著者
水野 信男
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.42-61, 2000 (Released:2018-05-29)

ウンム・クルスーム一この歌手の名を知らないエジプト人,ひいてはアラブ人がはたしているだろうか。実際そうおもえるほど,彼女はいまなお,彼らのこころのなかに生きている。中東地域の音文化のフィールドワークをつづけるうち,筆者はしばしば,ウンム・クルスームの名を耳にした。なかには,その歌の旋律を得意気にくちづきむ人もいた。すでに没後 25年になろうというのに,今なおカイロ放送は,ウンム・クルスームの往年の名歌をことあるごとに電波にのせているし,テレビもまた彼女の生前の演奏会の映像をながしつづけている。 エジプトばかりか,アラブ諸国を旅するごとに,ウンム・クルスームの歌が,そこに住む人びとのなかにつねに新鮮に息づいていることを実感する。ウンム・クルスームに関する音源資料はいまだに各地で続々とリリースされ,文献さえもあらたに刊行されている。ウンム・クルスームをして,これほどまでに現代にその存在を印象づける理由は, 一体何なのだろう。中東の旅でのこの素朴な疑問が,はからずも筆者をウンム・ クルスーム研究へと駆り立てた。そしてそのウンム・クルスームの芸術のなかに,中東の人びとが長年にわた ってつちかかってきた音文化が,さまざまのかたちで脈動していることに気づきはじめた。本稿では,ウンム・クルスームがその生涯をとおしてうたったおびただしい歌曲のレパートリーを追いながら,そこに投影するアラブ・イスラームの伝統をあとづけてみたい。
著者
水野 信男 西尾 哲夫 堀内 正樹 粟倉 宏子 川床 睦夫
出版者
兵庫教育大学
雑誌
国際学術研究
巻号頁・発行日
1993

本研究では主にシナイ半島南部を調査対象地域とし、その遊牧民の伝承文化を学際的見地から、民族誌の諸手法をもとに解明することを目的としている。以下、交付申請書の実施計画と対応させながら、本年度の調査でえられた研究成果を略述する。なお本研究の研究成果の本格的なまとめは、6.でのべるように、来年度いっぱいをかけておこなう予定である。1.方言、口承文芸、歌謡、器楽、舞踊の記録・採集ならびに分析と考察。(1)方言については、トゥール市近郊のワ-ディ村で、ジェベリエ族の言語の記録・調査を実施した。その結果、彼らの方言が、シナイ半島の遊牧民のなかでも、特別の言語形態をもっており、中世以来のシナイ半島の宗教史ともかさねあわせて分析・整理することが可能となった。(2)口承文芸については、各部族の由来にかんする説話を中心に採集・記録した。解読作業はまだ途中であるが、その多様な語り口は、遊牧民各部族の系譜をたどる糸口を提示しているようにおもえる。(3)歌謡・器楽・舞踊など音楽全般については、とくに遊牧民の結婚式や聖者祭に焦点をあて、採集・録音・録画をおこなった。これらの資料分析から、彼らがアラブ民族の文化の原型をより忠実に保持していることがわかってきている。2.アラブ系遊牧民文化の東西海上交流史における位置づけ。この地域の海上交流史では、おもに紅海側の拠点港が関係しているが、今回の調査では、考古学の視点から、とくにトゥール遺跡での海上文化の流通経路と、その遊牧民文化との関連を調査した。3.聖カテリ-ナ修道院とそれに仕えてきたジェベリエ族の文化の実体調査。これは、1.の(1)とも関連するが、今回は当修道院の図書館が保有する文書(もんじょ)の収集と研究に主体をおいた。その文書類はギリシア正教関係の資料から、修道院生活・巡礼・商業などにかかわるものまで、きわめて多彩である。その解読作業は現在続行中である。シナイ半島は、歴史的にユダヤ教徒、キリスト教徒およびムスリムの巡礼路として位置づけられるが、今後のこれらの文書研究からその実態をうかがいしるデータがえられるはずである。4.現代の遊牧民の生活動態調査とその文化人類学的・社会学的考察。遊牧民の生活動態を、主に各部族の現状を中心に調査した。とくに各部族が内部でかかえる諸問題、また各部族間のあいだの共同と確執、またシナイ半島の観光地化と遊牧民文化の関係などを調べた。この結果、現代の遊牧民は、かつてのアラブの文化要素を一定程度保持する一方で、社会状況の現代的変貌に対応して、その生活と文化を急激に変化させてきていることが判明した。5.現地調査拠点での野外調査記録の整理と検討。1.でのべたように、本研究では遊牧民の伝承文化を学際的に照射し、その全体像をうきぼりにすることに重きをおいてきた。このため、調査拠点都市のトゥールでは、ほぼ連日、隊員5名全員のミーティングを開催し、その情報を不断に発表・討議し、翌日以降の調査にそなえた。6.今後の研究の展開にかんする計画。本研究は本年度(単年度)で終了するため、来年度は現地でえられた調査資料の分析研究をおこない、秋には日本砂漠学会と共催で、中近東文化センターにて、シンポジゥムを開催し、あわせて調査報告書を刊行する予定である。またこのシンポジゥムでは学際的視点から、次年度以降の継続調査にむけての問題点を整理することにしている。
著者
水野 信男
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.42-61, 2000

ウンム・クルスーム一この歌手の名を知らないエジプト人,ひいてはアラブ人がはたしているだろうか。実際そうおもえるほど,彼女はいまなお,彼らのこころのなかに生きている。中東地域の音文化のフィールドワークをつづけるうち,筆者はしばしば,ウンム・クルスームの名を耳にした。なかには,その歌の旋律を得意気にくちづきむ人もいた。すでに没後 25年になろうというのに,今なおカイロ放送は,ウンム・クルスームの往年の名歌をことあるごとに電波にのせているし,テレビもまた彼女の生前の演奏会の映像をながしつづけている。 エジプトばかりか,アラブ諸国を旅するごとに,ウンム・クルスームの歌が,そこに住む人びとのなかにつねに新鮮に息づいていることを実感する。ウンム・クルスームに関する音源資料はいまだに各地で続々とリリースされ,文献さえもあらたに刊行されている。ウンム・クルスームをして,これほどまでに現代にその存在を印象づける理由は, 一体何なのだろう。中東の旅でのこの素朴な疑問が,はからずも筆者をウンム・ クルスーム研究へと駆り立てた。そしてそのウンム・クルスームの芸術のなかに,中東の人びとが長年にわた ってつちかかってきた音文化が,さまざまのかたちで脈動していることに気づきはじめた。本稿では,ウンム・クルスームがその生涯をとおしてうたったおびただしい歌曲のレパートリーを追いながら,そこに投影するアラブ・イスラームの伝統をあとづけてみたい。
著者
堀内 正樹 大塚 和夫 宇野 昌樹 奥野 克己 清水 芳見 新井 和広 水野 信男
出版者
成蹊大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2003

本研究は、アラブ世界の様々な分野の人間関係の現状を分析することによって、社会全体を貫くネットワーク・システムの維持メカニズムを実証的に検証することを目的とした。その際、政治的・経済的・社会的・文化的環境、およびネットワークの内的意味世界の解明を分析の2本の柱とした。まず、ほとんどの調査地域においてこの十年ほどのあいだに急激な社会変化が生じていることが確認できた。政治・経済状況の悪化や社会格差の拡大、そして欧米を基準とした価値指標の浸透がもたらした閉塞感の蔓延などである。そうした現象に対応するように、ネットワークの地理的範囲や人の移動のパターンにも少なからぬ変化が見られたが、人間関係の保ち方自体に変化はほとんどなく、むしろ不安が増している社会状況に対処するために、これまで以上にネットワーク構築の重要性が増大しているという認識を得た。またネットワークの内的意味世界に関しては、同時代の人間関係のみならず、すでに死去した過去の世代の人間も重要なネットワーク・ポイントに組み込まれているという重要な発見をした。ネットワーク構築の適用範囲は現在だけでなく過去へも拡大されているのである。現代の地平へ伸びた人間関係のベクトルと、過去へと伸びたベクトルとがひとつに融合されて、「いま・ここ」という変化の渦中にある生活世界の中で、人間関係が柔軟・多様かつ強靱に機能するというしくみこそが、ネットワーク型社会システムの維持メカニズムの核心を成すとの認識を得た。この知見は、政治学や経済学、社会学といった「現代学」のみならず、過去をすでに終わってしまったものとして扱う歴史学に対しても、その姿勢を根本から問い直す重大な契機となるはずである。