affenehmenst (@affenehmenst)

投稿一覧(最新100件)

70 0 0 0 OA 雲根志

RT @NDLJP: 発見者が「#ナゾすぎる」と思ったのか、「ナンダモンダ」と名付けられた石の図。 今では球状閃緑岩とみられているようです。 出典の『雲根志』には「氷の化石」(前編巻3)や「扇紋石」(3編巻3)など、他にも謎な石が数多く登場します。 #キュレーターバトル htt…
RT @NDLJP: 一見 #ナゾすぎる 絵の羅列に見えますが、これは絵で読める般若心経です。 詳しくは、当館の #本の万華鏡「へのへのもじえ―文字で絵を描く―」のコラム「絵心経」をぜひご覧ください。 https://t.co/Y1Hd1efwci #キュレーターバトル ht…

201 0 0 0 OA 百面相

RT @NDLJP: 小林清親の『百面相』には、老若男女の様々な表情が描かれています。 目にごみが入ったとき、暗闇の中を行くとき、針に糸を通すとき、相撲観戦中 …表情のチョイスが #ナゾすぎる 資料です。 #キュレーターバトル https://t.co/toyH574iWm h…

401 0 0 0 OA 麗斎叢書

RT @NDLJP: 小判を持ち、体に銭を付けた #ナゾすぎる 人面獣。 一見すると縁起が良さそうですが、その実態は…? #キュレーターバトル https://t.co/ygtikI9Gl3 https://t.co/yB6Ybd8yN8

113 0 0 0 OA 漱石全集

RT @aishokyo: ホイットマンは夏目漱石によって日本に紹介されました。「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』Walt Whitman の詩について」は下記のリンクから読めます。 https://t.co/XtMmZvIeUG https://t.co…

228 0 0 0 OA 畫本古鳥圖賀比

RT @NDLJP: 国立国会図書館、#キュレーターバトル 第2弾に参戦します! インターネットでご覧いただける当館所蔵資料から、お題に関する資料をご紹介していきます。 画像は、障子の間から顔を覗かせた妖怪です。窮屈そうな割に余裕の表情、いったいどんな体勢なのか… #ナゾすぎ…

110 0 0 0 OA 柑橘図譜

RT @NDLJP: これらは江戸時代に描かれたとされる「トラの骨」の絵で、「柑橘図譜」と呼ばれる資料に収録されています。 なぜ描かれたのか、なぜ柑橘の絵と一緒にまとめられたのか、「オランダ産」とあるのは本当なのか… #ナゾすぎる 点が満載です。 #キュレーターバトル htt…
RT @aishokyo: 1878年に出版された川島忠之助訳「新説 八十日間世界一周」が日本におけるジュール・ヴェルヌの最初の紹介のようです。翻訳者は銀行家でした。 https://t.co/eh3BJFy9cp https://t.co/XNdfgXn15t

151 0 0 0 OA 後漢書 120卷

RT @NDLJP: こうなった経緯が #ナゾすぎる 2つの資料をご紹介します。共通するのは【足跡が付いている】こと。一体いつ、どんな状況で付いてしまったのでしょうか…。資料の持ち主が慌てる様が目に浮かびます。 #キュレーターバトル https://t.co/ivFhP1RIU…

125 0 0 0 OA 古代江戸繪集

RT @NDLJP: こうなった経緯が #ナゾすぎる 2つの資料をご紹介します。共通するのは【足跡が付いている】こと。一体いつ、どんな状況で付いてしまったのでしょうか…。資料の持ち主が慌てる様が目に浮かびます。 #キュレーターバトル https://t.co/ivFhP1RIU…

379 0 0 0 OA 食卓漫談

RT @NDLJP: #ナゾすぎる 走る松茸…!? 昭和9年刊行の『食卓漫談』には、擬人化された食べ物が度々登場します。この松茸は、本書のなかで「一番早く出る(出回る)」と言われている、岡山産の松茸です。 #キュレーターバトル https://t.co/ndRwN38ax3 h…

136 0 0 0 OA 異魚図賛

RT @NDLJP: 画像は、不思議な姿の魚を集めた江戸時代の書物『異魚図賛』に収録されている「四方谷五口魚」。 5つの口から見える歯は鋭く、角もあって強そうですが、「仔豚のようでかわいい」という声も。 皆さんはどんな印象を持たれたでしょうか。 https://t.co/CZS…
RT @NDLJP: 国立国会図書館も #キュレーターバトル に参戦! インターネットでご覧いただける当館所蔵資料から、お題に関する資料をご紹介していきます。 まずは、スイカを奪い合う?ナゾのゲーム、「西瓜合戦」。白熱したバトルの様子が描かれています。 #ナゾすぎる https…
RT @NDLJP: 草双紙が完成するまでの苦労を妊娠出産の十か月に見立てるという #ナゾすぎる 趣向の『作者胎内十月図』。スランプの作者をゆるい仏たちが見守ります。七か月目の担当は薬師如来ならぬ杓子如来。薬壺の代わりに飯びつを持っています。#キュレーターバトル https:/…

113 0 0 0 OA 漱石全集

RT @aishokyo: ホイットマンは夏目漱石によって日本に紹介されました。「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』Walt Whitman の詩について」は下記のリンクから読めます。 https://t.co/XtMmZvIeUG https://t.co…
RT @zasetsushirazu: 昭和2年2月5日、川路寛堂(川路太郎)が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幕末期に中村正直と共に英国留学。宮越勉「敗戦後の志賀直哉」(『文芸研究明治大学文学部紀要』128、2016年)によれば、志賀直哉は寛堂が編述した『川路聖謨之生涯』(…
RT @zasetsushirazu: 明治42年6月27日、靖国神社境内の能楽堂で、防長史談会の創立大会が開催され、中原邦平と村田峰次郎が講演。広田暢久「毛利家編纂事業史 其の三」(『山口県文書館研究紀要』3)は、その創立の背景に末松謙澄の『防長回天史』への対抗があったとする…
RT @ishihara_shun: というわけで、拙著『硫黄島―国策に翻弄された130年』(中公新書,2019)の「はじめに」の部分を英訳して勤務先の研究所の年報に掲載しました。リンクからDLできますので、英語圏のJapan StudiesやEast Asian Studie…
RT @zasetsushirazu: 1865年4月2日、リチャード・コブデンが死去。英国の政治家で、熊谷次郎「『書簡集』にみるコブデンの急進的自由主義(上)」(『桃山学院大学経済経営論集』60-4、2019年)曰く、薩英戦争で鹿児島の市街を砲撃した点について「恐ろしい残虐行…
RT @zasetsushirazu: 明治12年4月1日、大原重徳が死去。文久2年に、勅使として島津久光を伴って江戸に赴き、幕政改革を要求した公家。外池昇「和宮降嫁と文久の修陵」(『人間文化研究』1)は、大原と一橋慶喜・松平春嶽の会談での、仁孝天皇17回忌のための和宮上洛問題…
RT @zasetsushirazu: 天保2年2月18日(1831年3月31日)、オーストラリアの捕鯨船レディロウエナ号が蝦夷地に来航。2週間ほど滞在し、松前藩士と若干の銃撃戦もあった。村上雄一「オーストラリアの捕鯨船と日本」(『行政社会論集』11-4)曰く、船長ボーン・ラッ…
RT @zasetsushirazu: 大正10年3月26日、沖野忠雄が死去。幕末の豊岡藩出身の土木技術者で、治水港湾工事の始祖と呼ばれる。松浦茂樹「沖野忠雄と明治改修」(『水利科学』 40-6)曰く、「事業の有利な進捗のためには法規一点張りの議論に耳を貸さず,内務省のローマ法…
RT @zasetsushirazu: 大正12年3月26日、加藤恒忠(加藤拓川)が死去。幕末の伊予松山藩出身で、甥に正岡子規がいる。『坂の上の雲』の主人公・秋山好古と同郷で、親友。外交官としてベルギー公使などを歴任。正岡明・今村暢好「加藤拓川資料集」(『松山大学論集』30巻5…
RT @zasetsushirazu: 明治20年3月7日、黒田長溥が死去。薩摩藩主・島津重豪の子で、幕末の筑前福岡藩主。蘭癖と呼ばれた大名の1人。慶応元年に加藤司書や月形洗蔵らを弾圧した「乙丑の獄」について、西尾陽太郎「黒田長溥と筑前勤王派」(『史淵』98、1967年)をネッ…
RT @zasetsushirazu: 天保7年1月18日(1836年3月5日)、石川忠房が死去。文政期の幕臣の中で、中川忠英・遠山景晋と共に三傑と呼ばれる。ロシア使節ラクスマンの応接を担当し、大黒屋光太夫を引き取った。多仁照廣「石川忠房と江戸幕府教化政策」(『敦賀論叢』14)…
RT @zasetsushirazu: 森谷秀亮「王政復古の大号令について」(『駒澤大学文学部研究紀要』26、1968年)は、慶応3年の王政復古について武家政治のみならず、摂政・関白の廃絶を宣言した意義を強調。森谷氏は、日本史籍協会叢書『伊達宗城在京日記』(東京大学出版会)の解…
RT @zasetsushirazu: 昭和9年3月1日、長沢鼎が死去。幕末の薩摩藩が英国に派遣した留学生(サツマ・スチューデント)の1人で、さらに渡米してブドウ王になった。森孝晴「長沢鼎のワイナリーの発展と帰国と家族の誕生」(『国際文化学部論集』19-1、鹿児島国際大学)曰く…
RT @zasetsushirazu: 昭和12年2月28日、上真行が死去。チェロなど西洋の楽器を習得し、東京音楽学校の教授などを歴任した雅楽家。塚原康子「明治30年の宮内省式部職雅楽部」(『東京藝術大学音楽学部紀要』31)曰く、井上馨外相による鹿鳴館時代には、「舞踏
RT @zasetsushirazu: 明治33年2月26日、品川弥二郎が死去。討幕の密勅の受領に関わった。末木孝典「明治二十五年・選挙干渉事件と立憲政治」(『近代日本研究』32)曰く、第1次松方正義内閣の内相時代の選挙干渉で、「選挙に成果を出す責任と治安を維持する責任との間で…
RT @zasetsushirazu: 明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去(暗殺)。慶応期に木戸孝允と共に長州藩政府の中核を担い、慶応3年には京都で討幕の密勅を受け取った。明治政府で参議などを務めた。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63…
RT @zasetsushirazu: 明治4年1月7日(1871年2月25日)、北浦定政が死去。古尾谷知浩「北浦定政「平城宮大内裏鋪地図解」」(『名古屋大学人文学研究論集』1、2018年)によれば、幕末の国学者で、フィールドワーク及び文献史料の調査によって平城京など、天皇陵や…
RT @zasetsushirazu: 平成24年2月26日、歴史家の芳賀登が死去。著書に『幕末志士の生活』(雄山閣)、『幕末国学の研究』(教育出版センター)、『偽官軍と明治維新政権』(同)などがある。下記は、芳賀による高木俊輔『明治維新草莽運動史』(勁草書房)の書評(『社会経…
RT @zasetsushirazu: 板垣哲夫「維新後における大久保利通の政治上の人間関係」(『史学雑誌』86-11、1977年)は、慶応3年10月〜明治10年3月、大久保がどんな人物と接触していたか、日記を分析。大久保の政府内での地位上昇に伴い、薩長土肥以外の出身者が中堅官…
RT @zasetsushirazu: 明治41年2月16日、建野郷三が死去。幕末の小倉藩士で、第2次長州征伐で小倉城が落城した際、赤心隊を結成した。明治期に大阪府知事、米国公使などを歴任。銭国紅「洋上の対話」(『日本研究』15)は、明治3年に英国留学した建野と、清国人・張徳彝…
RT @zasetsushirazu: 昭和62年2月16日、歴史家の大月明が死去。死後、遺稿集『近世日本の儒学と洋学』(思文閣出版)が刊行され、論文「モリソン号事件をめぐつて」、「前期水戸学者の一考察」、「藤田幽谷研究ノート」などが収録された。下記は『史学雑誌』99巻7号に掲…
RT @zasetsushirazu: 大正5年2月9日、加藤弘之が死去。田中浩「福沢諭吉と加藤弘之」(『一橋論叢』100-2、1988年)は、福沢諭吉と共に「明治啓蒙期を代表するスーパースター」と呼ぶ。佐久間象山に師事し、幕府の蕃書調所や開成所に出仕した、ドイツ語学の先駆者。…
RT @zasetsushirazu: 生田美智子「19世紀初頭の日露外交 : 高田屋嘉兵衛拿捕・拉致事件を通してみる-国後・函館の日露交渉-」(『言語文化研究』37、2011年)によれば、ゴロヴニンを松前で引き渡して以降、漂流民送還が蝦夷地で行われるなど、対外関係を扱う場所=…
RT @zasetsushirazu: 明治12年2月6日、並河寒泉が死去。幕末期の懐徳堂教授で、プチャーチンの乗るロシア船が大坂湾に来た際、幕命で漢文による交渉を担当。ロシア船が退去したことを、自らの学力による攘夷の実践と捉えた。矢羽野隆男「並河寒泉の政治思想と幕府観」(『中…
RT @zasetsushirazu: 大正9年2月4日、須藤南翠が死去。幕末の宇和島藩出身で、新聞小説で人気を博した。明治21年に発表した『殺人犯』は、日本における探偵小説の先駆とされている。畑実「小新聞記者の政治論」(『駒沢国文』36)は、自由民権運動との関係から南翠を論じ…
RT @zasetsushirazu: 明治29年2月2日、川田甕江が死去。古賀謹堂、藤森弘庵、大橋訥庵、安井息軒らとの交流で学問を深めた漢学者。山田方谷の推薦で、備中松山藩主・板倉勝静に仕えた。古賀勝次郎「安井息軒の門生たち(2)」(『早稲田社会科学総合研究』10-3)は、川…
RT @zasetsushirazu: 明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に参加した。明治期に外務卿、内務大臣などを歴任。池田勇太「史料紹介 「政体」」(『史学雑誌』125-2、2016年)は、政体書の草稿と思われる史料を分…
RT @zasetsushirazu: 明治9年1月29日、戸塚静海が死去。シーボルトに学び、将軍家の侍医を務めた初の蘭方医。薩摩藩主の島津斉興と島津斉彬に仕えた時期もあり、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、薩摩藩士の蘭学…
RT @zasetsushirazu: 弘化3年12月13日(1847年1月29日)、箕作省吾が死去。『坤輿図識』などを編纂し、世界各地の地理や歴史を紹介した。吉田松陰などに影響を与えたとされる。辻田右左男「箕作省吾「坤輿図識」」(『奈良大学紀要』2)は、「地理学のために生き,…

7 0 0 0 IR 破婚の深層

RT @zasetsushirazu: 明治33年1月28日、赤松登志子が死去。森鴎外の最初の妻で、旧幕臣・赤松則良の娘。結婚披露宴には榎本武揚なども出席した。蓮沼啓介「破婚の深層」(『神戸法学雑誌』69-2、2019年)は、離婚の要因を「幕末維新の旧世代と文明開化の新世代の間…
RT @zasetsushirazu: 大正15年1月28日、三浦梧楼が死去。幕末の長州藩出身で、奇兵隊に所属した。明治14年政変の際に谷干城らと共に政府批判の意見書を提出。李修京・朴仁植「朝鮮王妃殺害事件の再考」(『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』58)は、朝鮮公使時代の三…
RT @zasetsushirazu: 上田純子「安政五年萩藩における「会議」と政治機構」(『史学雑誌』107-6)は、「藩政改革派と称された人物の出身階層が一〇〇石前後の大組士であった事実」や、「三〇〇石以上の比較的上級家臣団が、政治的意思決定からは実質的に阻害された存在であ…
RT @zasetsushirazu: 1894年1月22日、モンブラン(ベルギー貴族)が死去。五代友厚と頻繁に交流するなど薩摩藩と関係が深く、パリ万博への薩摩藩の参加に協力。一時期、明治政府からパリ総領事に任命された。文献に、宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『社会…
RT @zasetsushirazu: 今西一「大蔵大臣事始」(『大学進学研究』6-5、1985年)は、明治政府の財政を担当した由利公正、大隈重信、松方正義らの政策を紹介。由利の政策のその後への影響を指摘し、その切断をした「松方財政をもって日本における近代的財政制度の確立と言う…
RT @zasetsushirazu: 明治17年1月14日、広川晴軒が死去。田崎哲郎氏の書評「井上慶隆著『廣川晴軒伝』」(『史学雑誌』90-11、1981年)曰く、「五十八歳で江戸の箕作阮甫に入門」し、慶応2年に「熱・光・電気は本質において一つのものであるとの『三元素略説』を…
RT @zasetsushirazu: 明治26年1月10日、杉田仙十郎が死去。政党政治家・杉田定一の父親で、幕末期には越前の大庄屋だった。元治元年には、敦賀で投降した天狗党の助命を嘆願した。文献に、家近良樹『ある豪農一家の近代』(講談社)がある。下記は、柳澤芙美子氏の書評(『…
RT @zasetsushirazu: 明治30年1月9日、関沢明清が死去。幕末の加賀藩出身で、江川英龍や大村益次郎に師事した。また、加賀藩から最初に英国留学した人物。サケの養殖技術などを学び、「水産業の父」とも呼ばれる。影山昇「関沢明清と村田保」(『放送教育開発センター研究紀…
RT @zasetsushirazu: 昭和6年1月2日、斯波淳六郎が死去。幕末の加賀藩家老の家に生まれた。明治17年にドイツ留学する際、同じ船には橋本長勝(橋本左内の甥)らがいたらしい。帰国後、法制局参事官などを歴任。七戸克彦「現行民法典を創った人びと(24)」(『法学セミナ…
RT @zasetsushirazu: 王一兵「幕府天文方における蘭学の展開-蘭学の公学化を中心に-」(『文化』82、2019年)は、18世紀〜19世紀にかけて対外関係の緊張が高まる中、蘭学者たちは、海外情報の収集における蘭学の有用性を発信していくことで権力者の支持を調達して蘭…
RT @zasetsushirazu: 大正14年12月27日、岡部長職が死去。最後の岸和田藩主で、明治期に東京府知事や司法大臣などの要職を歴任。岡塚章子「明治期の写真団体と華族-小川一真の事績からの考察-」(『美術研究』412)によれば、岡部は「誰もが認める写真愛好家」で、日…
RT @zasetsushirazu: 宮永孝「セントヘレナの日本人」(『社会志林』60-3、2013年)曰く、ナポレオン1世が幽閉されたセントヘレナ島は日本人と浅からぬ縁がある。初めて同島を訪れた日本人は、ザビエルが連れていた者だろうとのこと。幕末期には、オランダ留学する榎本…
RT @zasetsushirazu: 福元啓介「近世後期における薩摩藩の財政構造とその特質」(『東京大学日本史学研究室紀要』22、2018年)は、西南雄藩としての薩摩藩についての研究蓄積はあるが、その割に藩財政に関する研究は少ないと指摘。主に、近世後期の年貢米収支を数量的に分…
RT @zasetsushirazu: 石井耕「日本の人事政策の起源-江戸幕府後期御家人の人材登用と昇進-」(『北海学園大学学園論集』156)は、日本企業の人事政策の構成要素「学問→試験→登用」の起源が、幕末の幕府にあったと指摘。田辺太一、中村正直など昌平坂学問所の学問吟味及第…
RT @zasetsushirazu: 佐藤雄基「新刊紹介 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)」(『史苑』78-2、2018年)は、松田敬之の著書『〈華族爵位〉請願人名辞典』を紹介。同書は、佐藤氏曰く、華族になれた人だけではなく、華族になれなかった人…
RT @zasetsushirazu: 岩田高明「「福田作太郎筆記」の「欧州探索」にみる西洋教育制度受容過程の分析」(『日本の教育史学』49、2006年)は、文久遣欧使節団に参加した福田作太郎の記録のうち、『西洋見聞集』(岩波書店)に未収録で、先行研究でも未紹介の、西洋の教育の…
RT @zasetsushirazu: 明治25年12月14日、黒田麹廬が死去。膳所藩出身の洋学者で、緒方洪庵の適塾で学んだ。ペリー来航以前に、『ロビンソン・クルーソー』を『漂荒紀事』と題して翻訳した。松田清「黒田梁太郎寄贈図書について」(『静脩』27-2)は、麹廬の息子の寄贈…
RT @zasetsushirazu: 明治2年10月20日(1869年11月23日)、大村益次郎襲撃犯の神代直人について、斬首が決定された。処刑が執行された正確な日付は不明。下記リンクの論文、伊藤一晴「神代直人の捕縛-大村益次郎襲撃犯に対する山口藩の対応-」(『山口県文書館研…
RT @zasetsushirazu: 水上たかね「幕府海軍における「業前」と身分」(『史学雑誌』122-11、2013年)曰く、幕末の幕府海軍では職務に必要な能力を「業前」と呼んで重視し、人材を登用した。だが、「家」の枠組は強固で、家督相続で別の役職に就いて海軍を離れる人材流…
RT @zasetsushirazu: 平成5年11月16日、三坂圭治が死去。『周防国府の研究』(マツノ書店)、『山口県の歴史』(山川出版社)などの著書があり、秋山謙藏「三坂圭治氏著「周防國府の研究」」(『社会経済史学』4-2)曰く、「毛利公爵家編纂所に在つて、防長の歴史を研究…
RT @zasetsushirazu: 明治42年11月14日、山川二葉が死去。会津藩士・山川尚江の娘で、兄弟姉妹に山川浩と健次郎、大山捨松がいる。会津藩家老の梶原平馬と結婚。東京女子高等師範学校で教育に携わった。文献に、遠藤由紀子「会津藩家老梶原平馬をめぐる女性」(『女性文化…
RT @zasetsushirazu: 明治2年10月6日(1869年11月9日)、土御門晴雄が死去。幕末の公家で、陰陽頭。杉岳志「幕末の陰陽頭・朝廷と彗星」(『島根県立大学松江キャンパス研究紀要』58、2019年)は、中世の頃から凶事の前兆とされた彗星が幕末に出現した際、土御…
RT @zasetsushirazu: 安政6年10月6日(1859年10月31日)、三条実万(三条実美の父親)が死去。安政期の朝廷内で影響力があった。笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回」(『仏教大学総合研究所紀要』8)曰く、息子の三条実美は実万の「体制改革意識の影響…
RT @zasetsushirazu: 文化4年9月19日(1807年10月20日)、蘭学者の山村才助が死去。新井白石の著作を山村が改訂した『訂正増訳采覧異言』について、石川勞吉「日本人が初めて見たポリネシア人」(『国立民族学博物館調査報告』59)は、日本人の著作の中でオセアニ…
RT @zasetsushirazu: 明治36年10月17日、松平頼聰が死去。幕末の高松藩主で、鳥羽・伏見の戦いで官位剥奪の「朝敵」処分を受けた。坂田充「学習院大学所蔵 高松松平家旧蔵書の概要とその伝来経緯」(『人文』6、2007年)は、頼聰の蔵書などが華族会館に寄贈された経…
RT @zasetsushirazu: 明治28年10月16日、石河確太郎(石河正竜)が死去。明治の紡績技術者で、幕末期には薩摩藩に招聘されて蒸気船建造や開成所での講義を担当するなど、重用された。堀江保蔵「近代日本の先駆的企業家」(『経済論叢』84-3、1959年)曰く、「紡績…
RT @zasetsushirazu: 明治20年10月16日、真田喜平太(幸歓)が死去。幕末の仙台藩士で、真田信繁の子孫と言われる。高島流砲術を学んだ砲術家で、竹ヶ原康佑「嘉永期における仙台藩重臣・中嶋恒康の海防政策と砲術攻究」(『明治大学博物館研究報告』20)は、中嶋恒康の…
RT @zasetsushirazu: 山本太「幕末期,水害と闘うある村落指導者に関する覚書」(『京都産業大学総合学術研究所所報』7、2012年)は、長岡藩の支配下にあった越後西蒲原郡中郷屋村と庄屋の笛木家が、どのように自然災害と向き合っていたか分析。元治元年と慶応元年、水害に…
RT @zasetsushirazu: 大賀郁夫「「御用日記」にみる幕末の宮崎」(『宮崎公立大学人文学部紀要』20-1)は、延岡藩の庄屋・湯地栄四郎の日記を分析。薩英戦争の風聞や、延岡藩も参加した第2次長州征伐の話題、暴風雨の災害対策と同時に干ばつ対策のための雨乞い祈祷も必要だ…
RT @zasetsushirazu: 明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、慶応4年に夫が自殺した後も明治の世を生きた。揖斐高ほか「国立国会図書館蔵『川路高子日記』-翻刻と解題および人名索引-」(『成蹊人文研究』19)は、夫が奈良奉行を務めていた…
RT @zasetsushirazu: 明治12年10月11日、市川清流が死去。幕末の文久遣欧使節団(正使は竹内保徳)に、松平康直(神奈川奉行兼外国奉行で、使節の副使だった)の従者として随行。早野喜久江「「市川清流建白書」の一考察」(『二松学舎大学論集』62)は、明治期の図書館…
RT @zasetsushirazu: 安政6年9月14日(1859年10月9日)、梅田雲浜が死去。安政大獄で最初に逮捕され、獄死。中島嘉文「角田家本梅田雲浜安政大獄吟味関係資料について」(『福井県文書館研究紀要』13)は、雲浜の取り調べ調書を分析し、「尊攘運動の理論的支柱」と…
RT @zasetsushirazu: 文化5年8月17日(1808年10月6日)、長崎奉行・松平康英が死去。英国船フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎湾に侵入した事件の責任で、自刃した。長崎警備の問題について、梶原良則「寛政〜文化期の長崎警備とフェートン号事件」(『福岡大学…
RT @zasetsushirazu: 明治3年9月8日(1870年10月2日)、青木研蔵が死去。長州藩の蘭方医で、藩内で初めて種痘を実施。兄・青木周弼の養子となった。森川潤「青木周蔵の渡独前の修学歴(3)萩城下における蘭学の修業時代」(『広島修大論集』54-1)曰く、「当代屈…
RT @zasetsushirazu: 井上勲「幕末政治社会の形成」(『学習院大学史料館紀要』9)は、ペリー来航の際の、200家以上の大名家の意見書を分析。対外方針を単純拒絶、即時拒絶、折衝拒絶、時限許容など細分化。例えば折衝拒絶の中にも、すぐ打ち払うものと、攻撃された場合のみ…
RT @zasetsushirazu: 明治39年9月28日、佐々友房が死去。幕末の熊本藩出身で、西南戦争で西郷軍に参加して投獄された。上村直己「佐々友房と独逸学」(『熊本学園大学論集 総合科学』20-2)曰く、「勤王・国権を一大主義とする紫溟会を有志と共に結成。天皇主権を主と…
RT @zasetsushirazu: 明治18年9月27日、都築温(都築荘蔵)が死去。慶応3年10月、大政奉還の趣旨が二条城で諸藩重臣に説明された際、宇和島藩代表として出席。将軍・徳川慶喜にも謁見。大政奉還が勅許されたことを帰国して報告(三好昌文「幕末期宇和島藩の動向(13)…
RT @zasetsushirazu: 明治26年9月26日、光妙寺三郎(光田三郎)が死去。幕末の長州藩出身で、西園寺公望や中江兆民とはパリの留学仲間。留学中、岩倉使節団で渡欧した木戸孝允を度々訪問。「決闘は文明の花なり」と論じた(手塚豊「光妙寺三郎の決闘是認論及び「決闘条規」…
RT @zasetsushirazu: 明治9年9月23日、安井息軒が死去。芳野金陵・塩谷宕陰と共に文久三博士と称された儒学者で、弟子に谷干城・品川弥二郎・陸奥宗光・世良修蔵・井上毅など。佐々木雄一「陸奥宗光の思想形成」(『法学会雑誌』59-1、2018年)は、幕末期に陸奥が師…
RT @zasetsushirazu: 明治2年8月13日(1869年9月18日)、土肥典膳が死去。岡山藩重臣で、文久2年に京都で国事周旋を開始。中川和明「平田塾と地方国学の展開」(『書物・出版と社会変容』11)曰く、「岡山藩の幕末維新史を語るうえでたいへん重要な人物」。その家…
RT @zasetsushirazu: 昭和54年9月18日、木村毅が死去。『明治天皇』、『日米文学交流史の研究』など、文化史、伝記、小説など200冊を超える著作がある文筆家。藤井哲「木村毅と英文学」(『福岡大学人文論叢』48-4)曰く、「学界の権威に向かって在野から歯に衣を着…
RT @zasetsushirazu: 大正7年9月17日、本野一郎が死去。幕末の佐賀に生まれ、明治・大正の外交官として働いた。寺内正毅内閣の外務大臣を務めた。バールィシェフ・エドワルド「ロシア革命とシベリア出兵構想の形成-本野一郎の外交政策と米国-」(『ロシア史研究』84、2…
RT @zasetsushirazu: 大正9年9月12日、国際法学者の高橋作衛が死去。第2次大隈重信内閣の法制局長官。日清戦争に法律顧問として従軍し、日露戦争の前年に桂太郎首相に向けて対露強硬論を主張した「七博士意見書」に参加。前原淳史「「七博士事件」の再検討」(『社会科学』…
RT @zasetsushirazu: 平成5年9月8日、歴史家の榎本守恵が死去。著書に『北海道の歴史』(北海道新聞社)、『侍たちの北海道開拓』(同)、『近代僻地教育の研究』(同成社)がある。下記は榎本による、桑原真人『近代北海道史研究序説』(北海道大学図書刊行会)の書評(『社…
RT @zasetsushirazu: 安政2年7月26日(1855年9月7日)、井戸弘道が死去。幕末の幕臣で、嘉永6年のペリー来航の際に浦賀奉行。後年、永井尚志は、学識はあるが、「決断之乏敷は、其短なる所」と評した。河内八郎「伊達宗城とその周辺(続)」(『茨城大学人文学部紀要…
RT @zasetsushirazu: 明治40年9月6日、名村泰蔵が死去。幕末のオランダ通詞で、英語・フランス語・ドイツ語も習得し、慶応3年にパリ万博に赴く徳川昭武に随行。明治期には司法官僚の道を歩み、ボアソナード招聘に尽力した。石原千里「名村五八郎と名村泰蔵」(『英学史研究…
RT @zasetsushirazu: 明治26年9月1日、細川護久が死去。明治3年に熊本藩知事に就任して、弟・長岡護美と共に熊本藩の藩政改革を推進した。その際、横井小楠の門下生たちを多数登用した。三澤純「熊本藩明治三年藩政改革の再検討」(『文学部論叢』109、熊本大学、201…
RT @zasetsushirazu: 享和元年7月23日(1801年8月31日)、長久保赤水が死去。『大日本史』地理志の編纂に参加した地図製作者。周振鶴・鶴間和幸「長久保赤水と中国歴史地図の編纂」(『五浦論叢』1、1993年)曰く、「日本の地図史上見のがすことのできない重要人…

10 0 0 0 IR 林研海の生涯

RT @zasetsushirazu: 明治15年8月30日、医師・林研海が死去。幕末の長崎でポンペに学んだ後、榎本武揚や沢太郎左衛門らと同じ船に乗ってオランダ留学。帰国後の明治期に、静岡病院長、陸軍軍医総監などを歴任。高橋慎司「林研海の生涯」(『早稲田大学大学院教育学研究科紀…
RT @zasetsushirazu: 天保12年7月14日(1841年8月30日)、林述斎が死去。松平定信に嘱望されて林家を嗣いだことは、林家の最大の画期とされる(小野将「近世後期の林家と朝幕関係」『史学雑誌』102-6)。朝鮮通信使との窓口役も務めた。幕末外交で活躍した林復…
RT @zasetsushirazu: 昭和58年8月28日、英文学者・帆足図南次が死去。広瀬淡窓・三浦梅園と並び称された儒学者・帆足万里の子孫で、主要著書に『帆足万里』(吉川弘文館、1966年)がある。また、日本史関連の論文に、「変革期の知識人としての陸奥宗光」(『英学史研究…
RT @zasetsushirazu: 明治32年8月26日、市川兼恭が死去。幕末の幕臣で、洋学者。蕃書調所や開成所で教授を務め、明治の陸軍にも所属した。加藤弘之と共にドイツ語学習の先駆者とされ、荒木康彦「幕末期の「独逸学」と『官版 獨逸單語篇』」(『渾沌』7、2010年)は、…
RT @zasetsushirazu: 昭和30年8月25日、北沢楽天が死去。日本の風刺漫画の先駆者とされ、福沢諭吉の『時事新報』誌上で時事漫画を手掛けた。宮田航平「北沢楽天とは誰か」(『信州大学附属図書館研究』S-2、2019年)は、手塚治虫への影響も指摘。さいたま市立漫画会…
RT @zasetsushirazu: 明治33年8月23日、建築家・山口半六が死去。幕末の松江出身で、明治期にフランス留学。手掛けた建築物に、熊本五高(ラフカディオ・ハーン、夏目漱石、秋月悌次郎らが教師を務めた)の校舎などがある。堀内達夫「都市と実業教育」(『人文研究』54)…
RT @zasetsushirazu: 明治32年8月19日、丸山作楽が死去(異説あり)。島原藩出身で、明治2年に外務大丞として樺太の領有権についてロシアと交渉。三ツ松誠「平田神学の遺産」(『宗教研究』92-2、2018年)曰く、明治政府の参議に就任する噂もあったぐらい、平田国…
RT @zasetsushirazu: 奈良勝司「社会文化史」(『日本研究』57、2018年)は、奈良勝司『明治維新と世界認識体系』(有志舎)、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)、笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』(吉川弘文館)、渡辺尚志『近世百姓の底力』(敬文…
RT @zasetsushirazu: 慶応元年6月24日(1865年8月15日)、喜多岡勇平が死去。幕末の福岡藩士で、黒田長溥に信任され、長州征伐や五卿移転問題の解決に奔走した。梶原良則「長州出兵をめぐる政治情況」(『史淵』129)は、喜多岡の周旋が薩長和解の端緒になったと指…

お気に入り一覧(最新100件)

70 0 0 0 OA 雲根志

発見者が「#ナゾすぎる」と思ったのか、「ナンダモンダ」と名付けられた石の図。 今では球状閃緑岩とみられているようです。 出典の『雲根志』には「氷の化石」(前編巻3)や「扇紋石」(3編巻3)など、他にも謎な石が数多く登場します。 #キュレーターバトル https://t.co/kSYHe8spv2 https://t.co/VbDgIwlgrZ
一見 #ナゾすぎる 絵の羅列に見えますが、これは絵で読める般若心経です。 詳しくは、当館の #本の万華鏡「へのへのもじえ―文字で絵を描く―」のコラム「絵心経」をぜひご覧ください。 https://t.co/Y1Hd1efwci #キュレーターバトル https://t.co/tkn0Ak6WOd https://t.co/0HEMTCMcjQ

401 0 0 0 OA 麗斎叢書

小判を持ち、体に銭を付けた #ナゾすぎる 人面獣。 一見すると縁起が良さそうですが、その実態は…? #キュレーターバトル https://t.co/ygtikI9Gl3 https://t.co/yB6Ybd8yN8

113 0 0 0 OA 漱石全集

ホイットマンは夏目漱石によって日本に紹介されました。「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』Walt Whitman の詩について」は下記のリンクから読めます。 https://t.co/XtMmZvIeUG https://t.co/1TRw1NX7Qs

103 0 0 0 OA 近代の恋愛観

大正11年刊行の『近代の恋愛観』には読者コメントの数々が残されています。 中には、意見の対立点をまとめ「その思想は読者諸君が作りたまへ」と呼びかける者も。 何とも #ナゾすぎる 状況です。 https://t.co/WXIkF5fnvM なお、現代の図書館では資料への書き込みは厳禁です。 #キュレーターバトル https://t.co/2jgD0Ibope

110 0 0 0 OA 柑橘図譜

これらは江戸時代に描かれたとされる「トラの骨」の絵で、「柑橘図譜」と呼ばれる資料に収録されています。 なぜ描かれたのか、なぜ柑橘の絵と一緒にまとめられたのか、「オランダ産」とあるのは本当なのか… #ナゾすぎる 点が満載です。 #キュレーターバトル https://t.co/0byg7YqVXH https://t.co/p9Cv7jx85M

228 0 0 0 OA 畫本古鳥圖賀比

国立国会図書館、#キュレーターバトル 第2弾に参戦します! インターネットでご覧いただける当館所蔵資料から、お題に関する資料をご紹介していきます。 画像は、障子の間から顔を覗かせた妖怪です。窮屈そうな割に余裕の表情、いったいどんな体勢なのか… #ナゾすぎる。 https://t.co/KKqkJpQOYA https://t.co/8AIgxNxiJp
1878年に出版された川島忠之助訳「新説 八十日間世界一周」が日本におけるジュール・ヴェルヌの最初の紹介のようです。翻訳者は銀行家でした。 https://t.co/eh3BJFy9cp https://t.co/XNdfgXn15t

151 0 0 0 OA 後漢書 120卷

こうなった経緯が #ナゾすぎる 2つの資料をご紹介します。共通するのは【足跡が付いている】こと。一体いつ、どんな状況で付いてしまったのでしょうか…。資料の持ち主が慌てる様が目に浮かびます。 #キュレーターバトル https://t.co/ivFhP1RIUr https://t.co/CTTfxjDfCl https://t.co/RCG1PZeLrV

125 0 0 0 OA 古代江戸繪集

こうなった経緯が #ナゾすぎる 2つの資料をご紹介します。共通するのは【足跡が付いている】こと。一体いつ、どんな状況で付いてしまったのでしょうか…。資料の持ち主が慌てる様が目に浮かびます。 #キュレーターバトル https://t.co/ivFhP1RIUr https://t.co/CTTfxjDfCl https://t.co/RCG1PZeLrV

379 0 0 0 OA 食卓漫談

#ナゾすぎる 走る松茸…!? 昭和9年刊行の『食卓漫談』には、擬人化された食べ物が度々登場します。この松茸は、本書のなかで「一番早く出る(出回る)」と言われている、岡山産の松茸です。 #キュレーターバトル https://t.co/ndRwN38ax3 https://t.co/KgmYwY8pEw

136 0 0 0 OA 異魚図賛

画像は、不思議な姿の魚を集めた江戸時代の書物『異魚図賛』に収録されている「四方谷五口魚」。 5つの口から見える歯は鋭く、角もあって強そうですが、「仔豚のようでかわいい」という声も。 皆さんはどんな印象を持たれたでしょうか。 https://t.co/CZSQwdTG1N #キュレーターバトル #ヘンな生きもの https://t.co/CuRhj7mt4H
草双紙が完成するまでの苦労を妊娠出産の十か月に見立てるという #ナゾすぎる 趣向の『作者胎内十月図』。スランプの作者をゆるい仏たちが見守ります。七か月目の担当は薬師如来ならぬ杓子如来。薬壺の代わりに飯びつを持っています。#キュレーターバトル https://t.co/pRy3rQryhL https://t.co/GKB5OLPwlL
国立国会図書館も #キュレーターバトル に参戦! インターネットでご覧いただける当館所蔵資料から、お題に関する資料をご紹介していきます。 まずは、スイカを奪い合う?ナゾのゲーム、「西瓜合戦」。白熱したバトルの様子が描かれています。 #ナゾすぎる https://t.co/pJHWTxGbiN https://t.co/S4ffojx7jg

113 0 0 0 OA 漱石全集

ホイットマンは夏目漱石によって日本に紹介されました。「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト・ホイットマン』Walt Whitman の詩について」は下記のリンクから読めます。 https://t.co/XtMmZvIeUG https://t.co/tuurdclF20
昭和2年2月5日、川路寛堂(川路太郎)が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の孫で、幕末期に中村正直と共に英国留学。宮越勉「敗戦後の志賀直哉」(『文芸研究明治大学文学部紀要』128、2016年)によれば、志賀直哉は寛堂が編述した『川路聖謨之生涯』(吉川弘文館)を読んでいた。 https://t.co/NyHHMOKJi5
能川泰治「幕末維新期における政治・社会の変動と大阪城」(『金沢大学歴史言語文化学系論集 史学・考古学篇』12、2020年)は、幕末期に来日した外交官が、見学対象として大阪城に興味を持っていた事実を紹介。オールコックなど、豊臣秀吉ゆかりの城と知っていた者もいた。 https://t.co/lobJnXEhlH
池田勇太「元田永孚における開国論への転換」(『異文化研究』11、2017年)は、「攘夷は和親との対で和戦の問題、開国は鎖国との対で国交・貿易の問題」と整理し、鎖国体制下での和親や開国を見据えた破約攘夷論などの外交態度があったことを前提に、幕末期の元田永孚を分析。 https://t.co/NGFaGJQ1my
明治31年7月5日、神田孝平が死去。幕末期に幕府の蕃書調所および開成所で教授職などを務めた。奈倉哲三「もう一つの戊辰戦争」(『国立歴史民俗博物館研究報告』157、2010年)は、慶応4年4月の『中外新聞』第12号に掲載の神田による論説「日本国当今急務五カ条の事」を紹介。 https://t.co/ciEqNG3wM6
というわけで、拙著『硫黄島―国策に翻弄された130年』(中公新書,2019)の「はじめに」の部分を英訳して勤務先の研究所の年報に掲載しました。リンクからDLできますので、英語圏のJapan StudiesやEast Asian StudiesやPacific studiesの先生方にご紹介いただけると幸いです。 https://t.co/IJOqkuEdtA https://t.co/vAwHvLgfRI
明治12年4月1日、大原重徳が死去。文久2年に、勅使として島津久光を伴って江戸に赴き、幕政改革を要求した公家。外池昇「和宮降嫁と文久の修陵」(『人間文化研究』1)は、大原と一橋慶喜・松平春嶽の会談での、仁孝天皇17回忌のための和宮上洛問題と文久の修陵の話題を分析。 https://t.co/0gcv5clKe5
天保2年2月18日(1831年3月31日)、オーストラリアの捕鯨船レディロウエナ号が蝦夷地に来航。2週間ほど滞在し、松前藩士と若干の銃撃戦もあった。村上雄一「オーストラリアの捕鯨船と日本」(『行政社会論集』11-4)曰く、船長ボーン・ラッセルは将軍と天皇を混同していた。 https://t.co/u5mNBDL9GZ
大正10年3月26日、沖野忠雄が死去。幕末の豊岡藩出身の土木技術者で、治水港湾工事の始祖と呼ばれる。松浦茂樹「沖野忠雄と明治改修」(『水利科学』 40-6)曰く、「事業の有利な進捗のためには法規一点張りの議論に耳を貸さず,内務省のローマ法皇と異名が付けられ」た。 https://t.co/KXiDJjz8J3
明治20年3月7日、黒田長溥が死去。薩摩藩主・島津重豪の子で、幕末の筑前福岡藩主。蘭癖と呼ばれた大名の1人。慶応元年に加藤司書や月形洗蔵らを弾圧した「乙丑の獄」について、西尾陽太郎「黒田長溥と筑前勤王派」(『史淵』98、1967年)をネット上で読むことができる。 https://t.co/fYc8wN3o4w
天保7年1月18日(1836年3月5日)、石川忠房が死去。文政期の幕臣の中で、中川忠英・遠山景晋と共に三傑と呼ばれる。ロシア使節ラクスマンの応接を担当し、大黒屋光太夫を引き取った。多仁照廣「石川忠房と江戸幕府教化政策」(『敦賀論叢』14)は、勘定奉行や目付時代を分析。 https://t.co/s3AZaTwjjZ
森谷秀亮「王政復古の大号令について」(『駒澤大学文学部研究紀要』26、1968年)は、慶応3年の王政復古について武家政治のみならず、摂政・関白の廃絶を宣言した意義を強調。森谷氏は、日本史籍協会叢書『伊達宗城在京日記』(東京大学出版会)の解題などを担当した研究者。 https://t.co/FVerejI5rk
昭和9年3月1日、長沢鼎が死去。幕末の薩摩藩が英国に派遣した留学生(サツマ・スチューデント)の1人で、さらに渡米してブドウ王になった。森孝晴「長沢鼎のワイナリーの発展と帰国と家族の誕生」(『国際文化学部論集』19-1、鹿児島国際大学)曰く、日本人初の米国移民。 https://t.co/SF1wAJW2Vs
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が死去(暗殺)。慶応期に木戸孝允と共に長州藩政府の中核を担い、慶応3年には京都で討幕の密勅を受け取った。明治政府で参議などを務めた。笠原英彦「広沢参議横死事件と安藤則命」(『法学研究』63-4)は、暗殺事件の捜査を分析。 https://t.co/XCToPjhpGU
明治33年2月26日、品川弥二郎が死去。討幕の密勅の受領に関わった。末木孝典「明治二十五年・選挙干渉事件と立憲政治」(『近代日本研究』32)曰く、第1次松方正義内閣の内相時代の選挙干渉で、「選挙に成果を出す責任と治安を維持する責任との間で板挟みになっていた」。 https://t.co/23IZSvl7p3
平成24年2月26日、歴史家の芳賀登が死去。著書に『幕末志士の生活』(雄山閣)、『幕末国学の研究』(教育出版センター)、『偽官軍と明治維新政権』(同)などがある。下記は、芳賀による高木俊輔『明治維新草莽運動史』(勁草書房)の書評(『社会経済史学』41-1)。 https://t.co/AFhkpXBfG2
明治4年1月7日(1871年2月25日)、北浦定政が死去。古尾谷知浩「北浦定政「平城宮大内裏鋪地図解」」(『名古屋大学人文学研究論集』1、2018年)によれば、幕末の国学者で、フィールドワーク及び文献史料の調査によって平城京など、天皇陵や都城などに関して研究した。 https://t.co/Je67aON691
板垣哲夫「維新後における大久保利通の政治上の人間関係」(『史学雑誌』86-11、1977年)は、慶応3年10月〜明治10年3月、大久保がどんな人物と接触していたか、日記を分析。大久保の政府内での地位上昇に伴い、薩長土肥以外の出身者が中堅官僚として結び付きを強めたと指摘。 https://t.co/dXsq9H1KlB
明治41年2月16日、建野郷三が死去。幕末の小倉藩士で、第2次長州征伐で小倉城が落城した際、赤心隊を結成した。明治期に大阪府知事、米国公使などを歴任。銭国紅「洋上の対話」(『日本研究』15)は、明治3年に英国留学した建野と、清国人・張徳彝との船中での対話を紹介。 https://t.co/HF64LWbedA
昭和62年2月16日、歴史家の大月明が死去。死後、遺稿集『近世日本の儒学と洋学』(思文閣出版)が刊行され、論文「モリソン号事件をめぐつて」、「前期水戸学者の一考察」、「藤田幽谷研究ノート」などが収録された。下記は『史学雑誌』99巻7号に掲載された沼田哲氏の書評。 https://t.co/eBL1WHsjgN
大正5年2月9日、加藤弘之が死去。田中浩「福沢諭吉と加藤弘之」(『一橋論叢』100-2、1988年)は、福沢諭吉と共に「明治啓蒙期を代表するスーパースター」と呼ぶ。佐久間象山に師事し、幕府の蕃書調所や開成所に出仕した、ドイツ語学の先駆者。立憲思想の紹介者でもある。 https://t.co/yNzrHqeMiN
生田美智子「19世紀初頭の日露外交 : 高田屋嘉兵衛拿捕・拉致事件を通してみる-国後・函館の日露交渉-」(『言語文化研究』37、2011年)によれば、ゴロヴニンを松前で引き渡して以降、漂流民送還が蝦夷地で行われるなど、対外関係を扱う場所=長崎という体制が崩れた。 https://t.co/nrPAG6hBjS
明治29年2月2日、川田甕江が死去。古賀謹堂、藤森弘庵、大橋訥庵、安井息軒らとの交流で学問を深めた漢学者。山田方谷の推薦で、備中松山藩主・板倉勝静に仕えた。古賀勝次郎「安井息軒の門生たち(2)」(『早稲田社会科学総合研究』10-3)は、川田と重野成斎を対比して紹介。 https://t.co/7aqj1e3WFb
明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に参加した。明治期に外務卿、内務大臣などを歴任。池田勇太「史料紹介 「政体」」(『史学雑誌』125-2、2016年)は、政体書の草稿と思われる史料を分析し、副島が書いたものと推測。 https://t.co/GPw3q1YWlF
弘化3年12月13日(1847年1月29日)、箕作省吾が死去。『坤輿図識』などを編纂し、世界各地の地理や歴史を紹介した。吉田松陰などに影響を与えたとされる。辻田右左男「箕作省吾「坤輿図識」」(『奈良大学紀要』2)は、「地理学のために生き,地理学のために死んだ」とする。 https://t.co/yCWaEmxjwp
明治9年1月29日、戸塚静海が死去。シーボルトに学び、将軍家の侍医を務めた初の蘭方医。薩摩藩主の島津斉興と島津斉彬に仕えた時期もあり、田村省三「薩摩藩における蘭学受容とその変遷」(『国立歴史民俗博物館研究報告』116)曰く、薩摩藩士の蘭学修行を斡旋していた。 https://t.co/wRrCUR9ATA
大正15年1月28日、三浦梧楼が死去。幕末の長州藩出身で、奇兵隊に所属した。明治14年政変の際に谷干城らと共に政府批判の意見書を提出。李修京・朴仁植「朝鮮王妃殺害事件の再考」(『東京学芸大学紀要 人文社会科学系』58)は、朝鮮公使時代の三浦による閔妃暗殺事件を分析。 https://t.co/nfPkLcwcgq

7 0 0 0 IR 破婚の深層

明治33年1月28日、赤松登志子が死去。森鴎外の最初の妻で、旧幕臣・赤松則良の娘。結婚披露宴には榎本武揚なども出席した。蓮沼啓介「破婚の深層」(『神戸法学雑誌』69-2、2019年)は、離婚の要因を「幕末維新の旧世代と文明開化の新世代の間の世代間抗争」として分析。 https://t.co/nfyQ6wIemm
上田純子「安政五年萩藩における「会議」と政治機構」(『史学雑誌』107-6)は、「藩政改革派と称された人物の出身階層が一〇〇石前後の大組士であった事実」や、「三〇〇石以上の比較的上級家臣団が、政治的意思決定からは実質的に阻害された存在であった」ことなどを指摘。 https://t.co/LQPyvhGrfh
1894年1月22日、モンブラン(ベルギー貴族)が死去。五代友厚と頻繁に交流するなど薩摩藩と関係が深く、パリ万博への薩摩藩の参加に協力。一時期、明治政府からパリ総領事に任命された。文献に、宮永孝「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(『社会志林』47-2)など。 https://t.co/WoNCjRFMVx
三好彰「アメリカ人が見た川﨑道民-万延元年遣米使節団のアメリカ最新医療体験-」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13、2018年)は、万延元年の遣米使節団や文久遣欧使節団に随行した佐賀藩の医師・川崎道民に関して、米国の新聞と医学専門誌の記述を紹介。 https://t.co/DmNa8OYVF4
今西一「大蔵大臣事始」(『大学進学研究』6-5、1985年)は、明治政府の財政を担当した由利公正、大隈重信、松方正義らの政策を紹介。由利の政策のその後への影響を指摘し、その切断をした「松方財政をもって日本における近代的財政制度の確立と言うことが出来る」とする。 https://t.co/NhHsDkJKaW
柏原宏紀「明治零年代後半における洋行官僚に関する一考察」(『関西大学経済論集』67-4、2018年)は、洋行経験のある官僚たちが日本の近代化に果たした役割を分析。「明治10年段階では、外務、文部、工部、司法の4省において、その半数以上が洋行官僚」だったと指摘。 https://t.co/tIIjQs0ixE
明治30年1月9日、関沢明清が死去。幕末の加賀藩出身で、江川英龍や大村益次郎に師事した。また、加賀藩から最初に英国留学した人物。サケの養殖技術などを学び、「水産業の父」とも呼ばれる。影山昇「関沢明清と村田保」(『放送教育開発センター研究紀要』12)などを参照。 https://t.co/Z5jbMH0aiA
王一兵「幕府天文方における蘭学の展開-蘭学の公学化を中心に-」(『文化』82、2019年)は、18世紀〜19世紀にかけて対外関係の緊張が高まる中、蘭学者たちは、海外情報の収集における蘭学の有用性を発信していくことで権力者の支持を調達して蘭学の発展を目指したと指摘。 https://t.co/CEOForI51K
昭和6年1月2日、斯波淳六郎が死去。幕末の加賀藩家老の家に生まれた。明治17年にドイツ留学する際、同じ船には橋本長勝(橋本左内の甥)らがいたらしい。帰国後、法制局参事官などを歴任。七戸克彦「現行民法典を創った人びと(24)」(『法学セミナー』56-4)などを参照。 https://t.co/i8VnPMw6PX
大正14年12月27日、岡部長職が死去。最後の岸和田藩主で、明治期に東京府知事や司法大臣などの要職を歴任。岡塚章子「明治期の写真団体と華族-小川一真の事績からの考察-」(『美術研究』412)によれば、岡部は「誰もが認める写真愛好家」で、日本写真会の副会長に就任。 https://t.co/jeC833jAI8
宮永孝「セントヘレナの日本人」(『社会志林』60-3、2013年)曰く、ナポレオン1世が幽閉されたセントヘレナ島は日本人と浅からぬ縁がある。初めて同島を訪れた日本人は、ザビエルが連れていた者だろうとのこと。幕末期には、オランダ留学する榎本武揚らも訪問した。 https://t.co/KYRhRsm27j
福元啓介「近世後期における薩摩藩の財政構造とその特質」(『東京大学日本史学研究室紀要』22、2018年)は、西南雄藩としての薩摩藩についての研究蓄積はあるが、その割に藩財政に関する研究は少ないと指摘。主に、近世後期の年貢米収支を数量的に分析している。 https://t.co/LTlaMNPwSG
1878年12月19日、ベイヤード・テイラーが死去。嘉永6年(1853年)、浦賀に来航したペリー艦隊の一員だった旅行家・作家で、琉球や小笠原諸島にも上陸した。近藤治「ベイヤード・テイラーの見たファテプル・シークリーについて」(『鷹陵史学』35、2009年)参照。 https://t.co/kONUrXDm3D
山本志乃「旅日記にみる近世末期の女性の旅」(『国立歴史民俗博物館研究報告』155)は、清河八郎の母親や松尾多勢子など、女性たちの旅行を分析。幕末期にはすでに一般化していた無手形による違法の関所抜けが、流動人口の増加や宿場への経済効果をもたらしたことを指摘。 https://t.co/p1hgsdj8LJ
石井耕「日本の人事政策の起源-江戸幕府後期御家人の人材登用と昇進-」(『北海学園大学学園論集』156)は、日本企業の人事政策の構成要素「学問→試験→登用」の起源が、幕末の幕府にあったと指摘。田辺太一、中村正直など昌平坂学問所の学問吟味及第者を中心に分析。 https://t.co/E3L9cduamE
佐藤雄基「新刊紹介 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)」(『史苑』78-2、2018年)は、松田敬之の著書『〈華族爵位〉請願人名辞典』を紹介。同書は、佐藤氏曰く、華族になれた人だけではなく、華族になれなかった人も紹介しているのが特徴。 https://t.co/U5lAkeyAlU
明治25年12月14日、黒田麹廬が死去。膳所藩出身の洋学者で、緒方洪庵の適塾で学んだ。ペリー来航以前に、『ロビンソン・クルーソー』を『漂荒紀事』と題して翻訳した。松田清「黒田梁太郎寄贈図書について」(『静脩』27-2)は、麹廬の息子の寄贈図書などから麹廬を紹介。 https://t.co/alFhg7WhyN
明治2年10月20日(1869年11月23日)、大村益次郎襲撃犯の神代直人について、斬首が決定された。処刑が執行された正確な日付は不明。下記リンクの論文、伊藤一晴「神代直人の捕縛-大村益次郎襲撃犯に対する山口藩の対応-」(『山口県文書館研究紀要』43、2016年)による。 https://t.co/KRIwzkkUaB
水上たかね「幕府海軍における「業前」と身分」(『史学雑誌』122-11、2013年)曰く、幕末の幕府海軍では職務に必要な能力を「業前」と呼んで重視し、人材を登用した。だが、「家」の枠組は強固で、家督相続で別の役職に就いて海軍を離れる人材流出の問題などがあった。 https://t.co/yhNhvRbhtb
平成5年11月16日、三坂圭治が死去。『周防国府の研究』(マツノ書店)、『山口県の歴史』(山川出版社)などの著書があり、秋山謙藏「三坂圭治氏著「周防國府の研究」」(『社会経済史学』4-2)曰く、「毛利公爵家編纂所に在つて、防長の歴史を研究しつゝある篤學の士」。 https://t.co/GUnFBo71Bi
明治42年11月14日、山川二葉が死去。会津藩士・山川尚江の娘で、兄弟姉妹に山川浩と健次郎、大山捨松がいる。会津藩家老の梶原平馬と結婚。東京女子高等師範学校で教育に携わった。文献に、遠藤由紀子「会津藩家老梶原平馬をめぐる女性」(『女性文化研究所紀要』35)など。 https://t.co/TFwKYZ5uvJ
明治2年10月6日(1869年11月9日)、土御門晴雄が死去。幕末の公家で、陰陽頭。杉岳志「幕末の陰陽頭・朝廷と彗星」(『島根県立大学松江キャンパス研究紀要』58、2019年)は、中世の頃から凶事の前兆とされた彗星が幕末に出現した際、土御門はどんな認識を示したか分析。 https://t.co/49fGKGTI3q
安政6年10月6日(1859年10月31日)、三条実万(三条実美の父親)が死去。安政期の朝廷内で影響力があった。笹部昌利「幕末期公家の政治意識形成とその転回」(『仏教大学総合研究所紀要』8)曰く、息子の三条実美は実万の「体制改革意識の影響を受けて」政治意識を形成した。 https://t.co/ZE9L8zItRK
明治36年10月17日、松平頼聰が死去。幕末の高松藩主で、鳥羽・伏見の戦いで官位剥奪の「朝敵」処分を受けた。坂田充「学習院大学所蔵 高松松平家旧蔵書の概要とその伝来経緯」(『人文』6、2007年)は、頼聰の蔵書などが華族会館に寄贈された経緯などを分析。 https://t.co/weOh76intJ
明治28年10月16日、石河確太郎(石河正竜)が死去。明治の紡績技術者で、幕末期には薩摩藩に招聘されて蒸気船建造や開成所での講義を担当するなど、重用された。堀江保蔵「近代日本の先駆的企業家」(『経済論叢』84-3、1959年)曰く、「紡績業の興隆に尽瘁した人」。 https://t.co/Ho91sW22wJ
明治20年10月16日、真田喜平太(幸歓)が死去。幕末の仙台藩士で、真田信繁の子孫と言われる。高島流砲術を学んだ砲術家で、竹ヶ原康佑「嘉永期における仙台藩重臣・中嶋恒康の海防政策と砲術攻究」(『明治大学博物館研究報告』20)は、中嶋恒康の継承者として真田に言及。 https://t.co/LvlNLtOXRu
大賀郁夫「「御用日記」にみる幕末の宮崎」(『宮崎公立大学人文学部紀要』20-1)は、延岡藩の庄屋・湯地栄四郎の日記を分析。薩英戦争の風聞や、延岡藩も参加した第2次長州征伐の話題、暴風雨の災害対策と同時に干ばつ対策のための雨乞い祈祷も必要だった状況を紹介。 https://t.co/glv4qfCGmV
明治17年10月12日、川路高子が死去。幕末の幕臣・川路聖謨の妻で、慶応4年に夫が自殺した後も明治の世を生きた。揖斐高ほか「国立国会図書館蔵『川路高子日記』-翻刻と解題および人名索引-」(『成蹊人文研究』19)は、夫が奈良奉行を務めていた時期、嘉永4年の日記を紹介。 https://t.co/gIVmZRRosm
安政6年9月14日(1859年10月9日)、梅田雲浜が死去。安政大獄で最初に逮捕され、獄死。中島嘉文「角田家本梅田雲浜安政大獄吟味関係資料について」(『福井県文書館研究紀要』13)は、雲浜の取り調べ調書を分析し、「尊攘運動の理論的支柱」として朝廷で期待されたとする。 https://t.co/I6EKCFy9FZ
文化5年8月17日(1808年10月6日)、長崎奉行・松平康英が死去。英国船フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎湾に侵入した事件の責任で、自刃した。長崎警備の問題について、梶原良則「寛政〜文化期の長崎警備とフェートン号事件」(『福岡大学人文論叢』37-1)がある。 https://t.co/dRUA5KuC6V
明治3年9月8日(1870年10月2日)、青木研蔵が死去。長州藩の蘭方医で、藩内で初めて種痘を実施。兄・青木周弼の養子となった。森川潤「青木周蔵の渡独前の修学歴(3)萩城下における蘭学の修業時代」(『広島修大論集』54-1)曰く、「当代屈指の蘭学者という評価があった」。 https://t.co/MKM6qt8lVd
井上勲「幕末政治社会の形成」(『学習院大学史料館紀要』9)は、ペリー来航の際の、200家以上の大名家の意見書を分析。対外方針を単純拒絶、即時拒絶、折衝拒絶、時限許容など細分化。例えば折衝拒絶の中にも、すぐ打ち払うものと、攻撃された場合のみ打ち払う2種類がある。 https://t.co/W9VCdt8DfF
明治39年9月28日、佐々友房が死去。幕末の熊本藩出身で、西南戦争で西郷軍に参加して投獄された。上村直己「佐々友房と独逸学」(『熊本学園大学論集 総合科学』20-2)曰く、「勤王・国権を一大主義とする紫溟会を有志と共に結成。天皇主権を主とする国権論を主張した」。 https://t.co/p5xGrpC9Pv
明治18年9月27日、都築温(都築荘蔵)が死去。慶応3年10月、大政奉還の趣旨が二条城で諸藩重臣に説明された際、宇和島藩代表として出席。将軍・徳川慶喜にも謁見。大政奉還が勅許されたことを帰国して報告(三好昌文「幕末期宇和島藩の動向(13)」『松山大学論集』12-6)。 https://t.co/ErSjmJSIEO
明治26年9月26日、光妙寺三郎(光田三郎)が死去。幕末の長州藩出身で、西園寺公望や中江兆民とはパリの留学仲間。留学中、岩倉使節団で渡欧した木戸孝允を度々訪問。「決闘は文明の花なり」と論じた(手塚豊「光妙寺三郎の決闘是認論及び「決闘条規」」『法学研究』43-8)。 https://t.co/RGUjMXTXEj
明治9年9月23日、安井息軒が死去。芳野金陵・塩谷宕陰と共に文久三博士と称された儒学者で、弟子に谷干城・品川弥二郎・陸奥宗光・世良修蔵・井上毅など。佐々木雄一「陸奥宗光の思想形成」(『法学会雑誌』59-1、2018年)は、幕末期に陸奥が師事した人物の1人として紹介。 https://t.co/vaMAeraSgu
明治2年8月13日(1869年9月18日)、土肥典膳が死去。岡山藩重臣で、文久2年に京都で国事周旋を開始。中川和明「平田塾と地方国学の展開」(『書物・出版と社会変容』11)曰く、「岡山藩の幕末維新史を語るうえでたいへん重要な人物」。その家臣が足利三代木像梟首事件に関与。 https://t.co/BZUKMIXuJQ
大正9年9月12日、国際法学者の高橋作衛が死去。第2次大隈重信内閣の法制局長官。日清戦争に法律顧問として従軍し、日露戦争の前年に桂太郎首相に向けて対露強硬論を主張した「七博士意見書」に参加。前原淳史「「七博士事件」の再検討」(『社会科学』48-2、2018年)がある。 https://t.co/LtDUBs6OtB
平成5年9月8日、歴史家の榎本守恵が死去。著書に『北海道の歴史』(北海道新聞社)、『侍たちの北海道開拓』(同)、『近代僻地教育の研究』(同成社)がある。下記は榎本による、桑原真人『近代北海道史研究序説』(北海道大学図書刊行会)の書評(『社会経済史学』49-4)。 https://t.co/GHfdK1VzZq
安政2年7月26日(1855年9月7日)、井戸弘道が死去。幕末の幕臣で、嘉永6年のペリー来航の際に浦賀奉行。後年、永井尚志は、学識はあるが、「決断之乏敷は、其短なる所」と評した。河内八郎「伊達宗城とその周辺(続)」(『茨城大学人文学部紀要 人文学科論集』23)より引用。 https://t.co/FJ08lhk5hc
明治40年9月6日、名村泰蔵が死去。幕末のオランダ通詞で、英語・フランス語・ドイツ語も習得し、慶応3年にパリ万博に赴く徳川昭武に随行。明治期には司法官僚の道を歩み、ボアソナード招聘に尽力した。石原千里「名村五八郎と名村泰蔵」(『英学史研究』26)などを参照。 https://t.co/AmsrcN2oDh
明治26年9月1日、細川護久が死去。明治3年に熊本藩知事に就任して、弟・長岡護美と共に熊本藩の藩政改革を推進した。その際、横井小楠の門下生たちを多数登用した。三澤純「熊本藩明治三年藩政改革の再検討」(『文学部論叢』109、熊本大学、2018年)が、新出史料を活用。 https://t.co/asHbl2wznl
享和元年7月23日(1801年8月31日)、長久保赤水が死去。『大日本史』地理志の編纂に参加した地図製作者。周振鶴・鶴間和幸「長久保赤水と中国歴史地図の編纂」(『五浦論叢』1、1993年)曰く、「日本の地図史上見のがすことのできない重要人物」で、伊能忠敬と双璧をなす。 https://t.co/9ZkGgKeK5u
天保12年7月14日(1841年8月30日)、林述斎が死去。松平定信に嘱望されて林家を嗣いだことは、林家の最大の画期とされる(小野将「近世後期の林家と朝幕関係」『史学雑誌』102-6)。朝鮮通信使との窓口役も務めた。幕末外交で活躍した林復斎は子で、岩瀬忠震や堀利煕は孫。 https://t.co/cvwwipEKfH

10 0 0 0 IR 林研海の生涯

明治15年8月30日、医師・林研海が死去。幕末の長崎でポンペに学んだ後、榎本武揚や沢太郎左衛門らと同じ船に乗ってオランダ留学。帰国後の明治期に、静岡病院長、陸軍軍医総監などを歴任。高橋慎司「林研海の生涯」(『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊』11-2)参照。 https://t.co/64QIqT03cY
明治32年8月26日、市川兼恭が死去。幕末の幕臣で、洋学者。蕃書調所や開成所で教授を務め、明治の陸軍にも所属した。加藤弘之と共にドイツ語学習の先駆者とされ、荒木康彦「幕末期の「独逸学」と『官版 獨逸單語篇』」(『渾沌』7、2010年)は、特に市川が中核だったとする。 https://t.co/s8YI8pmLvP
明治32年8月19日、丸山作楽が死去(異説あり)。島原藩出身で、明治2年に外務大丞として樺太の領有権についてロシアと交渉。三ツ松誠「平田神学の遺産」(『宗教研究』92-2、2018年)曰く、明治政府の参議に就任する噂もあったぐらい、平田国学の門人の中で有力者だった。 https://t.co/UpzzuRYUoW
奈良勝司「社会文化史」(『日本研究』57、2018年)は、奈良勝司『明治維新と世界認識体系』(有志舎)、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)、笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』(吉川弘文館)、渡辺尚志『近世百姓の底力』(敬文舎)などの文献を紹介。 https://t.co/CmQUN8utHV
慶応4年6月27日(1868年8月15日)、英学者・嵯峨根良吉が死去。幕末の宮津藩出身で、薩摩藩の開成所に雇用された。竹内力雄「山本覚馬覚え書(5)「管見」を中心に」(『同志社談叢』34)は、慶応3年に、赤松小三郎と同一内容の政体改革意見書を島津久光に提出したことを言及。 https://t.co/UHsSFHSX1v
慶応元年6月24日(1865年8月15日)、喜多岡勇平が死去。幕末の福岡藩士で、黒田長溥に信任され、長州征伐や五卿移転問題の解決に奔走した。梶原良則「長州出兵をめぐる政治情況」(『史淵』129)は、喜多岡の周旋が薩長和解の端緒になったと指摘。藩内の同志に暗殺された。 https://t.co/yHbW3ieHSO
大島明秀「十九世紀国学者における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容と平田国学」(『日本文藝研究』57-1)は、平田篤胤以降の国学者が志筑忠雄の『鎖国論』を「西洋人ケンペルによる日本讃美論」として読み解き、その後の国内で日本の優秀さを説く古典として受容されたとする。 https://t.co/57Sf67XXul
大正10年8月11日、前田正名が死去。薩摩藩出身で、大蔵省や農務省で活躍。多久島澄子「前田正名の「上州出張記憶書」と「卑見」」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』13)は、幕末の長崎で始まった大隈重信との関係を軸に、前田の国内調査報告書を紹介。 https://t.co/4KPS4X7dSB
西沢淳男「旗本子女の婚姻について」(『地域政策研究』19-4、2017年)は、旗本の家の婚姻過程を分析。その際、代官を務めた竹垣直道の幕末の日記を素材とする。西沢氏には、『代官の日常生活』(角川ソフィア文庫)、『幕領陣屋と代官支配』(岩田書院)などの著書がある。 https://t.co/1W8TQmSat0
文久2年7月12日(1862年8月7日)、大橋訥庵が死去。田中有美「坂下門外の変以前の大橋訥庵と宇都宮藩」(『立命館言語文化研究』23-3)は、坂下門外の変の首謀者で、過激な攘夷論者として知られる大橋が、討幕は志向せず、あくまで幕府の枠組の中での攘夷を目指したと指摘。 https://t.co/c9e43PMF0q
昭和2年7月30日、市川文吉が死去。慶応元年に幕府が派遣したロシア留学生で、明治6年に帰国。その後、再渡航して榎本武揚の樺太・千島交換条約交渉を通訳。宮永孝「幕末ロシア留学生市川文吉に関する一史料」(『社会労働研究』39-4)は、父・市川兼恭の日記に出る姿を紹介。 https://t.co/QCwbPScnhb
竹ヶ原康佑「長州処分問題をめぐる仙台藩の動向」(『駿台史学』159、2017年)は、元治元年〜慶応期の仙台藩を分析。西国情勢の探索を通じて、中下級藩士層の中に長州藩への同情的意見が目立ってきたことを指摘。また、単独での行動よりも外部との連携を重視する志向を指摘。 https://t.co/IChCiITVn1
大正10年7月25日、佐藤進が死去。戊辰戦争で治療に従事した医師で、日本人初のベルリン大学卒業生。酒井シヅ「順天堂三代目堂主・佐藤進 (1845-1921), ドイツ留学から帰国まで」(『順天堂醫事雑誌』59-2)曰く、「明治,大正時代,日本でもっとも有名な医者のひとり」。 https://t.co/hrczljgH0E
明治15年7月23日、医師・佐藤尚中が死去。佐倉順天堂創始者・佐藤泰然の養子で、順天堂二代目堂主。また、明治期の東京で順天堂医院(後の順天堂大学)を開いた。小川鼎三「佐藤尚中伝 (3)」(『順天堂医学』18-3、1972年)は、幕末の長崎でポンペに学ぶ経緯を紹介。 https://t.co/YYsOVGtv2y

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