著者
大越 愛子
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.28-36, 2011

戦争や武力紛争時に生じる性暴力に関しては、多くの論ずべきテーマがあろう。本論考では、この性差別的世界で、長い間沈黙を強いられ、スティグマ化されてきたが、ついに20世紀末に、彼女たちの経験してきた苦悩と加害者への怒りを語ることを決意されたサバイバーたちの観点に、焦点を当てたい。私は20年前、最初にカムアウトされ、日本軍と兵士たちを厳しく告発された、いわゆる日本軍「慰安婦」制度のサバイバー金学順の証言を忘れることはできない。特に、彼女がその惨めな生活のために「女の歓び」を奪われたと話されたことに衝撃を受けた。私はこの証言は、性暴力の核心をつくと考え、それを論じたが、今から思えば不十分なものであったと思う。これに関して、ポストコロニアル・フェミニスト岡真理から、そうした証言が「男性中心的な性表現」でなされることの矛盾を指摘された。だが私の意図は、サバイバーが性的主体として立ちあらわれ、発話されたことの衝撃を伝えることにあったのだと、当論文で改めて主張したい。サバイバー証言をいかに聞き取るかを考えるためにも、この種の議論は重要だろう。さらに、こうしたサバイバーたちの証言への応答責任として開催された日本軍性奴隷制を裁く「女性国際戦犯法廷」の意義を論じたい。これは近代の戦争と軍事システムという構造的暴力を裁く画期的な試みである。しかしこの「法廷」は、日本政府や少なからぬ論者によっても無視され続けてきた。10年経った現在、この「法廷」を受け継ぐ試みが新たに起こりつつある。構造的暴力と闘い続けるという倫理的責任が、私たちにいっそう強く求められているということだろう。
著者
近森 高明
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.4, pp.108-120, 2005-05-28

ベンヤミンの「遊歩者(flaneur)」は、近年の都市研究に欠かせない人物形象となっているが、当初より、男性的「まなざし」の具現化ではないかとのフェミニズム的批判が寄せられていた。遊歩者の特別な対象として「娼婦」が呈示される点に、その批判はとくに集中する。だがベンヤミンは娼婦に出会う遊歩者を、特権的視線をもつ観察者ではなく、むしろ主体性が解体する。一種の陶酔者と描いており、娼婦のほうも、経験的実存というよりアレゴリー的現象と考えている。それゆえ問われるべきは、娼婦の形象が喚起する主体の壊乱的作用に、いかなる理論的意義が見いだせるかという点である。こうした問題意識から本稿は、以下の三つの側面を含む論証により、ベンヤミンの娼婦論および遊歩者論のあらたな読解をめざす。第一に、娼婦のモティーフと「人形」の形象との重なりという、従来の解釈では見逃されてきた論点を中心に、「死を意味する生」というアレゴリーの謎をめぐるベンヤミンの潜在的な思考ラインを再構成する。第二に、性倒錯としてのフェティシズムやサディズムをめぐるベンヤミンの思考に焦点をあて、マルクス主義的な疎外論や物象化論による読解とは異なる、商品的存在の「死」の位相を照らしだす。第三に、従来では観察者としての面が強調されていた遊歩者について、娼婦の形象が露呈する「死」との関連より、主体の機能が失われた陶酔者としての側面を浮かびあがらせる。
著者
大前 誠
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.2, pp.14-21, 2003-05-24

この報告は、これまでさまざまな教科書を編集してきた編集者の視点から自戒をこめて率直にまとめたものである。当初、「売れるテキスト・売れないテキスト」という報告依頼があったが、ここでそれを論ずるのは無理がある。ここでは、筆者が編集者として社会学テキストを製作するにあたって、どのような点を心掛けてきたのかを中心に話を進める。これまで編集者として、教科書製作にあたって、つぎのような点にこだわってきたように思う。第1は、執筆者への問いかけ(というより「挑発」)である「これまでのテキストのどこに問題があり、どこが物足りないですか?講義でどんなことを工夫し苦労なさっていますか?」が、その「挑発」の内容である。ここを出発点にして、「より良いテキスト」の製作が始まる。テキストの場合、単独執筆かそれとも編集による編集ものか、さらに共著かによっていろいろな工夫が必要になる。また、タイトルのネーミングなども重要だ。第2に、読者である学生さんたちへのつぎのような問いかけも重要である。「この内容・文章に興味をもてますか?そもそも理解できますか?この分量・値段・装丁で不都合ないですか?」。学生の目線に立った編集は、学生がクールでドライになった時代には特に求められる課題である。第3の問いかけは、会社にむかってのものだ、「これだけの時間・コストをかけるとパワーのある良質のテキストができるがそれを会社は受け止めてくれますか?」という問いかけである。コストパフォーマンスを強調する声に応えつつ、「思い込み」で良い本を作ろうとする編集者の苦労は大きい。最後に、自分自身にとっての問いかけもある。気力と体力がどこまで続くかという問題だ。それでも、今後も体力の続く限り本をつくっていくだろう。そのためにも、先生方には、今後もキツーイ「挑発」をし続けていきたいと思う。
著者
中島 弘二
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.8, pp.64-75, 2009-05-23

本稿は近年の英語圈の人文地理学における「社会的自然」研究の視点を援用して、戦後の造林ブーム期に大分県で展開された国土緑化運動において生みだされた「みどり」の自然を批判的に読み解いていく作業をおこなった。自然をさまざまな主体間の力関係のもとで社会的に構築される媒体としてとらえる「社会的自然」研究の視点は、支配的な諸制度と結びついてメディア化した現代の環境を批判的に理解するうえで有効であると考えられる。こうした視点に基づいて、1950年代の造林ブーム期における大分県の国土緑化運動を自治体や緑化推進委員会が推し進めた「緑化の政治学]、人々をその担い手として取り込みながら県内各地で展開された「緑化のパフォーマンス」、そしてマスメディアによってうみだされた「緑化の表象」の三つの局面から分析し、それらの諸局面を通じてうみだされた種別的な「みどり」の自然を批判的に検討した。その結果、記念植樹や造林を通じてうみだされた「みどり」の自然は単にスギ・ヒノキの人工林の景観を山林原野にうみだしただけでなく、そうしてうみだされた景観を舞台として人々を緑化の担い手へと駆り立て、さらにメディアを通じて「あるべき」自然を再構成していくという一種の自己準拠的なシステムとして作用したことが明らかとなった。
著者
高松 里江
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.11, pp.54-65, 2012-05-26

これまで、アメリカを中心とする多くの研究は、性別職域分離は賃金格差の要因になることを示してきた。また、いくつかの研究は、技能とその指標となる制度をコントロールすることで、性別職域分離がどのようなメカニズムで賃金に影響するのかを明らかにしてきた。一方、日本ではいくつかの研究が性別職域分離は賃金格差の要因であることを示唆してきたが、対象となる職種が少なく、また、技能について十分に考慮されていないという課題があった。そこで本稿は、日本において、性別職域分離が日本型雇用制度と専門職制度のなかの技能とどのように結びつき、賃金に影響するのかについて分析を行った。分析には2006年および2008年に日本全国を対象に実施したJGSS調査を用い、対数変換後の時給を従属変数とする重回帰分析を行った。職種の女性比率から、男性職、混合職、女性職の3つに職種に分けて分析を行ったところ、(1)混合職と比べると女性職では賃金が高いこと、(2)女性職は混合職と比べて対物技能が高いために賃金が高いこと、(3)女性職の多くは専門職として対人技能が高いために賃金が高いことが示された。従来の研究では、性別職域分離は女性の地位を低める効果があるとされてきたが、本稿の結果からは、性別職域分離が対物技能や専門職制度を通じて女性の賃金を高めることが明らかになった。
著者
山本 めゆ
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.13, pp.5-17, 2014-05-31

本研究では、黄禍論の広がりととともにアジア人への排斥が進んだ20世紀初頭、南アフリカに移入した日本人の地位とその変遷に注目する。当国の移民政策に対して日本側はいかなる交渉、適応、抵抗を見せ、それは人種の境界をいかに動揺させたのか。反アジア主義的な移民法をめぐる研究史のなかにこれらの関心を位置づけながら、人種主義研究の観点から検討することを目指す。南アフリカでは19世紀後半よりインド人、20世に入って華人労働者が導入されたことによりアジア人排斥の動きが広がり、1913年にアジア人移民の規制強化を目的とする移民規制法が制定された。日本人がアジア人として規制の対象となったことに強い危機感を抱いた日本政府や領事館は、南アフリカ当局に対し粘り強い交渉を続けた。その結果、1930年に両国間で合意が交わされ、いくらかの制約を含みながらも、日本人の商人、観光客、研究者が禁止移民から除外されることとなる。その背景には日本側が渡航者の身分を商人や駐在員に限定し労働移民を排除するという方針を提示したことや、前年からの大恐慌で南アフリカが羊毛の市場開拓を迫られていたという事情もあった。本稿は、当時の日本人移民の地位について、バレットとローディガー(1997)によって提示された「中間性」概念を重視しながら粗描し、南アフリカの人種政策に対する日本側の批判とその限界について再検討を加える。
著者
佐々木 てる
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.9, pp.9-19, 2010-05-29

人口減少社会を迎え従来の外国人政策の見直し、さらには移民政策に関する議論も登場している。しかし外国籍者をめぐる課題も山積している。こういった問題の背景には、これまで社会統合の視点が欠けていると同時に、統合すべき社会像が一向に見えてこないためである。つまり外国籍者をあくまで一時的な滞在者としてあつかうか、もしくは将来国民としてあつかうか、国家レベルでの方針が定まっていない。今後永住者、すなわち実質的な移民をどうあつかうかが、今まさに問われている。こういった現状を踏まえた上で、本稿では現在日本にいる外国籍者、特に永住者を将来的な国民として社会統合する立場を前提とし議論を進める。具体的には日本国籍を取得した在日コリアン、すなわちコリア系日本人の事例から考えていく。コリア系日本人は後天的に国民になった人々であり、彼らの歩んできた道を振り返ること、彼らが求めてきたことを考えることは、社会統合政策を考える上で参考になる。具体的にはコリア系日本人の歴史、国籍取得の背景、さらに現代的な課題を提示していく。そして彼らをとりまく日本社会のまなざしを考え、今後の日本の外国籍者に対する社会統合政策を考えていくことにする。結論を述べれば、コリア系日本人という試みは、日本人というネーションを内部から変容せる可能性を持つものといえる。その意味で彼らの存在は今後の日本社会の向かう国民像の一つを示しているといえる。
著者
飯田 剛史
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.5, pp.43-56, 2006-05-27

「民族のお好み焼き」といわれるように、現代の日本の都市は多民族化が進んでいる。そのなかで在日コリアンは世代を重ね、生活文化は日本人のそれとほとんど均質化してきている。これまで芸能界やスポーツ界で在日のスターがたくさんいたが、いずれも日本名を名乗りその「在日性」はあまり見えなかった。しかし在日住民の一部は、この文化的均質化のなかで逆に、民族的アイデンティティを自覚的に保ちながら生きてゆこうとしている。その仕事は、多様な分野で「魅力ある差異」をもつものとして貴重な貢献をなしている。大阪府には約14.5万名(在留外国人統計2002年版)の在日韓国・朝鮮籍住民がおり、分化の様々な面でその比重は小さくない。ここでは1980年代以降の在日の民族祭りの展開を紹介し、大阪文化に創造的に関っている状況を示したい。1983年に始められた「生野民族文化祭」は、民族伝統につながる農楽を中心にした祭りのスタイルを創造し、公共の場で民族祝祭を行う口火を切った。これは2002年に終息したが、各地の在日の若者に強い影響を与え、京阪神を中心に20に及ぶ「○○マダン」と名乗る祭りが生み出された。今日これらのマダンには多くの日本人住民も参加し、多民族共生のユニークなあり方を示している。「ワンコリアフェスティバル」は、「一つのコリア」を目指しつつ、ジャンルを問わない在日ミュージシャンやその友人たちのパフォーマンスを野外音楽堂で繰り広げるものである。「四天王寺ワッソ」は、古代朝鮮から多くの人々が高い文化をもって渡米したことを、色鮮やかな衣装のパレードと、聖徳太子による出迎えの儀式で表現する。一時中断したが、2004年には、在阪日本企業の支援と多くの日本人の参加を得て、新しい大阪の祭りとして再生した。これらの祭りは、マスコミ報道を通して広く知られるようになり、地方自治体や公共団体の協賛・後援も増えてきている。また多くの日本人住民の参加によって、単に在日だけの行事にとどまらず、ヴォランティア参加型、創造型の祭りとして、今日の大阪都市文化に多民族性と新たな活力を加えるものとなっている。
著者
平井 太規
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
no.12, pp.31-42, 2013-05-18

「第2の人口転換論」は「家族形成の脱標準化」や「社会的背景の変容」をも含意する。単に出生率が人口置換水準以下に低下しているだけでなく、多様な家族形成やその背景に家族観や価値観などの個人主義化が見られる状態を「第2の人口転換」と定義できる。こうした現象が東アジアにおいても生じているかの検証をする必要性が論じられてきたが、これに応えうる研究は少なかった。そこで本稿では、低出生率化している日本・台湾・韓国を対象にNFRJ-S01、TSCS-2006、KGSS-2006のデータを用いて、既婚カップルの出生動向、とりわけ子どもの性別選好の観点から、「家族形成の脱標準化」を検証した。分析対象は、「第2の人口転換」期(とされている年代)が家族形成期に該当する結婚コーホートである。このコーホートとそれ以前の世代の出生動向の持続と変容を分析した。その結果、日本ではバランス型選好から女児選好に移行し、確かに「家族形成の脱標準化」は見られるものの多様化までには至らず、台湾と韓国では男児選好が一貫して持続しており、「家族形成の脱標準化」は生じていないことが明らかになった。したがって東アジアにおいては、ヨーロッパと同様に低出生率化の傾向を確認できても「第2の人口転換論」が提示するような変容は見られない。
著者
吉澤 弥生
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.122-137, 2019 (Released:2020-05-29)
参考文献数
38
被引用文献数
1

「アートプロジェクト」はアーティストが中心となって地域の人々などと共に制作・実施するもので、2000年以降日本各地に広がった現代アートの一形式だ。里山の廃校、まちなかの空き店舗などを舞台に多様な形態で行われている。これらの広がりは、アーティストが自らの表現と発表の機会を追求する動きと、地域活性、産業振興、社会包摂などの社会的文脈でアートを活用しようとする文化政策の動きが合致したことで生まれた。なかでも国際芸術祭は地域活性の核として期待されている。そして実際、地域の特性や課題に向き合いながら、固有の資源を発掘し、新たな価値を生み出したプロジェクトもある。こうしたアートの手段化には批判もあるが、多様なアクターの協働によって日常生活の中からアートが立ちあがる過程を明らかにすることがまず重要である。一方で現場には、プロジェクトの参加に関する住民の合意形成、現場を支えるスタッフの長時間労働、働き方と就労形態の不合致、低賃金、社会保障の不在といった問題とキャリア形成の困難が存在する。これは日本社会全体にも見られる「自発性」「やりがい」を盾にした低賃金・無償労働の圧と共通するものだ。今後はこれらの問題と向き合いつつ「なぜアートなのか」を問い続けながらのプロジェクト実施が望まれる。2020年に向けて文化政策におけるアートの手段化は一層進むが、成果主義では測れない価値を表現する評価方法も必要だ。
著者
関 礼子
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.70-82, 2020 (Released:2021-05-29)
参考文献数
15

福島原発事故による避難者が「ふるさと」に帰還しはじめた。社会学はこの状況をどのように捉えるのだろうか。本稿は、避難者が帰還しても戻らない「ふるさと剥奪」被害を論じる。「ふるさと」とは、人と自然がかかわり、人と人とがつながり、それらが持続的である場所のことである。だが、帰還後も人々は「ふるさと」を奪われたままで、復興事業はショック・ドクトリンをもたらすばかりである。本稿は、福島県の中山間地の集落を例に、避難を終えても終わらない被害を共同性の解体という点から捉え、「ふるさと剥奪」の不可逆な被害を論じたい。
著者
丸山 徳次
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.26-34, 2005-05-28 (Released:2017-09-22)

日本の大学における社会学のありようについての社会学者による反省は、哲学者による哲学についての反省と極めて類似している。第一に「暗い」とか「かたい」とかいったイメージや世間的評価に悩む点で類似している。第二に、理論や方法論の紹介や研究が、現実社会の問題の究明よりも尊重される、ということに対する学問の現状批判の点で類似している。第三に、学問構造が類似している。社会学は、近代における社会諸科学の成立と連動しながらも「最後の社会科学」と言われるが、それはまた、哲学から自立していった「最後の科学」でもある「越境する知」としての社会学の不安定さは、ハードなパラダイム科学となり得ない学の宿命であると同時に、絶えざる自己反省を必然とする哲学的性格にもよる。こうして、大学教育のあり方への反省は、学およびその対象(近代社会)の生成についての歴史的反省と結びつく必要があるし、それを教育に生かす必要がある。また、当の学問の意義自体を反省すると同時に、新しい制度化を考えることにつながらねばならない。そこで一つのヒントを与えているのは、応用倫理学の新たな胎動である。応用倫理学は、科学技術の高度の発達がもたらす社会問題に応答するものである。こうした時代と社会の「切実な問題」の解決には、多様な専門家が参集する「問題共同体」が形成される必要がある。社会学がそこで期待されるのは、社会調査の能力であって、哲学的自己反省の能力ではない。
著者
山下 祐介
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.114-120, 2013-05-18 (Released:2017-09-22)

本稿では、東日本大震災を広域システム災害としてとらえていく。我々の暮らしは様々なライフラインや生産流通の巨大システムとの関係なしに成り立たない状態にある。広域システムはそれが機能している限り、豊かな暮らしと安心/安全な環境を約束する。しかし、いったんそれが壊れると被害は大規模化し、復旧が難しくもなる。それどころか、このシステムの中に含まれる中心-周辺関係が、システム再建の過程で崩壊以前よりも強い形で現れることとなる。広域システムにはインフラや経済的側面だけでなく、家族、行政、政治、メディア、科学といった社会的な局面もある。これらの巨大で複雑なシステムが壊れることで、人間の無力さが現れ、被災地は周辺化した。しかし今回は中心としての東京さえもが無力化した。こうした事態は1995年阪神・淡路大震災の時には見られなかったものである。2011年東日本大震災までに何がおきたのか。その解を、広域システム内での人間とコミュニティのあり方のうちに考えていく。
著者
岡 京子
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.92-104, 2009-05-23 (Released:2017-09-22)

日本における高齢者介護施設では「全人的介護」という理念の導入、さらに公的介護保険制度開始による市場化の流れによって脱アサイラム化が図られることとなった。新しい介護理念と市場論理という2つの相反する要求の狭間に立たされたケアワーカーの労働は、措置時代の大規模処遇における労働に比べ、大きく変化していることが予測される。今回、高所得者が入居し職員から「VIPユニット」とよばれているユニットケアの場において参与観察を行いA.R.ホックシールドが見出した「感情労働」の観点からケアワーカーの労働を考察した。その結果、利用者の生活においては、かつてみられたようなアサイラム的状況が薄まり、利用者が人として尊重される部分のみならずケアワーカーと利用者のせめぎあいの場面の誕生という側面があるという事実が見出された。そしてケアワーカーの労働においては、利用者個々の自尊心を支え、かつ利用者間の関係を調整するために、またユニットの統制をとるためにも、自己の感情管理と同時に他者の感情管理技能としての「気づかい」が相即的になされている事実が見出された。
著者
倉橋 耕平
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.43-51, 2021 (Released:2022-07-08)
参考文献数
26

2010年代の政治研究の1つの特徴は右派ポピュリズムへの注目である。2010年代の政治において「何が破壊され、何が生まれたのか?」。本稿は、まず日本社会のイデオロギー変容を調査研究から確認し、その後で2010年代の政治コミュニケーションの特徴を検討する。90年代以降有権者のイデオロギー理解に保守-革新の差異が目立たなくなった。その結果、反エスタブリッシュメントのポピュリズム政党が登場することとなった。その象徴的な出来事の1つが、40代以下の世代では「日本維新の会」が最も「革新」であると調査に回答していることである。これはアカデミズムが定義する「革新」と一般社会の理解が異なることを意味している。この状況は「私たち/彼ら」の線を作り出すことを主流な方法とする(右派)ポピュリズムと非常に親和的である。実際、(ネット)右翼の用いる言葉は、しばしば「私たち」研究者が用いる意味とは異なり、特定の言葉の持つ従来の意味や歴史、文脈を無視して用いられている。しかし、「彼ら」は特定の言葉の使い方を共有する人たちとともに意味の節合と脱節合を繰り返し、党派(=新しい政治主体)を作り上げる。その結果、両党派の間の対話は著しく困難となり、「トライバリズム」が深まることになった。最終的に本稿では、対話や議論が不可能になり、党派や敵対性が重視されるとき、権力が前景化すると論じた。
著者
丸山 真央
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.52-65, 2021 (Released:2022-07-08)
参考文献数
32

本稿では、2010年代を通じて大阪府・市政で大きな影響力をもった「大阪維新の会」を素材に、2010年代の地方政治の構造変化の一端を明らかにする。戦後日本の保守政治の支持基盤のひとつに、都市部では町内会があり、自営業者層を中心に担われるさまは「草の根保守主義」と呼ばれてきた。町内会をはじめ、かつて政治的に力をもった中間集団は、政党にせよ政治家後援会にせよ、近年、凝集力の低下が指摘されている。のみならず、ポピュリズム研究で指摘されるように、ポピュリスト政治家は、こうした中間集団を回避して、マス・メディアやソーシャル・メディアを活用して有権者から直接支持を調達する政治コミュニケーションを展開している。維新の大阪市政でも、既存の町内会が「政治マシーン」と批判され、補助金制度の改革や新たな地域住民組織の設立が進められた。我々の調査によると、そうした地域住民組織政策のもとで、これまで「草の根保守」層の中核を形成してきた町内会の担い手層の一部が、維新支持者に鞍替えしつつある。しかしそれはまだ多数でなく、またその支持も必ずしも堅いものではない。維新は、中間集団に統合されない流動的な無組織層の支持を獲得する一方で、既成の保守政党を支えてきた固定層である「草の根保守」の制度的基盤を破壊して、「中抜きの構造」と呼ばれるような地方政治の新たな構造を生みだしてきた。2010年代の地方政治は、そうした新たな構造の上で展開してきたといえるが、同時に、そうした構造が孕むデモクラシーの課題も浮き彫りにしてきたと考えられる。
著者
安達 智史
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.87-99, 2008-05-24 (Released:2017-09-22)
被引用文献数
1

グローバル化による社会的多様性の増大は、差異への恐怖を生み出し、異質性の排除を謳う極右政党の台頭にみる「不安の政治」を拡張させている。それは、差異を単純に称揚する従来の多文化主義に限界を突きつけている。不安の政治の高まりによる社会的緊張のひとつの帰結が、2001年の北イングランドにおける過去最悪規模の暴動である。以降、人種関係はイギリスの中心的な議題となっている。その議論のなかで準拠されるのが、内務省の『カントル報告』とラニミード・トラストの『パレク報告』である。前者は共通の義務を基礎にした文化的多様性の統合を、後者は文化的多様性の承認を通じた自発的結束をビジョンとして掲げている。この2つの社会ビジョンを基礎に、世紀転換期のイギリス社会のあり方が論争されている。だが、これらの議論はBritishnessへの包摂がひとつの争点となっているにもかかわらず、白人マジョリティのBritishnessからの疎外という重大な問題を扱い損ねている。『パレク報告』のビジョンは多様性を強調しすぎるために不安の政治を活性化させ、『カントル報告』のビジョンは不安の政治に配慮するがマジョリティに多文化状況への適切な適応を促すことができない。結果、極右政党の台頭を招いている。本稿は、ポスト多文化主義社会における結束と多様性の新たな配分を探るため、2つの社会ビジョンを相補的にとらえることを提案する。
著者
岡崎 宏樹
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.84-97, 2003-05-24 (Released:2017-09-22)

本稿の目的は、『自殺論』でデュルケームが「無限という病」とよんだアノミーの概念を再検討することをとおし、欲望の無限化という<症候>を産み出す社会構造を分析することにある。最初に、欲望の無限化とはどのような事態を意味するのか、という問いを考察する。第一に、それは、主体が産業社会が生産する対象を「永続的」に追求するという行為形式を意味する。第二に、それは、欲望が特定の対象から離脱し不在の対象へと拡散することを意味する。次いで、主体に無限回の欲望追求を強いる機制を考察し、それが「進歩と完全性の道徳」にもとづく産業社会の価値体系にあるとみたデュルケームの洞察に光をあてる。さらに、デュルケームがアノミーを暴力性エネルギーの沸騰として記述した点に注目し、彼が示唆したにすぎなかった、この沸騰と産業社会の価値体系との関係を、バタイユのエネルギー経済論(「普遍経済論」)によって理論的に説明する。最後にラカンの欲望論にもとづいて、アノミーは「倒錯」を導くとする作田啓一の解釈を検討し、この現象の病理としての意味を明確にする。以上の考察は、欲求の無規制状態という通説的なアノミー解釈に再考を迫るとともに、豊かな現代社会にただよう空虚さと突発する暴力性を理解するためのひとつの糸口を与えるものとなるはずである。
著者
西田 芳正
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.41-50, 2003

日本人、日本社会と在日韓国・朝鮮人の民族関係を検討する際、被差別部落の問題を避けることはできない。戦前、多数の朝鮮人が部落およびその周辺地域に流入、定着したことが知られており、職業、地域、学校などさまざまな場面で両者が近接して生活することになった。本論文では、特定地域での両者の関係史をたどり、他地区の事例も踏まえつつ両者の関係性を整理した。日本社会の差別性のゆえに職住において両者は接近せざるを得ない構造的な与件があり、職業において競合する立場に置かれることにもなる。差別的な意識を双方が抱いていることも事実であるが、日常生活場面では良好な関係が成立していたことを示す記録が多数残されている。貧困、生活苦のなかでの密接な関わりは、民族関係成立の条件を考える上で一つの手がかりとなるだろう。また、マイノリティ集団を相互に比較検討する視点もさまざまな知見をもたらすはずである。それぞれの集団に課せられた障壁=バリアのあり方、その認識と対応のあり方を比較によって検討することは、それぞれの集団の特性を浮かび上がらせるだけではなく、日本社会の差別的構造をも明らかにするはずである。
著者
仲 修平
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.48-62, 2018 (Released:2019-05-11)
参考文献数
31

本稿の目的は、戦後日本における自営業の職業構成の趨勢を対数線形・対数乗法モデルとイベントヒストリー分析によって明らかにすることである。日本の自営業は販売職や熟練職の比率の高さが一つの特徴として知られてきた。そうした自営業は1980年代の後半以降に減少してきたが、近年は専門職が増加することによって自営業の職業構成が変化の途上にあることが指摘されてきた。ところが、自営業の職業構成が長期的にどのように変化してきたのかについてはほとんど研究がなされていない。そこで本稿では、自営業と専門職の関連の強度が1955年から2015年にかけて常時雇用と比べると次第に強まったのか、個人の職業移動において専門的・技術的職業の自営業(自営専門職)への参入が他の職種の自営業への参入に比べて近年になるほど生じやすくなっているのかを、1955年から2015年に実施された社会階層と社会移動全国調査データの二次分析によって検討する。分析の結果、次の二点が明らかになった。第一に、自営業と専門職の結びつきは職業構造の変動の影響を考慮したとしても、1955年から2015年にかけて強まっていることがわかった。第二に、自営専門職への参入は近年になるほど生じやすい傾向が高まっているのに対して、販売職や熟練職の自営業への参入は生じにくい傾向となっていることが示された。以上の結果を踏まえると、自営業の職業構成は徐々に専門職化していると判断することができる。