著者
喜多 加実代
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.111-123, 2009 (Released:2020-03-09)

本稿は、スピヴァクのフーコーに対する批判を検討するものである。スピヴァクは、フーコーが『知の考古学』で否定した主権的主体を再導入しているとして批判した。その批判の主眼は、抵抗する主体や語る主体になりえない者についてフーコーが十分に考察していないということにある。スビヴァクの議論は、人々の沈黙や発言を、特に被抑圧者とされる人々のそれをどのように考えるべきかについて重要な問題を提起している。本稿は、批判の趣旨は評価しつつ、しかしこうしたスピヴァクの解釈とは逆に、フーコーが被抑圧者の発言を無媒介に入手可能でその意図に近づけるものとして扱ったわけではなく、スピヴァクの提案をむしろ先取りする形でその分析方法を提示していた可能性を示す。

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[哲学][フーコー]

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https://t.co/ZkmUWGi8O2 スピヴァクの異様に苛烈な態度にこそ、読み取るべきものがあるかもしれない。 「知識人と権力」も『サバルタン』も読みたい。
@zgkzw まさにそこを検討している論文がありますね https://t.co/1a3j2RYrmN 実際、フーコーは被抑圧者(?)本人の語りを編纂して刊行するというのを3回やっていて(「リヴィエール」、「バルバン」、「家庭の混乱」)、当事者の知り得るものを大事にしていた節もあると思います。

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