著者
新田 孝行
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.86-100, 2017 (Released:2018-03-15)

現代オペラ演出は音楽学の新しい課題である。ドイツ語圏ではレジーテアター(演出演劇)がオペラ愛好家や理論家の間で議論を呼んできた。台本上の地理的・時代的設定や登場人物の役柄、プロットを変更する権限を演出家に認めるレジーテアターは、「作品への忠実さ」を尊重せず、こじつけ的解釈を好む演出家の横暴と批判されることも多い。しかし、これを擁護する側は、台本やスコアだけでなく上演もオペラに含まれるとする記号論的観点から、忠実さの要求が的外れにすぎないと主張する。 現代オペラ演出は、1990年代のアメリカで発展したニュー・ミュジコロジーと比較することができる。いずれも学問的‐芸術的実践に属する。前者が音楽学的に再検討されたオペラ上演ならば、後者は研究者による主観的・修辞的音楽言説である。両者はまた音楽作品の意味を動かそうとする。演出家は音楽家ではないが、演出によってオペラのイメージをつくりかえることができる。同じ目的のためニュー・ミュジコロジストは、ある楽曲をそれに新たなものを付け加えるような言語によって解釈する。 言い換えれば、現代オペラ演出とニュー・ミュジコロジーはともに解釈学的性格を有する。ドイツ文学者ゲアハルト・ノイマンは、それを通してオペラに秘められた矛盾した意味が明らかになる窓としてレジーテアターを定義した。似たような考えに基づいて、ニュー・ミュジコロジーを代表する一人のローレンス・クレイマーは、自らの音楽解釈学を「解釈学的窓」という観点から定義している(『文化的実践としての音楽』、1990年)。最終的に、現代オペラ演出はニュー・ミュジコロジーの演劇的で、より説得的なヴァージョンと言える。なぜなら、劇場では作品とその解釈を区別することができないからである。
著者
森本 頼子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.78-91, 2014-10-15 (Released:2017-04-03)

The Sheremetev Serf Theater (1775-1797), managed mainly by Count Nikolai Petrovich Sheremetev (1751-1809), was one of the few theaters that imported and performed the French genre tragedie lyrique, which was never staged in any other Russian theaters (not even the court theater). This paper aims to present the facts regarding the performances of tragedie lyrique at the Sheremetev Theater according to the handwritten correspondence, in French, between Count Nikolai and Monsieur Hivart (date of birth and death unknown), a musician of the Paris Opera, which is preserved at the Russian State Historical Archive. Furthermore, this work aims to promote appreciation of said theater's activities. Many performances of tragedie lyrique were held at the Sheremetev Theater between 1784 and 1791. Count Nikolai was increasingly interested in tragedie lyrique, including the fashionable operas by C. W. Gluck and his followers, which were imported into the theater every year. When these operas were performed, the troupe expended great effort on preparing the performances under the leadership of Count Nikolai. For example, Renaud, by A. Sacchini, was imported with much assistance from Monsieur Hivart, and the entire text was translated into Russian, with great difficulty. Ultimately, Count Nikolai ordered Monsieur Hivart to create an opera in three acts, Tomiris reine des Massagetes, which has choruses, dances, and recitatif (that is, the same qualities as tragedie lyrique). Given the challenges of performing tragedie lyrique, Count Nikolai demanded character in the music, spectacle, and festivity of the opera. He demonstrated his utmost concern for the performance of fashionable works. These challenges reveal the Sheremetev Serf Theater as an "opera theater" capable of staging full-scale operas. In addition, the circumstances suggest that the foundation for the flourishing of the operatic culture in the 19th century was laid by nobles in the late 18th century.
著者
塚田 花恵
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.65-79, 2016-03-15

French music historiography after the Franco-Prussian War evolved in terms of redefining cultural identity. This study attempts to provide a better understanding of one of the modes of writing music historiography in 1910s France, through analysis of the narrative of progress adopted in Jules Combarieu's Histoire de la musique des origines a nos jours (1913-1919). Combarieu, a republican, presented in his Histoire de la musique the historical development of music in the 19^<th>-century France as a process of progress and a series of emancipations: from the Church during the Middle Ages and Renaissance, and from the court through the French Revolution. He described the progress of the genres of symphony and opera as a phenomenon that occurred mainly in France, assigning a significant role to Berlioz. Consequently, Combarieu's narrative places France on the central stage of the European music history while including German canonic composers. In his historical account, however, Combarieu devoted more space to Beethoven and Wagner than Berlioz. The reason behind this is the collision between the musical taste of the author, a former enthusiastic Wagnerian, and the German music reception in France during World War I. In fact, Berlioz's music was expected to contradict Wagnerism since the 1880s. With its academic justification for assigning Berlioz an important historical position, Combarieu's history of music contributed greatly to Berlioz's canonization that began after the Franco-Prussian War. The narrative of progress presented in Histoire de la musique that depicts Berlioz as a musical symbol of the French Republic and simultaneously gives an ambivalent evaluation of Wagner reflects an historical phase of music historiography after five decades of its existence, which evolved in relation with identity politics in France since 1870.
著者
武田 康孝
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.49-66, 2022 (Released:2023-10-15)

本稿では、太平洋戦争期の音楽放送の変容を、番組制作者の思想及び実践から考察した。特に、1943(昭和18)年に日本放送協会の音楽部長に就任した吉田信(1904-1988)に注目し、彼の音楽部長就任の経緯、及び彼の音楽観に基づいて変化した音楽放送の方向性について、実際に制作された番組の概要を示しながら検討を行った。 日本の音楽放送は、1925(大正14)年の放送開始以来、洋楽と邦楽が別の部署で制作され、そのうち洋楽放送はラジオの聴き手の教養を向上させるものとして認識されていた。太平洋戦争が長期化し、放送政策が戦意昂揚から大衆重視の方向性へと舵を切る中で、音楽記者出身の吉田は協会から請われて音楽部長に就任した。あらゆるジャンルの音楽に通じ、幅広い人的ネットワークを有する吉田は、音楽放送の組織的一元化を部長就任の条件として提示するとともに、就任後は、大衆が楽しめる楽曲、または日本の伝統的な美観に基づいた楽曲の制作を重要視した。吉田は、それまでもっぱら芸術音楽系作曲家に委嘱してきた『国民合唱』の作曲を歌謡曲・民謡畑の作曲家にも委嘱したり、開戦直後に姿を消していた軽音楽番組を復活させたりする一方、芸術音楽の番組にも歌謡曲や軽音楽を組み込むなど、既存のジャンルを超えた番組制作を目指した。 音楽をジャンルで分け隔てしない吉田の音楽観及び音楽放送の方針は、戦時下の放送政策とも絡み合いながら、放送開始以来長らく続いてきた洋楽放送の特権的な「枠組み」を壊し、文字通り音楽放送へと変容を遂げる契機となった。大衆を重視する吉田の方向性は終戦後の音楽放送とも強い連続性を有している。その意味で、この時期の音楽放送は新たな時代の音楽放送の萌芽として捉えることもできよう。
著者
加納 遥香
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.17-31, 2022-10-15 (Released:2023-10-15)

1954 年のジュネーブ協定によりベトナムは南北に分断された。北部を支配領域とする社会主義体制下のベトナム民主共和国(以下、ベトナム)では、ベトナム労働党が厳重な思想統制を敷く一方で、自国の文化に創出に積極的に取り組んだ。16 世紀末イタリアに起源を持つオペラに関する事業として、文化省は国立のオペラ団であるベトナム交響・合唱・音楽舞踊劇場を設立し、外国のオペラ作品を上演した。さらにベトナムの作曲家ドー・ニュアン Đoች Nhuận(1922–1991)がオペラの形式的特徴に基づいて創作した《コー・サオ Cô Sao》は、ベトナムで初めての「音楽劇 nhạc kịch」として 1965 年に初演された。  本稿では、当時の政策文書、新聞・雑誌記事、楽譜を用いて、1954 年から 1965 年にかけて展開されたオペラに関連する政策、活動、言論を読み解く。それにより、ソ連やフランスといったオペラ大国と密接な関係を持つベトナムが、外来の芸術であるオペラにどのように向き合ったのかという問いに取り組む。ベトナムの対外関係と国際社会に対する対外意識に着目して、ベトナムの音楽家たちのオペラに対する思想や姿勢を照らしだし、同国の国家建設におけるオペラの機能を明らかにする。  ベトナムの政府や音楽家たちは、植民地時代の遺産としてのオペラ劇場や西洋音楽に関する知識、技術、人材を継承し、社会主義諸国の積極的な協力の下でオペラを受容することで、オペラに関する制度を構築し、ベトナムらしさに満ちた自国の作品と共産主義者の方針に沿う新しい言説を創出した。国家建設において、オペラはベトナムが国際舞台にあがるための手段であった。さらにそこで、「音楽劇」という概念を用いることで、冷戦構造の中で、まさにベトナムを舞台として熱戦が始まるこの時期に、ベトナムはヨーロッパ、ソ連、中国などを眼差しながら主体的な国家を構想していた。
著者
高倉 優理子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.61-77, 2018 (Released:2019-03-15)

本論文は,黛敏郎(1929~1997)の自筆スケッチ集である明治学院大学図書館付属日本近代音楽館蔵「Campanology資料」をもとに,《涅槃交響曲》(1958)及び《曼荼羅交響曲》(1960)の基礎和音成立過程を比較し,黛の創作活動における両作品の位置づけについて考察するものである。 黛は梵鐘音の音響分析結果をもとに作品を創作したことで知られ,《涅槃交響曲》および《曼荼羅交響曲》は,その代表作として捉えられてきた。「Campanology資料」は,黛が梵鐘音をもとに作曲した諸作品の一次資料であり,黛の自筆で「Campanology資料」と記入された表紙および作品の自筆スケッチと黛が創作の際に使用したとみられるドキュメントの計8点(資料1~8)から成る。8点の資料は,《涅槃交響曲》,《曼荼羅交響曲》及び電子音楽作品に関する資料を含んでいると考えられる。また8点の資料のうち,《涅槃交響曲》の資料は資料3-1,4,5,8,《曼荼羅交響曲》の資料は資料3-1,4,5,7である。 「Campanology資料」を用いて両作品における基礎和音の成立過程を比較すると,両作品とも山下敬治の論文「実験音響学」から得た梵鐘音振動数データを用いて作曲されているという共通点が見られた。しかし,《涅槃交響曲》の基礎和音が梵鐘音振動数データを書き起こして作成した和音の原形または移高形で構成されているのに対し,《曼荼羅交響曲》では梵鐘倍音の構成音における規則性をもとに音列を作成し,その音列の構成音を積み重ねて基礎和音を作成しており,両作品における梵鐘倍音の利用法は異なっている。これらの結果から,《涅槃交響曲》と《曼荼羅交響曲》は,双方ともに同一の梵鐘音データを研究する過程で生み出された作品であると位置づけることが可能である。黛は両作品の創作を通じて梵鐘倍音の規則性を複数の角度から分析し,自身の従来の作曲技法とも組み合わせて活用することにより,表現手法の拡充を試みたと考えられる。
著者
田川 真由
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.87-102, 2021 (Released:2023-03-15)

18世紀から作曲され始めるようになったオルガン協奏曲は、19世紀に入り一度作曲が途絶えたが、19世紀後半に再び作曲されるようになる。この復興と呼べる現象を指摘したコロバは、J. G. ラインベルガー(1839-1901)のオルガン協奏曲におけるオルガンとオーケストラの組み合わせ方が、他の作曲家と異なると述べている(Choroba 2001)。しかしコロバは、様々な作曲家の楽曲の形式分析を主眼としていたため、ラインベルガーのオルガンの用法は十分に論証されていない。そこで本研究では、ラインベルガーのオルガン協奏曲を、同時期に書かれた他の作曲家(フェティス、プラウト、ギルマン)の楽曲と比較し、彼のオルガンの用い方の独自性と、その着想の源泉を明らかにすることを目的とする。 本論ではまず、ラインベルガーのオルガン協奏曲の分析を音響設計に着目して行った。そして、彼の楽曲がオルガンとオーケストラという2つの音響体を対立させる構図ではなく、両者を同時に用いることで、音響を融合させていることを明らかにした。これが彼の楽曲の独自の特徴と言える。 次に、その着想の源泉について、作品成立背景を示すあらゆる資料から探った。そして、新たに完成した大オルガンを想定して作曲した同時代の作曲家と異なり、ラインベルガーの身近にあったオルガンは大規模なものではなく、彼の作品は特定の大オルガンのために作曲された可能性が低いことを示した。また、彼がモーツァルトの教会ソナタの校訂作業から少なからず影響を受けていたことも指摘した。 以上の考察から、ラインベルガーのオルガン協奏曲の音響設計は、同時代のフェティスやギルマンらと異なる環境にあった彼が、オルガンとオーケストラを融合した、より汎用的な作曲を指向したことによる成果であったと結論付けた。
著者
柴田 康太郎
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.1-16, 2018 (Released:2019-10-15)

1920年代において、日本のサイレント映画は西洋音楽の土着化と舞台から映画へという同時代的な転換との複合的な帰結による改革のなかにあった。当初、1910年代の日本映画は歌舞伎の強い影響下にあった。当時の邦画は舞台劇の一種の安価な代用品とみなされており、ロングショット、長廻し、固定カメラで撮影されていた。音楽演出においても三味線や太鼓などの伝統的邦楽器によって歌舞伎の舞台劇を模倣することが目指されていた。ところが1920年頃になるとこうした舞台志向の映画は、クロースアップやクロスカッティング等の映画に必要な技法を追求せず、古臭い物語に安住することで批判されるようになった。そして新しい邦画を模索する純映画劇運動のなかで、伴奏音楽もまた、洋楽と洋画伴奏のもとで再編成されることになる。しかもこの動きは、歌舞伎などの伝統の根強い時代劇においても浸透し、洋楽合奏や和洋合奏による古典邦楽曲や輸入洋楽曲の演奏、さらには新作伴奏曲をともなって上映されるようになるのである。本論文は、東京における日活の封切館であった浅草富士館や神田日活館の興行実態や伴奏曲をめぐる言説、および伴奏譜の資料考証を交え、複合的にこの再編成のありようを捉え直す試みである。まず浅草富士館の支配人三宅巌の試行錯誤に注目し、歌舞伎的伝統の根強い富士館でどのように洋楽合奏や和洋合奏が導入されたのかを考察する。次いで残る2節では、現存する楽譜資料や同時代の言説の検証により、1926年頃の時代劇伴奏のレパートリー、そして時代劇伴奏の代表的作曲家のひとりであった松平信博の1927年以後の実践を考察し、1920年代後半にどのように楽曲と編成における邦楽と洋楽の折衷ないし再編成が進んだのかを示す。
著者
舩木 理悠
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.18-31, 2017 (Released:2018-10-15)

エルネスト・アンセルメ Ernest Ansermet (1883~1969)は、著作『人間の意識における音楽の諸基礎(Les fondements de la musique dans la conscience humaine, 1961)』で、音楽に関する現象学的理論を展開し、人間の意識の観点から音楽の説明には音楽的対数が必要と主張し、また、著名な指揮者であるアンセルメは著作の中で演奏者による解釈にも言及している。だが、先行研究は対数に関する議論に注目し、「解釈」の問題をほとんど扱っていない。 それ故、本稿は「テクストを「解釈すること」«interpréter»が[中略]必要だ」(Ibid., t. II, 149)という主張に着目し、解釈の必要性についてのアンセルメの思索を考察する。 そのため、議論の前提として、まず、アンセルメの現象学的視点と彼の美学の主要概念である「カダンス」について確認し、これが人間の意識現象を説明するために用いられていることを示す。第二に、アンセルメにとって、解釈とはテクストの中で諸々のカダンスを捉えることであり、これらカダンスがテンポの質を規定するとされることを示す。 また、アンセルメの理論ではこれらカダンスが呼吸や脈拍といった身体的なものに規定されることから、本稿はアンセルメ美学における身体の役割を考察する。これにより、アンセルメの理論では、身体はそのカダンスの反復によって音楽的持続を測定する役割を持ち、また、「我々の現存的時間性notre temporalité existentielle」(Ibid. t. II, 133)は身体的カダンスの反復によって成立するとされることが明らかになる。以上から、アンセルメは身体と時間の関係に関する現象学的観点に基づいて解釈の必要性を主張したと結論し、身体との関係で演奏を論じる可能性を持つ理論としてアンセルメ美学を提示する。
著者
明土 真也
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.1-14, 2012-10-15 (Released:2017-04-03)

In ancient China where people made much of the Five Elements Theory, there were meanings for musical pitches and it was thought that the correct musical pitches possessed "the power of the proper guidance". In this article, I call such a property "the signicity of the musical pitches". On the other hand, Essays in Idleness : section 220 was written about the musical pitch of bell of Shitenno-ji Temple, but there was not the person who translated it into living language from the viewpoint of the Five Elements Theory. However, Prince Shotoku who founded Shitenno-ji Temple established the official rank system called kani-jyunikai (冠位十二階) based on the Five Elements Theory. In addition, kangen-ongi (管絃音義) that showed the meaning of the pentatonic scale based on the Five Elements Theory was written in Shitenno-ji Temple in 1185, and it was copied afterwards there. In other words we should think that the court musicians of Shitenno-ji Temple learned kangen-ongi after 1185. And it shows that they regarded that the musical pitches have the meanings based on the Five Elements Theory as important. According to these, I interpreted Essays in Idleness: section 220 from the viewpoint of the Five Elements Theory in this article. For example, the reason that people called the pitch of kousho (黄鐘) "mutable pitch" is that it means the four seasons. In addition, humor the people who knew the Five Elements Theory understand is included in words called "the middle of kousho" so that kousho means the center.
著者
熊沢 彩子
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.15-29, 2012-10-15 (Released:2017-04-03)

Etenraku, arranged for orchestra by the two brothers Naomaro and Hidemaro KONOYE, was one of the most frequently performed Japanese orchestral pieces in the world before World War II. The aim of this study is to investigate the musical arrangement of Etenraku and performances conducted by Hidemaro during the 1930s and 1940s. Two noteworthy differences are found from a comparison of Naomaro's manuscript (Manuscript version), possibly completed before 1930, and the Ryuginsha published version (Ryuginsha version) edited by Hidemaro in 1935. First, in the Manuscript version, the original gagaku instruments are replaced by similar types of orchestral instruments, while the Ryuginsha version does not always adhere to the original instruments and pursues a variety of tone colors. Second, the ending of the Manuscript version is based on the original piece with its typical ending gagaku phrase, whereas the Ryuginsha version shortens the original ending phrase and adds extra notes to finish the piece. According to Hidemaro this alteration was intended to appeal to the musical taste of European audiences. A survey of Hidemaro's performances in Europe reveals that Etenraku was often mentioned with relation to the nobleness of Hidemaro's pedigree and the long-established tradition of the original piece, rather than providing an evaluation of the music or performances themselves. In addition, by examining the handwritten notes in the orchestral parts used by Hidemaro, the author identifies exact performance locations during the 1930s and 1940s, demonstrating that Etenraku was performed mostly in Germany and surrounding countries. Through these analyses the author concludes that the KONOYE brothers transcribed Etenraku for orchestra with a strong concern about the reaction from Western audiences, and points out that its performances in Europe were possibly related to the political and diplomatic situation of Japan at that time.
著者
新田 孝行
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.86-100, 2017

現代オペラ演出は音楽学の新しい課題である。ドイツ語圏ではレジーテアター(演出演劇)がオペラ愛好家や理論家の間で議論を呼んできた。台本上の地理的・時代的設定や登場人物の役柄、プロットを変更する権限を演出家に認めるレジーテアターは、「作品への忠実さ」を尊重せず、こじつけ的解釈を好む演出家の横暴と批判されることも多い。しかし、これを擁護する側は、台本やスコアだけでなく上演もオペラに含まれるとする記号論的観点から、忠実さの要求が的外れにすぎないと主張する。<br> 現代オペラ演出は、1990年代のアメリカで発展したニュー・ミュジコロジーと比較することができる。いずれも学問的‐芸術的実践に属する。前者が音楽学的に再検討されたオペラ上演ならば、後者は研究者による主観的・修辞的音楽言説である。両者はまた音楽作品の意味を動かそうとする。演出家は音楽家ではないが、演出によってオペラのイメージをつくりかえることができる。同じ目的のためニュー・ミュジコロジストは、ある楽曲をそれに新たなものを付け加えるような言語によって解釈する。<br> 言い換えれば、現代オペラ演出とニュー・ミュジコロジーはともに解釈学的性格を有する。ドイツ文学者ゲアハルト・ノイマンは、それを通してオペラに秘められた矛盾した意味が明らかになる窓としてレジーテアターを定義した。似たような考えに基づいて、ニュー・ミュジコロジーを代表する一人のローレンス・クレイマーは、自らの音楽解釈学を「解釈学的窓」という観点から定義している(『文化的実践としての音楽』、1990年)。最終的に、現代オペラ演出はニュー・ミュジコロジーの演劇的で、より説得的なヴァージョンと言える。なぜなら、劇場では作品とその解釈を区別することができないからである。
著者
金子 亜美
出版者
日本音楽学会
雑誌
音楽学 (ISSN:00302597)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.14-29, 2014-10-15

This paper aims to build up a theory of communication around sounds and their contexts. To this end, the author will indicate the significance of indexical (non-semantic; or non-referential) aspects of sounds which mediate human communications. The first section focuses on the way in which human voices mediate communications which have no semantic basis. In order to explain why these communications can be understood by each other, some linguistic anthropologists focus on the non-semantic aspects of the voices. The theoretical basis, Silverstein's perspective, will be introduced in the second section. He shows the importance not only of referential signs with semantic meanings but also of non-referential signs, or indexical signs, which include such as intonation and voice quality with (meta) pragmatic meanings. The third section critically discusses Brigg's analysis on healing ritual, which based heavily on Silverstein's theoretical perspective. The last section indicates some implications of the discussion on current ethnomusicological studies. In this discipline, especially since 2000s, researchers tend to emphasize the cultural factors surrounding sounds, rather than to depend upon their unique musicological studies about sounds themselves. In contrast, the author claims that it is significant to refer to Silverstein's theory of communication in order to explore the way how sounds and contexts which they indicate interact each other.