著者
門田 誠一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.1, pp.15-32, 2011-03

朝鮮三国時代の新羅の金石文と日本古代の文献には牛を殺して盟誓や祭儀を行うといわゆる殺牛祭祀が記されている。とくに新羅の殺牛祭祀は近年になって発見された金石文にみえるので、日本古代の殺牛との比較研究は少なく、また、中国の供犠や祭祀に伴う殺牛との比較も十分とはいえなかった。本論では新羅と古代日本の殺牛祭祀を相互に比較するとともに、中国の文献や考古資料にみえる牛を用いた犠牲や祭祀をも参照しつつ、それらとの対比から東アジアにおける新羅と古代日本で行われた殺牛祭祀の各々の特質を示し、あわせて両者には系譜性があることを論じた。東アジア古代金石文殺牛祭祀
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.31-48, 1999-03-01

豊臣秀吉が京都の周囲に築いた土塁である御士居については,これまで全体の平面的プランや位置など、いわば巨視的な検討が主体を占めてきた。これに対し,本稿では佛教大学8号館地点における御土居跡の土層断面の観察によって,御土居の立地を復元し,これにともなう土塁の構造要件を検討した。その結果,この地点では 御土居が高位段丘端部に位置すると考えられ,また,その立地から東アジアの城郭用語でいうところの夾築構造の士塁であったことが検証された。また,御土居の他の地点における土塁盛土の調査を勘案すると,版築工法ではなく,土手状の小盛土を利用したものと類推された。このような御土居の立地構造の微視的な分析から,とくに東北部分の御土居は段丘の比高差を活用して実際以上の偉容を示すという点で,すぐれて政治的な意味合いをもつことを指摘した。
著者
門田誠一著
出版者
大巧社
巻号頁・発行日
1997
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-18, 2018-03

本論では魏志倭人伝にみえる魏から卑弥呼に下賜された物品のうち、「五尺刀」について、漢代を中心とした鉄刀の銘文に尺の単位で表現される類例から、五尺刀の長さを推定する。また、刀銘には吉祥句などが記され、佩用する者を寿ほぐという目的があるとともに、史料・文献から臣に対する寵愛や死後の追悼の際に下賜され、匈奴に対する事例に示されるように蛮夷に対して与えられた。刀剣の長さである尺寸に関しては、漢代から南北朝にかけて、尺を単位とし、文化・教養に依拠したいわば人文的類型の表現であり、尺刀が官吏の用いる文房具的な利器であるのに対し、七尺刀が軍事的権威や個人の勇武を可視的に表徴し、五尺刀は佩刀としては一般的なものではあるが、南北朝期の歌謡にも所有が切望されることがみえ、南朝・梁では有銘の五尺刀そのものの発現が吉祥とされた。このように五尺刀を含む刀剣は、吉祥句を銘すことによって佩用者を寿ほぎ、あるいは有銘の五尺刀そのものが祥瑞であり、また、これを黄金ともに下賜品することは漢代以来の系譜を引くことを示した。五尺刀卑弥呼魏志倭人伝銘文刀剣
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学宗教文化ミュージアム
雑誌
佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要 (ISSN:13498444)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-44, 2017-03-30

魏志倭人伝には倭人社会の宗教的側面を示す記事があり、そのなかには卑弥呼の用いたという鬼道がある。鬼道に関しては、多くの言及があるが、本論では基本的な方法に立ち戻って、近来の中国における考古学的知見と中国史書・文献の用例と用法を参照し、『三国志』編纂時点での鬼道の認識を検討した。その結果、中国の鬼道としての五斗米道そのものかあるいは同時期に中国で展開した呪術的習俗をともなう信仰が実修されていた考古学的痕跡は顕著ではないが、伝統的な礼制による儒教的体制に対して鬼道の語が用いられていることから、鬼道が中華世界の礼俗とは相いれない祭祀習俗であり、とくに統治する者にとっては、自己の存立を否定するものとされていたという同時代的認識を示した。
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.65-76, 2013-03-01

紀年銘のある高句麗の金銅仏として知られる延嘉七年己未銘金銅仏に関して、従来は紀年の比定が論究の中心であった。これに対し、近年、釈読の進められている中国北朝代石窟の千仏図像の傍題に関する研究によって、千仏図像がいくつかの仏典に依拠することが明らかになってきた。それらは主として仏名経類であり、その内容が千仏図像として可視化されている。いっぽう、延嘉七年己未金銅仏銘文には「第廿九因現義仏」の語があり、これは仏名経の一つである『賢劫経』にみえる仏名であることが知られている。この仏像の制作年代は六世紀代とみられており、この時点で仏名経類に基づく仏像表現は敦煌莫高窟などの北朝石窟に限られることから、延嘉七年己未金銅仏銘文によって同様の信仰を実修していたことが明らかな高句麗の仏教が北朝の影響下にあったことを論じた。
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.43-54, 2016-03-01

魏志倭人伝記の記述のなかでも、もっとも史料性が高いとされるのが魏の皇帝から卑弥呼に与えられた詔書の部分であり、そこに記された下賜品のうち「金八両」に関して、漢魏における金の使用のなかで把握するとともに、具体的な斤量を推定した。あわせて、文献・史料と出土遺物の双方から金製品を多数かつ多量に用いた匈奴と比して、考古資料からも金の使用が顕著でない倭に対しては、魏から少量の金しか与えられておらず、金の下賜に関する倭と匈奴との相違を示した。これらによって、漢代から三国時代にかけての金使用の衰退とあわせて、卑弥呼に対する黄金の下賜は漢代以降の中国における賜金を主体とした金使用の変化に対応しており、さらには金を重用しないという倭の具体的な習俗を認知したうえで行われた魏の現実に即した賜物であったと結論した。魏志倭人伝卑弥呼金八両魏賜金