著者
寺尾 純二
出版者
甲南女子大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

調理や消化過程で生じる過酸化脂質は最小限に抑える必要がある。そこでネギ属野菜が有する過酸化脂質還元作用を利用することにより、過酸化脂質量低減化法を開発することを目的とした。万能ネギ、長ネギ、タマネギ、ニンニクのうちで長ネギの還元作用が最も強いことを明らかにした。食用油脂のトリアシルグリセロールヒドロペルオキシド(TG-OOH)を人工膵液で加水分解すると遊離脂肪酸ヒドロペルオキシ体(FFA-OOH)が産生したが、長ネギ試料はTG-OOHおよびFFA-OOHどちらとも還元作用を示さなかった。消化管ではネギの還元作用を発揮する活性本体が膵液により消化されて消失すると思われた。
著者
細江 光
出版者
甲南女子大学
雑誌
甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 (ISSN:1347121X)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.11A-54A, 2003-03-18

Sojin Kamiyama, one of the key figures in the creation of the modern Japanese theatre, was a friend of Junichiro Tanizaki throughout his lifetime. He is also known as one of the few Japanese actors who performed in Hollywood silent films in the 1920s. However, his life has not been sufficiently studied ; his fellowship with Junichiro Tanizaki has not been fully investigated either. This paper presents his personal history based on various data, information and interviews with members of his family.Sojin Kamiyama, one of the key figures in the creation of the modern Japanese theatre, was a friend of Junichiro Tanizaki throughout his lifetime. He is also known as one of the few Japanese actors who performed in Hollywood silent films in the 1920s. However, his life has not been sufficiently studied ; his fellowship with Junichiro Tanizaki has not been fully investigated either. This paper presents his personal history based on various data, information and interviews with members of his family.
著者
神野 富一
出版者
甲南女子大学
雑誌
甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 = Studies in Literature and Culture (ISSN:1347121X)
巻号頁・発行日
no.43, pp.A1-A10, 2007-03-20

In this essay, I entered into a number of cases of Fudaraku Tokai, and showed that there was a historical change in the meaning of Fudaraku Tokai. In the end, I came to the conclusion that it had changed in the middle of 16th century. Before that, the meaning of Fudaraku Tokai was to reach Fudaraku alive. In the later half of the 16th century, however, it changed into "Jusuioujou" (i.e. to drown oneself wishing that he will be born again at Fudaraku), which was combined with the thought of the Pure Land.
著者
辻 平治郎
出版者
甲南女子大学
雑誌
甲南女子大学研究紀要. 人間科学編 (ISSN:13471228)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.9-18, 2004-03-18
被引用文献数
1

今までの自己意識研究では, 自己意識をもっぱら受動的なものと捉え, その能動的側面を見失っていた。これはすべての自己意識研究に共通の問題で, 私たちの研究 (Usa et al., 1990 ; 辻, 1993) もその例外ではない。Buss (1982) もプライヴェートにではあるが, 「自己について考えることは自己意識には含まれない」と述べている。しかし, こうして受動的な自己意識と能動的な自己内省を区分すると, たとえば自己自身にかかわる侵入思考, 悩みや心配 (worry) として現われる自動思考, 坂本 (1998) のいわゆる自己没入などが「自己意識」の範疇に入り, 内省や瞑想, 自己の問題解決過程としての心配, あるいは森田の「思想の矛盾」の原因となる思想などは「自己内省」に入ることがわかる。それゆえ, これらを区別することによって, 臨床的にはより精緻な理解と研究が可能になると期待できる。そこで, 私たちは自己意識と自己内省を分化して測定できる「自己意識・自己内省 (SCSR) 尺度」を作成しようと考え, 試行錯誤の末にほぼ満足の行く尺度を完成させることができた。このSCSR尺度を辻 (1992) の完全主義尺度, Wells (1998) のAnTIと Meyer ら (1990) のPSWQとともに88人の女子大学生に実施して, 因子分析したところ, SCSR尺度は, (1)公的自己意識, (2)私的自己意識, (3)自己内省, の3因子に分化し, その因子的妥当性は確認された。AnTIとPSWQについては, 因子分析すると, 前者は「一般的心配」と「健康の心配」に, 後者は「心配の常在」と「心配へのとらわれ」に分化した。そこで, これらの尺度の因子間相関を検討し, 心配を基準変数として, 自己意識, 自己内省, 完全主義を説明変数とする重回帰分析を行った。その結果, AnTIの「一般的心配」とPSWQの「心配の常在」の間には高い相関があり, どちらにも完全主義の不完全性回避と公的および私的自己意識が有意な影響を与えていることがわかった。しかし各変数の影響力は異なり, 心配の常在には私的自己意識がより強く関与していることが明らかになった。また, 「健康の心配 (心気症的な心配)」には自己意識も自己内省も関与していなかった。さらに「心配へのとらわれ」に対しては, 自己意識と自己内省は逆方向の影響を及ぼしており, 自己意識は心配へのとらわれを強めるのに対して, 自己内省はこれを弱めて, 心配へのとらわれを少なくすることが明らかになった。これは能動的な自己内省と受動的な自己意識を区別することの必要性を支持するデータといえよう。ただし, この結果だけを見ると, 受動的な自己意識は不健康につながり, 能動的な自己内省は健康につながると見られるかもしれない。しかし能動的な自己内省も, 上記のように思想の矛盾などの問題を生じる可能性が考えられる。したがって, これらの問題についてはさらに検討を進めていく必要がある。最後に本研究の問題点について考えると, この研究結果はリーズナブルではあるが, 被検者が女子大学生に限定され, その数も88人に過ぎないという問題がある。SCSR尺度も因子的妥当性や内的整合性は認められたものの, 並存的妥当性や予測妥当性については検討されていない。再検査信頼性も確かめる必要がある。また心配の尺度も, 原尺度には信頼性や妥当性が認められていても, 翻訳によって変化が生じている可能性も十分考えられる。実際, 因子構造には違いが認められた。したがって, 今後被検者の範囲と数を増やし, 追跡調査をしていかねばならない。ところで, 文脈は少し異なるが, 最近杉浦 (2003) は心配を能動的なものと受動的なものに分けて研究を進めている。彼は問題解決のために能動的に開始した心配が, いつの間にか制御困難になって, 受動的なものになっていく過程を, 共分散構造分析によって見事に明らかにしている。その重点の置き所は本研究とは異なるが, ここには私たちの研究と共通の狙いを見ることができよう。本研究では自己意識と自己内省を区別して測定できることがわかったので, 今後は杉浦の研究などとも関係づけながら, さらに研究を進めていきたい。また, この理解を治療にも生かしていきたいと考えている。
著者
奥田 和子
出版者
甲南女子大学
雑誌
甲南女子大学研究紀要. 人間科学編 = Konan Women's University researches of human sciences volume (ISSN:13471228)
巻号頁・発行日
no.39, pp.77-88, 2003-03-18

In Japan, we have been in the habit of diluting whisky or shochu with cold or hot water, but this is not so with wine. However, in Greece, France and Italy, as well as Israel, there have been customs about diluting wine with water. The reasons adduced for this are : dregs or taste are too thick (l〜4), to increase the quantity for reasons of economy (3, 5), to prevent the bad effects of drunkenness (6), however the reasons are not altogetherclear (3, 4). After some research into the dilution of wine with water I have noticed that the mixture of wine and water has been associated with the liturgy in an Old Testament context, the Eucharist in a New Testament context, and wine offerings to the gods in ancient Greece. In Roman Catholic churches, water has for long been mixed with wine, and in the Eucharistic Sacrament this custom has continued to be observed until today.