誌文化が特殊なものではなくなり、文化運動としては意味を持たなくなって来ていることを示唆しているようである。大量の一般市民が大衆文化の生産者となり得るという事態は、これまでの大衆文化論の予想してこなかった事態であり、大衆文化論の新たなパースペクティプの構築が要求されていると考えられる。
著者
杉山 あかし
出版者
九州大学
雑誌
比較社会文化 : 九州大学大学院比較社会文化研究科紀要 (ISSN:13411659)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-13, 2005

This article examines the potential of the internet as a public sphere of communication. In the period after the 9.ll terrorist attack in the U. S., five hundred thousand messages were posted in "2-channel", Japan's biggest BBS site. This article examines these messages through a comparison with newspaper articles. The Habermasian concept of the `public sphere' has a twofold meaning, as both the so-called Public sphere in society and as an idealized communication space where rational communicative actions prevail. Accordingly, Habermasian discourse highlights the idea that in proper dialogue situations people can develop their critical ability to be more rational. This article takes this concept as a departure point to critically inquire into the quality of communication found in BBS systems. The initial research findings about the potential for rational communication through BBS are negative. (l) Words included in each posting are too few to discuss anything. The average length of a posting is one tenth of that of a newspaper article. (2) The monthly quantity of postings corresponds to that of newspaper articles, which may mean that there is no original development of discussion. Previously, the author did a case study about the Gulf War in 1991 using a similar methodology. This case study shows that computer mediated communication has the potential to act as an idealized communication space. The average number of words included in each posting was twice as many as that of newspaper articles and the monthly quantity of postings changed independently from that of newspaper articles. Furthermore, a content analysis has shown that there were original agendas deployed in BBS. When the HTML system was invented in 1991, popular computer mediated communication networks were not Internet based, but rather based on personal computer communication. Thus the BBS that was analysed in this article falls into the category of being part of the latter network. To conclude, the Haberrnasian concept can be adopted for an analysis of privileged media and personal computer communication, however for popularized media such as the Internet, the same cannot be said. Thus, in this context the following question arises. How can we expect rationality to progress in society? A theoretical consideration is included in last part of this article that addresses this important question.