著者
原口 耕一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.2-18, 2015-03-30
著者
吉田 一彦
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.368-356, 2008-12-23
著者
小川 賢治
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.41, pp.1-27, 2018-11-20
著者
国武 雅子
出版者
長崎純心大学・長崎純心大学短期大学部
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
vol.1, pp.1-15, 2003-03-01

戦後になって,国家と女性の関係,女性のあり方に関する意識はそれまでとどう変わったのだろうか。これらの問題を市川房枝を中心とする女性運動の側から考えてみたい。市川房枝は,戦前から婦選獲得同盟を組織して婦人参政権運動を展開し,「満州事変」については「戦争反対」を唱えるが,日中戦争が始まると婦人時局研究会を結成して戦時体制に協力していく。そして戦後になると「平和と民主主義」のための婦人参政権を主張する。これらの運動を貫くものは何なのか。何が変わり,何が変わらなかったのか。ここでは特に市川房枝の国家に対する意識に注目して検討する。1945年8月25日,市川は戦前からの女性運動の指導者を中心に戦後対策婦人委員会を結成する。「敗戦」という国家の課題に対応しようとするもので,「アメリカから与えられるより前に」と,日本政府に対し参政権を要求する。この戦後対策婦人委員会の政治委員会を母体に1945年11月3日,参政権運動のための新しい団体として新日本婦人同盟が結成される。戦時期婦人時局研究会によった若い世代を中心としたもので「勤労無産大衆婦人の立場に立ち」,「封建的な鉄鎖」と「金権的な支配」から女性を解放し,民主主義と平和を確立するための参政権の行使を目指した。「政治と台所」という戦前からのスローガンは変わらず,主婦としての女性の政治参加の意義を強調する。1946年4月の第1回総選挙に対して,市川は立候補せず,他の女性候補に対する応援よりも「政治教育」に重点を置いた活動を行う。また, 1947年3月,市川房枝は言論報国会理事であったことを理由に公職追放になるが,その解除の訴願文書の中で彼女は「国民の一人としてある程度協力せざるを得なかった」ことを主張していた。戦前,戦中,戦後を通して一貫してみられるのは,如何に国家の課題に答えるかという発想である。その背景にあるのは国家への帰属意識であり,国家の担い手として認められることが男女の平等,女性の解放につながるという認識である。それは個人が国家の主体として政策に関与することによって,国家が個人の問題を解決するという国家観を前提にしている。
著者
久田 健吉
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.83-97, 2004-01-10

ヘーゲルの国家論の特徴は、国家は人倫を大切にする国家でなければならないとした点にある。人倫を大切にする国家、つまり人倫の国家とは絶対的人倫の理念の認識に基づく諸個人の共存の国家であって、個人が己の個別的意志を普遍的意志へと陶冶していくことにおいて成り立つ国家である。しかし、同時にその国家はその個人を陶冶させる国家でもなければならない。それゆえ国家はこの人倫を発展させる知恵を、制度の知恵としてもつのでなければならない。そうしなければ国家は真の国家とはならない。ヘーゲルはこう考えていたのである。人倫の心とは信頼と尊敬の心。私の終生のテーマとの関連で言えば、隣人愛や慈悲や恕の心となろう。この心の源は市民生活の中にある。法的権利は守られてはいるが、ある意味で弱肉強食の世界になっている市民社会。この市民社会の中にあって、共生の生活をし、互助組織をつくってこの心を育んでいる市民たち。ヘーゲルはこの心ほど大切なものはなく、この心を育てる国家こそ真の国家、こういう国家になってはじめて市民が思いを寄せる国家になることができる。バラバラな「ドイツ的自由」の国家でなく、強固な国家権力をもつ国家を実現することができる。宥和の国家を実現することができる。ヘーゲルはこう考えていたのである。
著者
山本 淳子
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.38, pp.242-216, 2017-03-10
著者
佐久間 悠太
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
no.20, pp.135-158, 2014-02-28
著者
川田 耕
雑誌
人間文化研究
巻号頁・発行日
no.45, pp.147-173, 2020-11
著者
谷口 幸代
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.354-340, 2008-12-23

大正七年自費出版の『愛の詩集』、『抒情小曲集』が認められ、室生犀星は詩壇に登場した。そして長い放浪生活から抜け出て、東京に居を構える。新進詩人はその翌年に「中央公論」に投稿した『幼年時代』など三作が認められ、一躍、文壇に登場した。以後、詩、俳句、短歌、小説、随筆、童話と、多岐にわたる足跡を残すことになる。その犀星の十五冊の日記は現在、新潮社版の全集別巻一、二に収められている。日記には原稿料や印税がそのつど丹念に書き込まれており、昭和時代の一部には原稿料を受取るまでの経過や交渉の事情まで書き留めているものもある。この原稿料授受の記録を注解しながら、筆一本の売文生活の実態と文士気質を明らかにすることが、小稿の目的である。犀星が文壇に登場した大正時代は、新聞の発行部数が飛躍的に増え、雑誌界では各種の女性誌が次々に創刊され、原稿料が飛躍的に上がった時である。総合雑誌の「中央公論」と「改造」というライバル雑誌での犀星の評価は原稿料ではかることができるほどである。昭和時代は円本ブームで始まり、戦時中に戦費調達のため源泉徴収制度が施行され、昭和二十年代は、敗戦直後の物資不足と激しいインフレによる原稿料の急騰、新円発行の金融緊急措置令による不況のため、支払の遅延や未払いの様が書き込まれている。昭和三十年代の週刊誌ブームの頃、創刊間もない「週刊新潮」の目玉だった谷崎潤一郎『鴨東綺譚』がモデル問題で中絶したとき、ピンチヒッターとして立ったのが犀星だった。円地文子は「原稿を書くことは文学者の生命なのだから、それによつて得る報酬もなおざりに考えてはいけないというお考えだつた」と回想する。

3 0 0 0 OA 私の障害学

著者
石川 洋明
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.191-202, 2014-12-30
著者
古山 萌衣
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.69-84, 2011-12-30

本稿では、戦後教育改革のなかで障害児教育が「特殊教育」として整備されていった発展過程について分析している。そのなかで1979(昭和54)年の養護学校義務制実施をめぐって展開された議論についてその論点を整理すると同時に、特殊教育政策の振興において、養護学校義務制に期待された本来の役割と実際の施策の矛盾について指摘するものである。具体的には、養護学校義務制の実施は、それまで「就学猶予・免除」として就学の機会が保障されず、福祉が代替として担わざるを得なかった重度障害児の教育について、等しく学校教育において保障することにつながったことは積極的に評価できるものであった。しかし一方で、就学指導体制における判別の強化にみられるように、教育改革における効率化・合理化の論理を背景とした特殊教育政策の振興は、結果として別学教育を推し進めたという点に、施策としての問題が存在したということが指摘できる。またここに、インクルーシブ教育において、特別な教育的ニーズに対応する「教育の場」としての特別支援学校(養護学校)の在り方をめぐる議論につながる要因があることが主張できる。
著者
滝村 雅人
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.67-82, 2006-06-24

「発達障害者支援法」は2004年11月に制定されたが、その背景には戦後のわが国の障害者福祉・障害児教育をめぐる様々な変遷があった。その意味でも遅きに失した感があり、その内容からも「理念法」的な性格が見られる。しかしながら、「発達障害」という障害に焦点を当て、その存在と対応の必要性を提起した点では、重要な意味を持っているといえる。その内容の柱は、発達障害の早期発見・早期対応、学校教育における支援、就労の支援と自立及び社会参加のための生活全般にわたる支援にある。分野としては、保健・医療、教育、労働、社会福祉にわたる総合的対応策を講じることを目的としている。拙論は、これらの各分野ごとに関係条文を整理しながらそれぞれの課題を整理したものである。いずれの分野においても重要な課題は、専門家の養成と専門機関・施設の整備であり、またそれを利用するための経済的保障である。その意味でも、今後の実践を踏まえた制度の再構築が重要課題といえる。
著者
太田 昌孝
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.57-69, 2005-01-14

本論は、1、詩「白い鳥」に見られる宮沢賢治の宗教観について、と、2、宮沢賢治作品の原風景としての安倍氏の興亡(白鳥伝説)とに分けられる。1においては大正11年11月の、妹宮沢トシの死を契機に賢治の宗教観(死後観)が如何に推移したかを、詩「白い鳥」の作品分析を行うことにより明らかにした。それによると、「白い鳥」制作時(大正12年6月)における賢治は未だトシの死がもたらした喪失感から抜け出す気配はなく、『古事記』に描かれている倭建命の死後の姿に仮託する形でトシの死を受け止め、やがて賢治が立ち向かうことになる、「青森挽歌」での、トシの死の意味づけとは遠い境地にあることを考察した。また、2においては、岩手に生まれ、岩手に生きた宮沢賢治の意識の原風景の中に刷り込まれていると考えられる、前九年の役における安倍一族の興亡の現実と賢治の作品への影響を、具体的な作品を提示することにより論考した。宮沢賢治の作品(詩)に前九年の役(安倍氏の興亡)を明らかに表しているものは発見できなかったが、それをイメージの源泉にしていると考えられる作品は幾つか提示した。加えて、前九年の役に内包されている〈白鳥伝説〉と賢治詩との相関についても若干の考察を試みた。
著者
竹中 暉雄
出版者
桃山学院大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:21889031)
巻号頁・発行日
no.2, pp.551-600, 2015-03-23

This paper discusses the problem of the charging of school fees during the period of free compulsory education in modern Japan. 1 The charging of school fees for compulsory education was not sustained by any definite philosophy. There were exceptional cases when not only poor families but even relatively wealthy communities were exempted from charges, and also cases when charges were levied on the relatively poor community as well as on the wealthy. As a result, various unequal and unreasonable conditions came about. 2 No official explanation was given to the general public as to why it was necessary to pay school fees when compulsory education was supposed to be free, nor as to why it sometimes became unnecessary to pay. 3 Instead of the charging of fees, since the "Elementary School Ordinance" of 1900 had provided that compulsory education should be free, communities were still obliged to pay higher resident taxes because there was as yet no governmental grant to elementary schools. 4 Many books on educational administration defined the charging of school fees as a natural levy, and could not agree logically with the principle of free education. After the "Elementary School Ordinance" providing free compulsory education was issued, their explanation of free education consequently became very vague. 5 In a sense, the "Elementary School Ordinance" providing free compulsory education was unconstitutional, because the "city and town=village system" law of 1888 authorized cities, towns and villages to collect service charges as required, and the Imperial Constitution prescribed that an ordinance could not override the existing law. The author concludes that it was because of this that jurists, who must have been aware of this fact, hesitated to give their unconditional support to the free education system, with the result that their explanations became all the more vague.
著者
加藤 麻由美
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.77-91, 2003-01-10

多文化主義は当初多民族国家カナダにおいて社会統合のための政策として採用され、その後オーストラリア、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国などへ普及していった。しかしながら、多文化主義は文化的差異の間の新しい均衡を目指しているために、社会分裂の危険性や西欧文化の否定につながるというパラドックスに悩まされることになる。反多文化主義派は、これまで特権的な地位を占めていた西欧文化の優位性が失われるのではないかとの脅威を感じている。本稿ではグローバル社会の現在、民主主義思想から生まれてきた新たな社会統合原理としての多文化主義の可能性と問題点について概説し、多文化主義の限界を乗り越え、その可能性をより発展させる戦略としてディアスポラおよびハイブリディティ概念の活用を提案する。
著者
菅原 真
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.13-27, 2009-06-30

フランスの1789年「人および市民の権利宣言」における「市民」概念は、外国人を排除する観念であるのか。本稿は、この問いにささやかな検討を加えるものである。この問いに対して、フランスの公法学説には二つの対立する見解がある。第一の説は、人権と市民の権利の間を「分離切断」し、外国人を含む全ての人に属する権利と、外国人には保障されずフランス市民だけに限定された権利とに区別する考え方である。第二の説は、人権宣言の起草者たちの「普遍主義」的ないし自然法論的観点からこの1789年宣言を再定位するというものである。1789年宣言の諸条項それ自体を再検証し、またフランス革命初期における立法者意思、1789年当時においては「普遍主義的潮流」が「ナショナルな潮流」を上回っていたこと等を総合的に斟酌すると、この第二説の解釈が妥当性を有すると考えられる。
著者
菅原 真
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.13-27, 2009-06-30

フランスの1789年「人および市民の権利宣言」における「市民」概念は、外国人を排除する観念であるのか。本稿は、この問いにささやかな検討を加えるものである。この問いに対して、フランスの公法学説には二つの対立する見解がある。第一の説は、人権と市民の権利の間を「分離切断」し、外国人を含む全ての人に属する権利と、外国人には保障されずフランス市民だけに限定された権利とに区別する考え方である。第二の説は、人権宣言の起草者たちの「普遍主義」的ないし自然法論的観点からこの1789年宣言を再定位するというものである。1789年宣言の諸条項それ自体を再検証し、またフランス革命初期における立法者意思、1789年当時においては「普遍主義的潮流」が「ナショナルな潮流」を上回っていたこと等を総合的に斟酌すると、この第二説の解釈が妥当性を有すると考えられる。