- 著者
-
岩森 譲
- 出版者
- 弘前大学大学院地域社会研究科
- 雑誌
- 弘前大学大学院地域社会研究科年報 (ISSN:13498282)
- 巻号頁・発行日
- no.3, pp.1-25, 2006-12-28
明治初年に実施された神仏分離は地域の宗教を論じる上で、重要な問題である。神仏分離令は明治新政府によって全国に布達されたとはいえ、近世期の領内宗教の形態、あるいは神仏分離政策を進める為政者の意識等によって、地域差が見られる。そこで、本稿ではこの点に着目して、盛岡藩の神仏分離の特質について考察した。幕末維新期の盛岡藩では宗教者の多くを修験者が占め、神職は少なかった。慶応年間には、下斗米石見守を中心にした神職組織が形成されたが、各宗教組織の成熟度にも差があった。戊辰戦争中には、宗教者は藩に対して献金を行う。またこの時、修験隊が組織されるなど藩の軍事にも宗教者は積極的に協力していった。このような状況背景を持ち、盛岡藩領内における神仏分離が進められていく。盛岡藩では戊辰戦争中に本格的に神仏分離を進めることはできなかった。戊辰戦争後、神仏分離を進める際には、近世期に国学者で藩校の教授も務めていた江刺恒久とその門人を中心とした領内神祇体制を構築していった。藩も領内宗教者も、戊辰戦争の汚名返上を目指し、藩を挙げて神仏分離を行っていった。神仏分離は明治政府の方針に沿った形で、一村一社の原則のもとに実施された。神仏分離によって僧侶・修験者の神職への転向が進むが、この時、藩は神職に転じた僧侶・修験者に、従来、別当として管理していた持宮をそのまま与え、その神主に任命していくのである。そのため、神仏分離が僧侶・修験者の生活の基盤を直接奪うことはなく、彼らは宗教者としての職から離れずに済む状況であった。また、尾去沢銅山を対象として、神仏分離による在地の信仰の変化について考察した。在地の人々は、明治四年段階までを見る限り、近世期と同様の信仰生活を送っており、神仏分離が在地の人々と諸寺社との関係に大きな変化を及ぼすことはなかったと考えられる。