著者
高野 昭雄
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.105, pp.141-159, 2014

本稿は,京都市左京区松ケ崎地区の近代における朝鮮人労働者の足跡について論じた。松ケ崎は,平安遷都にさかのぼる松ケ崎百人衆の伝承をもち,また鎌倉時代末期には全村挙げて日蓮宗に改宗するなど結束の強さを誇ってきた。その伝統は,現在でも,五山送り火の一つである「妙法」の送り火に受け継がれている。こういった歴史をもつ松ケ崎は,周辺地域に比べ,工業地としての開発が遅れていた。そのため松ケ崎の朝鮮人労働者は,隣接地区に比べ,人口も少なく,目立った存在ではなかった。それでも,第一次世界大戦時の大戦景気の中で,松ケ崎にも東洋ラミー織布会社の工場が作られ,朝鮮人労働者が就業した。大戦景気時に労働力が不足し,繊維産業に朝鮮人が従事する現象は,京都では西陣地区でも見られた光景である。その後,1920年代になると,京都市では人口が急激に増加する中で,社会基盤整備事業が活発に行われ,土工や砂利採取夫として就業する朝鮮人も急増する。松ケ崎でも,人口増加を支えるための浄水場が建設され,その配水池の工事を中心に,朝鮮人労働者が多数従事した。また浄水場の工事や高野川での砂利採取,京都高等工芸学校の建築工事には,朝鮮人労働者と被差別部落住民とが,ともに就業していた。土木建築業や砂利採取業に,朝鮮人労働者と被差別部落住民とが従事する形態も,京都市他地域と共通する現象であった。一般的に京都の在日朝鮮人について語られる際,戦後の状況もあって,東九条を中心とした京都市南部あるいは西部に言及されることが多かった。しかし,西陣や上賀茂,修学院といった北部にも朝鮮人が多く居住し,それぞれ特色ある就業形態をとっていた。また松ケ崎のような朝鮮人労働者が少ない地域においても,京都市の典型事例とも言うべき朝鮮人労働者の就業状況があった。Matsugasaki is an ancient area in Kyoto, where the tradition of the Emperor's Hundred Farmers dates back to the Heian capital's establishment. Slow to industrialize in the modern era, relatively fewer Korean laborers are employed in Matsugasaki than in adjacent districts. Yet, a few Koreans were employed in the area, for example, at the Oriental Ramie Weaving Company, Ltd (T?y? Rami Shokufu KK), a factory built during the economic boom of the First World War. A domestic labor shortage at that time saw the hiring of Koreans in Japan's textile industry, a practice common in Kyoto's Nishijin District. In the 1920s, Korean workers helped construct Matsugasaki purification plant to support Kyoto's burgeoning population. In this case, as also in the Takano River gravel quarrying and the Kyoto High School of Arts and Technology's construction (Kyoto K?t? K?gei Gakk?), Koreans were employed alongside Buraku people. Koreans working with Buraku people in gravel quarrying and civil constructions was also common in Kyoto. Thus, while Matsugasaki may not have employed Korean workers extensively, the employment conditions for Koreans there should be seen as typical of Kyoto.
著者
高野 昭雄
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.141-159, 2014-06-30

本稿は,京都市左京区松ケ崎地区の近代における朝鮮人労働者の足跡について論じた。松ケ崎は,平安遷都にさかのぼる松ケ崎百人衆の伝承をもち,また鎌倉時代末期には全村挙げて日蓮宗に改宗するなど結束の強さを誇ってきた。その伝統は,現在でも,五山送り火の一つである「妙法」の送り火に受け継がれている。こういった歴史をもつ松ケ崎は,周辺地域に比べ,工業地としての開発が遅れていた。そのため松ケ崎の朝鮮人労働者は,隣接地区に比べ,人口も少なく,目立った存在ではなかった。それでも,第一次世界大戦時の大戦景気の中で,松ケ崎にも東洋ラミー織布会社の工場が作られ,朝鮮人労働者が就業した。大戦景気時に労働力が不足し,繊維産業に朝鮮人が従事する現象は,京都では西陣地区でも見られた光景である。その後,1920年代になると,京都市では人口が急激に増加する中で,社会基盤整備事業が活発に行われ,土工や砂利採取夫として就業する朝鮮人も急増する。松ケ崎でも,人口増加を支えるための浄水場が建設され,その配水池の工事を中心に,朝鮮人労働者が多数従事した。また浄水場の工事や高野川での砂利採取,京都高等工芸学校の建築工事には,朝鮮人労働者と被差別部落住民とが,ともに就業していた。土木建築業や砂利採取業に,朝鮮人労働者と被差別部落住民とが従事する形態も,京都市他地域と共通する現象であった。一般的に京都の在日朝鮮人について語られる際,戦後の状況もあって,東九条を中心とした京都市南部あるいは西部に言及されることが多かった。しかし,西陣や上賀茂,修学院といった北部にも朝鮮人が多く居住し,それぞれ特色ある就業形態をとっていた。また松ケ崎のような朝鮮人労働者が少ない地域においても,京都市の典型事例とも言うべき朝鮮人労働者の就業状況があった。