著者
山下 昭洋
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2009年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.94, 2009 (Released:2009-12-11)

1895年清国と締結した下関条約により、台湾は大日本帝国の新たなる領土となった。 その結果、同年6月初代台湾総督樺山資紀率いる台湾総督府一行は、台北を台湾統治の駐剳地とし基隆に上陸し台北へ向かった。それを嚆矢に島都となった台北には日本内地から多くの内地人(日本人)が居住することとなり、戦前、最大で約11万7千人(『臺灣常住戸口統計』)の内地人が居住する台湾第一位の都市となった。 しかし、現在の台湾研究では日本統治下の内地人を対象とした研究は数が少なく、昭和期を題材にした先行研究が大半を占めているのが現状である。 報告者は2009年3月の日本地理学会で「日本統治初期の台北における内地人居住地の復原と社会空間の研究」とし図1のように、1900年の台湾統治初期の台北三市街(城内・艋舺・大稲埕)における業種別内地人の店舗の分布を明らかにすることができ、城内における多業種の分布、大稲埕における回漕業の比較的集中艋舺における接客業(貸座敷業等)の集中があったことを明らかにすることができた。また、この表とは別に1902年の台北三市街中の各街庄別の人口分布も明らかにし、さらにこの時期の艋舺における内地人女性の割合が高かったということも明らかにしたことで、芸娼妓が艋舺に集中していた事実も統計的に明らかにすることができた。 また、2009年5月に台湾で出版された『南榮技術學院人文學群2009年異文化交流國際學術研討會論文集』で「日本統治下台湾及び台北における1897~1902年の現住内地人の社会分析―『臺灣總督府統計書』「戸口」のデータ分析を中心に―」を発表した論文では、主に台北県庁の管轄範囲での年齢別人口、職業別の人口、出生地別人口を調査した。その結果、この時期の内地人は移動期にあたり、年齢的には男女とも青壮年層が突出して多く、性別的には圧倒的に男子が多かったことが確認された。また内地人を出生地別に見ると九州出身者と大都市出身者の割合が高く、女性は長崎、熊本の出身者の割合が高かった。それ以外にも、台湾の内地人居住地形成には官吏先行民間追随という形があったことも判明した。 これらの研究を踏まえた上で、本研究の対象時期は北白川宮能久親王率いる近衛師団が三貂湾に上陸した1895年5月から1902年頃までとするが、特に1895年から1900年を中心に台北の内地人居住地の形成過程を研究することとする。 主要な対象地域は、当時台北三市街と呼ばれていた城内・艋舺・大稲埕であるが、台北の内地人居住地の形成過程を明らかにするには、当時の交通移動手段を含めた調査を行うため、基隆及び淡水等をも含めた台湾北部一帯とする。 本研究の概要としては1895年の日本統治以前の本島人居住地と統治開始以降の内地人居住地形成過程を当時発行されていた「臺灣日日新報」や、戦前に記された回顧録や調査報告書等の文献を用い比較検証していくこととする。これらの資料を駆使し、台北の内地人居住地がどのようにして1900年当時の図1のように至ったかを、日本統治前からの台北三市街の発展や衰退、台北への運輸交通手段、台北を取り巻く社会情勢等を考慮しながら内地人居住地形成を多角度的に検証していくこととする。

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