著者
堀田 香織
出版者
埼玉大学教育学部
雑誌
埼玉大学紀要. 教育学部 = Journal of Saitama University. Faculty of Education (ISSN:18815146)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.145-163, 2019

The present survey targeted 256 mothers belonging to two groups of single-mother households. It investigated actual conditions regarding nonresident father visitations of their children as well as the attitudes of the mothers regarding such visitations. The survey results showed that 39.5% of respondents allowed nonresident fathers to visit their children, while 59.8% did not. The frequency of such contacts most commonly was once per month, with each meeting lasting at longest at six to nine hours. The wishes of the children were confirmed by 30.9% of respondents, and were not confirmed by 66.4%. Furthermore, in response to the question as to whether or not it was felt that such contact between fathers and children was necessary for the child, 43.0% said they “strongly” or “mostly” agreed on the necessity while the 50.8% said the contact was “not really” or “not at all” necessary. Of these numbers, 17.6% of the respondents who had the attitude that such visitations were necessary did not follow through with such meetings, while 13.3% who saw them as unnecessary did follow through. The most common problem that mothers cited in terms of actually setting up the visitations was “Getting in touch with the father about visitations is stressful,” followed by “The child is uneasy (or seems to be) after a visit” and “The father has a bad influence on the child.” The important issues here would seem to be making it possible for mothers to receive assistance from someone so that arranging visitations is not stressful to them, and to continue efforts to verify whether or not such visitations are truly being done for the sake of the children. Finally, the most common response to the question as to what mothers think is achieved by arranging visitations was “The visit communicates to the child that his/her father cares for him/her” followed by “The father becomes aware of himself as a father and performs his duties as one.”
著者
宮島 健 山口 裕幸
出版者
日本グループ・ダイナミックス学会
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.62-72, 2018 (Released:2018-07-31)
参考文献数
39
被引用文献数
1 1

集団や社会において,集団成員の多くが受け入れていない不支持規範が維持・再生産される心理的メカニズムとして,多元的無知のプロセスによるはたらきが示唆されている。その集団内過程において,偽りの実効化は不支持規範の安定的再生産へと導く社会的機能を有することが示唆されている。しかしながら,偽りの実効化を引き起こす心理的メカニズムは明らかにされていない。本研究では,日本における男性の育児休業を題材として,他者に対する印象管理動機が偽りの実効化を誘発するという仮説について検証した。本研究の結果,多元的無知状態の人々では印象管理動機が喚起され,その結果として,逸脱者に対する規範の強要(i.e., 実効化)が誘発されることが明らかとなった。これは,多元的無知状況下において,他者信念を誤って推測した人々による逸脱者への規範の強要は,不支持規範を維持・再生産させようと意図しているのではなく,自己呈示的な動機に基づいて行動しているに過ぎないという印象管理戦略仮説の妥当性を示している。
著者
渡邊 肇子 福水 道郎 林 雅晴
出版者
一般社団法人 日本小児神経学会
雑誌
脳と発達 (ISSN:00290831)
巻号頁・発行日
vol.50, no.5, pp.364-366, 2018 (Released:2018-09-28)
参考文献数
9

メラトニンは種々の睡眠障害の治療に使われるが, 本邦では製造販売承認されていないため, 海外のサプリメントを輸入し使われることが多い. 今回, 海外で販売されているメラトニンサプリメントの品質評価を行い, メラトニンサプリメントは含量や溶出性が様々で品質が一定でないことを確認した. サプリメントは健康維持や増進目的で使われるため品質が一定でないこともあり, 治療目的で使う場合は, 品質や有効性, 安全性が確認された医薬品としてのメラトニン製剤の開発が望まれる.
著者
小林 敦子 田中 堅一郎
出版者
The Japanese Association of Administrative Science
雑誌
経営行動科学 (ISSN:09145206)
巻号頁・発行日
vol.25, no.3, pp.185-199, 2012 (Released:2013-08-27)
参考文献数
20
被引用文献数
1 2

The purpose of this study was to examine the influence on the mental health of female workers in Japanese organizations in terms of two dimensions of gender harassment (i.e., omission and commission) toward women committed by men, as well as by other women. A questionnaire was administered to a sample of 200 Japanese working women. It revealed the following: (a) Female workers who desire to get promoted perceived discomfort in experiencing omission and commission. (b) The frequency of experiencing omission and perceiving discomfort of commission had negative effects on their mental health through OPD. (c) The frequency of experiencing omission had a direct negative impact on their mental health. (d) The perceived discomfort of commission had a direct positive impact on their mental health.
著者
坂本 治也
出版者
日本NPO学会
雑誌
ノンプロフィット・レビュー (ISSN:13464116)
巻号頁・発行日
pp.NPR-D-18-00021, (Released:2019-10-17)
参考文献数
34

市民社会の発展を促す法制度は,誰によって,どのような理由・動機で,推進されるのか.この点を明らかにする研究は,これまでのところ十分な蓄積がなされていない.とりわけ,法制度の制定・変更に決定的な影響力を有する議員の分析が欠如している.本稿では,現代日本のケースを題材に「NPO政策の推進に関与する国会議員はどのような特徴を有するのか.なぜNPO政策を推進するのか」を,合理的選択論の理論枠組みと国会議員データを用いた定量的分析によって明らかにした.分析の結果,明らかとなるのは,以下の事実である.NPO政策は「票になりにくい政策」であるが,同時にニッチな政策であるがゆえに,「昇進」のための業績誇示の成果を得やすい政策の1つである.それゆえ,選挙に強く「再選」動機が弱い議員ほど,また当選回数が多く「昇進」動機が強い議員ほど,NPO政策の推進に関与しやすい傾向がある.また,中道左派・リベラルな政党や派閥への所属や比例区選出議員かどうかもNPO政策の推進態度と関連している.
著者
嘉納 吉彦
出版者
一般社団法人 日本エネルギー学会
雑誌
燃料協会誌 (ISSN:03693775)
巻号頁・発行日
vol.32, no.5, pp.270-279, 1953-06-30 (Released:2010-06-28)

明治末期に航空機がわが国に輸入されて以辛の発動機の発達の歴史とそれに伴うガソリンへの要求, ガソリン性状の変化, 使用方法の改善研究を概説し, 今後の航空燃料としてのガソリンとジェット燃料に要求されるべき特性についてのべ, 燃料製造の立場からはジエットエンジンの構造に関しての試案を提出している。ついで今後の航空燃料の生産方式の形態について軍需と民需の2点から論及した。
著者
川端 悠士 竹原 有紀 三浦 千花子 小川 浩司
出版者
日本理学療法士学会
雑誌
理学療法学 (ISSN:02893770)
巻号頁・発行日
pp.11508, (Released:2019-04-17)
参考文献数
50

【目的】大腿骨転子部骨折例における骨折型,小転子骨片転位の有無が術後4 週の短期的な運動機能に与える影響を明らかにすること。【方法】対象は転子部骨折例95 例とした。運動機能として術後4 週の安静時痛・荷重時痛,関節可動域(患側股屈曲・伸展・外転,患側膝屈曲),筋力(健患側股外転,健患側膝伸展),歩行能力を評価した。従属変数を運動機能,独立変数を骨折型・小転子骨片転位の有無,共変量を年齢・受傷前の自立度・認知症の程度等として共分散分析を行い,骨折型・小転子骨片転位の有無が術後の運動機能に与える影響を検討した。【結果】骨折型と有意な関連を認めた運動機能は荷重時痛,患側股屈曲・膝屈曲可動域,患側股外転筋力,健患側膝伸展筋力,歩行能力であった。また小転子骨片転位と有意な関連を認めた運動機能は歩行能力であった。【結論】不安定型骨折例および小転子骨片転位例は,術後4 週の短期的な運動機能が不良であることが明らかとなった。
著者
足立 加勇 Kayu Adachi
出版者
学習院大学
巻号頁・発行日
2015-03-07

日本のマンガ・アニメにおいて「戦い」は繰り返し描かれてきた重要なテーマである。それにもかかわらず、「戦い」を主題とし、その描かれ方を一定の視点から分析した論考は少ない。本論文は、マンガ・アニメの「戦い」にいくつかの類型を見出し、それぞれの「戦い」の表象の特性を分析することによって、日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の表象とその受容を支える物語および心性のメカニズムを探るものである。ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』において、人はなぜ「国民」という抽象的なもののために殺し合いをおこない、自らすすんで死におもむくのか、という問題を扱った。アンダーソンは「国民」に限らず、成員同士が常に顔をあわせる村落共同体以外の全ての共同体意識が想像の産物だとする(村落共同体もおそらくは想像の産物だとも述べている)。そして、「国民」は新たな共同体意識が想像されるようになったことにより、旧来の「想像の共同体」である「宗教共同体」「王国」が減衰したために誕生したものとした。アンダーソンは、新たな共同体意識の生成とその再編成に、出版資本主義が大きな役割を果たしたと指摘する。アンダーソンの指摘は、共同体意識とメディアによる消費者開拓の結びつきを明らかにしたものといえる。共同体意識と消費者開拓の結びつきは、日本のマンガ・アニメの受容においても確認できる現象である。特に、マンガ・アニメのファン共同体が「国民」と同じ「水平・世俗的、時間・横断的」なものであることが、アンダーソンが論じた「国民」とマンガ・アニメのファン共同体を似た性質を持つものにしている。今日のマンガ・アニメでは、ファン共同体の生成、維持、そして、その強化が大きな課題となっている。その理由は、主に、社会の閉塞感や不安のため、人々の互いを結ぶ紐帯に対する欲求がたかまっていることと、マンガ・アニメが安定した収入源を必要としていることの二つに求められる。そのため、マンガ・アニメの作品展開は、アンダーソンが論じた共同体意識の生成過程を縮小した形で反復するようになっている。このことは、マンガ・アニメの物語内容にも影響を与え、その形態を決定する要因となっている。現在のマンガ・アニメにおける「戦い」は、共同体の紐帯となる絆を語り、絆による勝利を語ることで、共同体意識の生成、維持、強化に資するものとなっている。その「戦い」の物語を成立させるメカニズムは、現実において戦闘を正当化し、誘発するメカニズムとも強い関連性を持っている。本論文は、マンガ・アニメに新たな共同体意識の発生を見るという視点を保ちつつ、日本のマンガ・アニメにおける「戦い」の諸相とその心的根拠を考察していく。その考察において重視するのは傷つく身体の表現である。想像されるものでしかない共同体意識の価値は、自分がその共同体の一員であるという意識を持つためにどれだけの犠牲を払えるか、ということによって示され、その犠牲の最もわかりやすい形が死や負傷だからである。共同体意識の生成、維持、強化に資する表現は、死の表現と深い関連性を持つ。本論文は、「戦い」を題材としたマンガ、アニメに対する考察を、「傷つく身体」と「記号的身体」を巡って展開されたキャラクター論から始める。1 章の1 節では、傷つく身体を巡るマンガ論の展開を追う。今日のマンガ論では、マンガやアニメのキャラクターは、極度にコード化された図像であり、記号的な性質が強いものとして理解されている。現実の人間は傷つき、苦しむものであるという認識は、そのような記号的な身体を持つキャラクターに対しても、傷つき、苦しむことを要請する。身体の問題は、リアリズムの問題、および、現実と虚構の接点がどのように構築されるべきか、という問題に発展する。2 節では、これらのマンガ論の前提となる、キャラクターの身体を構成する記号的な要素について考察する。これは、マンガやアニメを愛好する者たちの間では自明のものでありながら、口に出して説明されることがないものを明文化する試みである。また、この試みによって、80 年代後半頃から生じたキャラクターを構成するコードのあり方の変化が何であったかを明らかにする。その変化は、キャラクターとその受容者の関係を大きく変えていく。3 節では、「プリキュア」シリーズをとりあげ、キャラクターとその受容者の関係の変化が作品内容をどのように変えていくかを考察する。そこでは、キャラクターとその受容者の間に双方向的な関係が発生することが期待され、作品内における登場人物間の友情と、作品の愛好者が登場人物たちに対して抱く支持の感情の同一化がはかられる。作品の目的は、物語を語ることから、キャラクターとその受容者の間に互いを肯定する関係を作り出し、キャラクターを中心とした共同体意識を生成することへと移行する。それは、キャラクターを中心とした「絆」の現実における生成過程ととらえることも可能であろう。第2 章は、作品の物語内容を分析する。傷つく身体の表現は、マンガ、アニメを巡る言説の中では「リアリズム的な表現」であると考えられている。主人公が強大な悪に対して逆転勝利するという「戦い」を題材としたマンガ、アニメの物語内容は、「リアリズム的な表現」と必ずしも相性が良いものではない。マンガ、アニメに傷つく身体の表現を求めるリアリズム的要請は、その起点を第二次世界大戦における敗戦に設定することができるであろう。1 節、2 節では、リアリズム的要請に応えることと、主人公の勝利の両立が、戦後マンガ、アニメ史においてどのように実現されていったかを考察する。その両立は、傷つく身体を超克する奇跡が、「絆」を根拠に発生し、「絆」は、その正しさを奇跡の発生によって証明するという、循環論法的なメカニズムの確立によって実現されることになる。「絆」とそれが持つ循環論法的なメカニズムに耽溺を望む心情と、そのようなメカニズムに対する批判的な視線の共存が、「戦い」を描く日本のマンガ、アニメを根底で支えている。3節では、その具体例として『GUNSLINGERGIRL』をとりあげ分析する。第3章、第4章、第5章は、日本の「戦い」を題材としたマンガ、アニメから、身体の在り方を基準に三つのジャンルをとりあげ、それぞれ具体的に作品を分析していく。本論は、身体と科学技術の関係という関係から、「格闘マンガ」「サイボーグマンガ」「ロボットアニメ」の三つを、日本の戦うマンガ、アニメを代表する三つのジャンルとして抽出する。「格闘マンガ」とは、ここでは、スポーツの一種としての格闘技ではなく、格闘という形式に基づき登場人物達が戦うマンガ、アニメを指す。格闘は、科学の関与しない、人間が生まれ持った自然の肉体を持って戦うことを前提としている。それ故に、戦うことの正当性は人間の本性に基づいた自明のことであるとされ、戦うことの歓喜が耽美的に描かれてきた。それに対して、「サイボーグマンガ」におけるサイボーグとは、科学の力によって肉体を戦うための機械に改造された人々を指す。彼らは、超人的な力を持つものの、肉体を他者に奪われたという意識が劣等感を生み、その戦いは常に自己否定の契機をはらんでいる。一方、「ロボットアニメ」は、中に人間を乗せたロボットが活躍するという内容のアニメである。「格闘マンガ」の登場人物が自然の肉体に、「サイボーグマンガ」の登場人物が機械の肉体に縛られるのに対し、機械のロボットから自然の肉体を持ったパイロットが自由に乗り降りできる、つまり、機械と肉体を任意に選択することができるという特異性を持つジャンルである。第3章では「格闘マンガ」を、第4 章は「サイボーグマンガ」を、そして、第5 章は、「ロボットアニメ」について論じる。この三ジャンルは、それぞれ、「戦い」を題材にしたマンガ、アニメの世界において三つの極を作っているものといえる。三者の比較することで、三つのジャンルがそれぞれどのような物語を生成してきたのか、そして、その中で「戦い」とそれに伴う「犠牲」の関係が、時代の変化の中でどのように変わってきたのかを見ていく。そして、「戦い」を題材とした日本のマンガ・アニメにおいて、共同体の紐帯となり、個人に、この世界における位置づけを与える「絆」がどのような形で特権化されてきたのかを明らかにする。その「絆」は、単に物語内のものに留まらず、その作品を受容する人々をも含むものとなっている。現在では、コンテンツとコミュニティの親和性は製作者、消費者の双方に認識され、意識的に作品に反映される。主人公が傷つき倒れても、再び立ち上がって戦い、そして勝利する姿を描くマンガ・アニメ作品は、互いの共同性が信じる集団の結束を確認して強化するための死と再生の儀式となっているのである。

10 0 0 0 OA 登極令

巻号頁・発行日
1909-02-11