著者
Ushida Konin
出版者
中京大学
雑誌
中京大学教養論叢 (ISSN:02867982)
巻号頁・発行日
vol.12, no.3, pp.139-158, 1971-11-30

ゲーテのファウストは, 民衆本等のファウストの如くに破滅し, 地獄に落ちることなく, 治癒し, 最終的に神の意志により救済されるに至る。ではなに故に, 第二部の冒頭でファウストが治癒されるかを考えてみるならば, 必然的に, 「ファウスト」第一部と第二部との間に有機的な連続性を認めねばならない。「ファウスト」第一部と第二部は全く個々の独立した作品ではなくて, 第二部は第一部の続き (Fortsetzung) として見なければならない。そしてこの小論で扱われた第二部の最初の「優美な地」は決して第二部の序幕に留まらず, 将来のファウストの生存様式を決定するに値する重大なる転回点であり, 「ファウスト」第二部における重要なテーマである第五幕のファウスト救済のテーマの伏線を有している場面と言える。この場において最も問題となることは, ファウストがどのような過程を経て治癒されるかにある。その治癒はとりもなおさずグレートヒェン非劇-いな, むしろファウスト自身の内部に横たわっている主人公の悲劇性 (プロメトイス, ソクラテス, シーザー, ゲッツ, ヴェルター等の如く)- の溶解にある。ファウストのグレートヒェンとの恋愛体験は, 就中ゲーテ自身のフリーデリケ体験に基づくものであるが, 結局不成功に終った。グレートヒュンとの断腸の離別の際のファウストの悲惨な叫びの中に, 「詩と真実」における詩人の実体験の告白と同様, 倫理的な悔恨と懺悔の声が聞かれる。すでに, そこにファウストの毒された魂の治癒を待つべく, 古い生命は捨てられ, 新しい行為の世界に至る生命, いわゆる Wiedergeburt の階梯が初まっている。では具体的にファウストがいかにして治癒に至らしめられるであろうか。それに必要な素地となるものは, 仮死状態としての眠り (Schlaf) と忘却の川水 (Lethe) である。前者は死の罰の代償として, 主人公を無の中において過去の罰を拭う, 後者は単なる忘却 (Vergessen) の意に留まらず, 生命の泉ほどのはるかに積極的な意味を持ち魂の浄化作用の役割を果している。上記の治癒に至る過程に必要な二つのモチーフは, ゲーテの他の悲劇的作品にもしばしば用いられている, 特に「イフィゲーニェ」におけるオレステスの治癒の際にこの二つのモチーフがたくみに用いられており, innere Handlung の上でもファウストの治癒との一致点が認られる。「イフィゲーニェ」におけるオレストの場合には, 単に眠りとレーテの川水だけでなくて, オレステスの心底に残存している悔恨の念, 及びイフィゲーニェの愛の清らかな息吹が加わって, オレステスの完全な治癒が成就される。ここにおける徹頭徹尾 human なイフィゲーニェの愛の清らかな息吹に代わるものは, 「ファウスト」においては, ファウストにレーテの水をほどこす妖精たちのファウストに対する同情 (Mitleid) にほかならない。この妖精たちの手によってファウストは助けられ, ついで治癒が完成されるのであるが, 妖精たちの実体は空気の精 (Naturgeist) で, 自然そのものと言えよう。ここにおいて, 自然の潜在的な治癒力が問題となる。目覚めたファウストは自然の力によって強められたと自覚し, 自然も亦その生命を目覚めさせ, 自分を包み初めたと感じる。これはファウストが, 自然と全く一致しているという感情を示すものである。その自然がファウストに与えた最大の効果は「最高の存在に向かっての努力」という本来のファウスト的衝動を誘発させたことである。グレートヒェン悲劇で一度は自らの生を呪ってみたものの, 生き続けたファウストの内部に残存していた何らかの生命力, これこそ「努力」する意志の一部と言ってよい。逆説的な言い方をすれば, 実にこのファウスト的衝動である行為の基盤となる「努力」こそ, 治癒の根底となるに至ったものである。そしてこの場面の意義がこのファウストの諦念的な悟りの言葉に集約されているようである。このように見ていった場合, ドイツ理想主義の旗手としてのゲーテの姿がくまなく理解されよう。

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