- 著者
-
二井 彬緒
- 出版者
- 学校法人 自由学園最高学部
- 雑誌
- 生活大学研究 (ISSN:21896933)
- 巻号頁・発行日
- vol.3, no.1, pp.43-58, 2017 (Released:2017-12-21)
- 参考文献数
- 27
イスラエル国家を思考することは、ショアーの亡霊を呼び起こし、「国民国家nation-state」を思考することである。H・アーレントによれば、ショアーとは、近代ヨーロッパ式国民国家がその発展上の限界点に達した際におこった、「『国民』ならざる存在」の排除である。近代において、「『国民』ならざる者」、すなわちユダヤ人たちは、ある場所(ある国家)に居住しながらも「ホームランド」を喪失した者たちと目され、国家の内部にいながらその構成員にはなり得ない存在、G・アガンベンの言葉を使えば「ホモ・サケルHomo sacer」となったのである。イスラエルとは、そうした歴史の文脈の上で、シオニストたちによってユダヤ人の「ホームランド」として生まれた国民国家である。国民国家は、人びとのあいだに「国民」と「『国民』ならざる存在」といった想像上の境界線を引く。それは、個々人がみずからを「国民」として自己同一化するidentifyことであり、これもまた虚構でしかない。しかし、この虚構が強い効力を持つとき、言い換えれば、ナショナリズムが生まれるとき、「『国民』ならざる存在」の排除が起こるのだ。さて、近年、ニュースや新聞、またイスラエルに関する話題が持ち上がるあらゆる場において、「イスラエル批判は反ユダヤ主義である」といったレトリックを見かける。このレトリックは、「ユダヤ人」「イスラエル人」「シオニスト」を、あたかも同義語として見なすような効果を持っている。本稿では、現代思想と国民国家論の視点から、このレトリックを国民国家の表象として批判する。その中で、「国民」というアイデンティティという枠から脱し、個々人の生を語ること、そこにどのような可能性が存するのかを論じる。