- 著者
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金 炳坤
- 出版者
- 身延山大学仏教学部
- 雑誌
- 身延山大学仏教学部紀要 (ISSN:13464299)
- 巻号頁・発行日
- no.14, pp.23-41, 2013
身延山大学「仏教学部紀要」第14号(二〇一三)を望月先生から頂戴した。その中に望月論文の直後に金炳坤「ウイグル語訳『妙法蓮華経玄賛』の研究状況と課題」という論文がある。これを望月論文、つまりチベット語訳玄賛の研究と合わせて読むとまことに示唆に富んだものとなる。まず同誌30頁11行目以下で、ウイグル訳本が「玄賛」をウイグル語に翻訳するにあたって羅什「妙法蓮華経」を参照し、経文註釈にあたっては窺基本でもはしょっている羅什本の科文を全文記載していることを明らかにする。これは先のチベット註釈本がチベット訳「法華経」を参照しているのとは大違いであり、羅什「妙法蓮華経」がすでにウイグル語に訳されていた可能性すらもうかがわせる。同誌36頁15行目以下では、敦煌の書窟(第17窟)から出てきた漢文「法華経」註釈書類のうち40%は「玄賛」と「玄賛関係のもの」であり、八世紀中葉以後は「法華経」の註釈書のほとんどは「玄賛関係のもの」で占められる、という。なぜそうなったのか。ここで金炳坤さんは曇曠(八世紀前半)という人をクローズアップさせる。敦煌で活躍した学僧であり玄奘三蔵(六〇〇〜六六四)、慈恩大師窺基(六三二~六八二)の流れ、即ち法相宗の流れにある人である、という。法華経の註釈といえば有名な天台大師智顗(五三八~五九七)の玄義、文句、摩訶止観やその他沢山のものがあったのに、敦煌、西域方面ではひとり慈恩大師の「玄賛」が盛行した、という事実は「法華経」の流伝と受容を考える上でとても大事なポイントとなるであろう。西域・シルクロードと言えば人種・異国語の坩堝のようなところである。かつて六〇〇年代玄奘三蔵はその路を西から東へたどってインドの経典をもたらした。そして二〇〇年後今度は東から西へ「法華経」やその註釈が逆流しているのである。先に見たように「玄賛」のチベット訳は不全なしろものである。しかし不全だからと言って切り捨ててはならない。仏教流伝のそのような環境の中にあって、そのレーゾンデートル(raison d'être存在価値)を究明することによって、より精緻な仏教の歴史がひもとかれて行くはずだからである。(及川真介)