著者
斎藤 重徳 大谷 和寿
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.p25-32, 1988-12

我々は,スポーツやトレーニングを行う場合,その前に必ずといっていいほどウォームアップ(Warm−up)を実施してからそれらの運動を行っている。ウォームアップの役割は,次に行う運動に対する生理的,心理的準傭である1)といわれている。そして,ウォームアップは最終的には運動実施者のパフォーマンスを促進するという結論に到達すると思われる。オゾーリン(Ozlin)は,"有機体のシステムは休んでいると確実に不活動な状態にあり,活動を開始してもすぐには有機体の機能的効率を高めることはできない。そこには高い生理学的効率を発揮するまで,特定の時間が必要である"といっている。実際にスポーツやトレーニングを行う前に,この状態に到達したり,アプローチすることがウォームアップの目的になるわけである。 ウォームアップに関する研究は,これまでに数多く報告されている。石河は,ウォームアップに関する従来の研究結果を紹介している。その報告に於て石河は,ウォームアップを本運動と関連した運動と関連しないものとに区分し,更に後者のうち運動によらないものを受動的ウォームアップとしている。そして関連ウォームアップの場合,効果のある場合とない場合が半々で,必ずしもウォームアップの効果がはっきりしているとはいえない。柔軟性では効果が期待されるが,これがパフォーマンスの向上につながっているとは限らないと記している。又,非関連ウォームアップについても効果が相半ばしている。そして,非関連ウォームアップのなかの受動的ウォームアップの手段として温水シャワー,入浴,ジアテルミー,冷水シャワー,冷水浴それにマッサージ等が行われており,その効果については,温水シャワー,入浴,冷水シャワー,冷水浴,ジアテルミーはマイナスの効果が報告され,ウォームアップとしては望ましくないとされている。又,マッサージは効果があるという報告を見ないと記している。 小川,阿久津は,ウォームアップの効果を身体柔軟度の変化から検討している。その結果,ウォームアップとして一般的に行われる程度の準備運動により,身体の柔軟性は著しく増大し,入浴による温熱刺激によっても柔軟性は向上したと報告している。 その他,飯塚は運動代謝の面から,日比は体温,筋温の変温の面により,さらに中原は中枢神経系の興奮レベルの面よりウォームアップの効果を認めているという報告がある。 運動を伴なうウォームアップに効果を認めた報告が多い。運動すれば体温の上昇がみられることは周知のとおりであり,パフォーマンス促進の一要素となっていると考えられる。ウォームアップに関するこれまでの研究報告にも,体温や筋温との面からその効果をみたものもあるが,運動場面における活動部位の深部温についての報告は知らない。そこで,我々は新しい試みとして,臨床で使用される深部温モニター用コアテンプを使って身体各部の皮膚からの深部温と表面温を測定し,比較,検討することによって運動を伴なうウォームアップが生体に及ぼす影響について基礎知識を得ることを目的とした。
著者
卜田 隆嗣
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.p9-15, 1989-07

このたび学習指導要領の改訂が決まった。音楽科に関してもさまざまな変更がみられるが,とりわけ教材面で,民族音楽を取り上げることになった点が注目される。そこでは,これまで常にそうであったように,音楽の「学習」とは何か,音楽を「学ぶ」というのはいったいどういうことなのか,という本質的な問題は棚上げにされたままである。たんに教材の内容を拡張すれば,それで音楽教育が改善される,と信じて疑わないような姿勢がそこに垣問みえる。そもそも音楽の「学習」なるものが成立し得るのだろうか。もし成立し得るとするならば,それはどのような視点からであろうか。 音楽を「学ぶ」と言った場合,当然のことながら,誰が,何を,いかにして学ぶのか,が問題となるはずである。誰が,という問題は,とりあえずここでは問わないでおこう。基本的には,いかなる社会であってもその社会の成員はすべて,なんらかの形で音に関わるに違いないからである。それでは,「音楽の学習」とは,何をいかにして学ぶことなのだろうか。何を学ぶか,という問いは,一見して自明な問いのように思われるが,実際にはこの部分を暖昧なままにしている場合が多い。 たとえば,われわれが数学を学ぶのは,たんに四則演算の能力を獲得するとか,ケーレー・ハミルトンの公式を使いこなせるようになるとかいった目的のためだけではない。こうしたことは,枝葉末節とまでは言えないにしても,少なくとも最終目標ではない。むしろ学ぶべきことは,この人間が積み上げてきた学問の体系そのものであり,数学の体系をとおして人間がどのように世界をとらえてきたかを理解することなのである1)。同様に,音楽についても,視唱ができるようになるとか,移調ができるようになるとかいった能力・技術を習得することは最終目標ではない。音表現という人間の営みをとおして,どのように世界をとらえ,解釈しているかを知ることが重要なのである。したがって,いかに「学ぷ」か,についても,たんに技術的な習得のレベルを超えて,どう世界をとらえていくのか,という点が問題にされなければならない。 このようなものとしての音表現のあり方を解きあかそうとするのが音楽学の一つの役割である以上,音楽教育学は音楽学の中に合まれる,あるいはかなりの部分が音楽学と重なりあうことになる。この点をもう少しはっきりさせるために有効なのは,音楽学の領域でどのように研究対象をとらえてきたかをふりかえることである。とりわけ,当初から音表現に関わる人間の営みを広く全体的にとらえる方向に向かってきた民族音楽学の分野は,重要である。特に,1960年代にこの分野で導入された行動科学的視点は,音楽教育学に深い関連をもつものである(徳丸1970a:126参照)。この時期を代表するアラン・P・メリアム(MERRIAM)の主著『音楽人類学』も,行動主義的な立場,あるいは行動主義の音楽研究への適用がその大きな特色となっている。以下では,彼の著作にみられる,音楽研究のためのモデルを考察し,そこで学習がどのように位置づけられているかを検討することをとおして,音楽の学習とは何か,を考えたい。
著者
深田 博己
出版者
島根大学教育学部
雑誌
島根大学教育学部紀要 教育科学 (ISSN:0287251X)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p71-79, 1987-12

本研究では,恐怖喚起コミュニケーションの説得効果を予測あるいは説明するために提出された既存の理論・モデルの特徴と限界を考察し,試案段階であるが,認知−情緒統合モデルを提案する。