著者
中丸 禎子
出版者
バルト・スカンディナヴィア研究会
雑誌
北欧史研究 (ISSN:02866331)
巻号頁・発行日
no.24, pp.96-108, 2007-08

ラーゲルレーヴ『エルサレム』(1901-02)は、スウェーデン・ダーラナ地方の農民37人が、信仰上の理由からエルサレムに移住するという、実際に起こった出来事に取材した長編小説である。本論では、『エルサレム』における太陽の描写と、カミュ『異邦人』(1942)におけるそれを比較し、サイード『文化と帝国主義』(1993)における植民地文学論・オリエンタリズム論・他者論と照らし合わせる。サイードは、植民地を舞台としたヨーロッパ文学において、登場人物のアイデンティティの完成が、同地の自然との「一体化」とパラレルであることを指摘する。本論では、『エルサレム』における「他者」としての太陽が、登場人物のアイデンティティの完成に伴って、ヨーロッパの文脈に組み込まれるプロセスを確認する。 まず、『エルサレム』と『異邦人』の共通点を指摘し、比較の意義を説明する。『エルサレム』では、若い女性グンヒルドが炎天下を歩き続けることで自殺するが、この場面と、『異邦人』で主人公ムルソーがアラブ人を殺害する場面には、異国(中東あるいはアフリカ)の太陽が、人物から理性と生命を奪う「野蛮」な「他者」として描かれているという共通点がある。このような敵対性・異質性・他者性は、「恵みの象徴」や「正義の光」といった北欧における太陽のイメージとは対照的である。次いで、ムルソーの死とアイデンティティの完成の関係を考察する。彼は、太陽に理性と思考能力を奪われた野蛮状態においてアラブ人を殺害し、その結果として死刑判決を受ける。これは、暴力的な太陽=植民地の自然との一体化であり、アイデンティティの完成である。一方、ムルソーとグンヒルドの相違点は、前者が孤独な「異邦人」であるのに対し、後者は、ダーラナからのエルサレム移民団という家族的共同体の一員だということである。死によって中断したグンヒルドのアイデンティティ完成は、副主人公イェルトルードに受け継がれる。このことは、作品の「予型論」的構成からも明らかである。イェルトルードは、熱病=太陽が身体にもたらす死から回復し、グンヒルドの元恋人と結婚する。彼女の回復と恋愛・結婚に際して、太陽は、北欧的な「命と恵みの象徴」として機能する。ここに、グンヒルドとイェルトルード双方の、一女性としてのアイデンティティの完成と、太陽が身体にもたらす死の「克服」が見られる。 一方、太陽が精神にもたらす死=「狂気」の克服は、イェルトルードの「預言者」としてのアイデンティティ完成によって成される。彼女の「狂気」は、他の登場人物からは「事実を認識する能力の欠陥」とみなされるが、物語の中で彼女の言葉はすべて実現し、作品全体として、「狂気」は、「理性や人智を超えた、真実に触れる能力」として描かれる。彼女が預言者としてのアイデンティティを完成させることで、太陽は再び正義と真実の光になる。『エルサレム』においては、運命の引き継ぎと預言という前近代的な文脈において、自己実現という近代のテーマが語られることで、「敵対的」な「他者」であった中東の太陽が、ヨーロッパの文脈に組み込まれるのである。