- 著者
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加藤 一郎
- 出版者
- 国立音楽大学
- 雑誌
- 音楽研究 : 大学院研究年報 (ISSN:02894807)
- 巻号頁・発行日
- vol.22, pp.15-30, 2010
本研究はヨハン・ゼバスチャン・バッハ(1685〜1750年。以下「バッハ」と記す。)のフランス風序曲様式における付点リズムの鋭化について考察したものである。付点リズムの演奏法については当時の演奏理論書にも記述され、今日まで議論が続いているが、未だに見解の一致が見られない。そこで、本研究では先ずバッハのテンポの基本的な性格を俯瞰し、その後、フランス風序曲様式における付点リズムの鋭化の問題に焦点を絞り、その技法及び様式について、文献資料、楽譜、そして現代の古楽器奏者の演奏を基に詳細な考察を行った。フランス風序曲様式を取り上げたのは、付点リズムの鋭化が、この様式と深い関わりを持つためである。『故人略伝』にも伝えられているように、バッハのテンポは正確で迅速、そして安定したものであった。しかし同時に、拍の中で微妙なテンポの変化が行われていたことも、彼の記譜法や当時の演奏理論書から明らかになっている。また、彼はファンタジアやトッカータのように、元々テンポを自由にとる楽曲形式も用いていた。これが、バッハのテンポの基本的な性格である。付点リズムの鋭化は、この内、拍の中で行われるテンポの変化に含まれる。前述したように、付点リズムの演奏法については、当時から様々な議論が行われていた。クヴァンツは生き生きとした表現を得るために、付点リズムを専ら鋭化させることを提唱しているが、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは一般原則として付点リズムの鋭化を指摘しながらも、曲の性格によっては付点リズムを軟化させることにも触れている。フランス風序曲様式では様々な音価の付点リズムが同時に用いられることが多く、その際、付点リズムの短い方の音を全て同時に弾く同時奏法の習慣があった。その為に、音価の長い付点リズムには必然的にリズムの鋭化が起こる。つまり、フランス風序曲様式には、この様式の特徴として、付点リズムの鋭化が元々含まれているわけである。当時は複付点音符や付点休符が用いられなかったために、細かなリズムは正確に記譜出来ず、リズムの解釈に曖昧さを残してしまった。しかし、フランス風序曲様式に共通して含まれるリズム構造からも、こうした付点リズムの鋭化は明らかである。また、フランス風序曲様式では、しばしば拍の終わりの方で32分音符の音群が用いられており、クヴァンツはそうした音群を出来る限り速く奏するよう提唱している。こうした方法は、テンポを拍の中で後ろの方に圧縮するものであり、付点リズムの鋭化もこのテンポの圧縮から生まれたものと考えられる。つまり、フランス風序曲様式では、テンポの圧縮によって付点リズムを鋭化させ、同時奏法によってその鋭化の度合いを一定化し、楽曲構造としてそれを位置づける役割を果たしている。バッハはこのジャンル以外でも、1720年代後半から1730年代にかけて、しばしば第2稿(改作や編曲を含む)でテンポの圧縮を用いているが、こうした表現様式からはギャラント様式との関連が感じられる。付点リズムの鋭化は人の精神に自由と葛藤を与え、音楽的緊張を生み出すが、一方ではマンネリズムに陥る危険もはらんでいる。本研究によって得られた知見から、演奏解釈に新たな可能性が生まれることを期待する。