- 著者
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市川 純
- 出版者
- 日本体育大学
- 雑誌
- 日本体育大学紀要 = Bulletin of Nippon Sport Science University (ISSN:02850613)
- 巻号頁・発行日
- vol.48, no.1, pp.25-37, 2018-09
ウィリアム・ワーズワスは『抒情民謡集』第2版(1800)の序文において,「狂った小説」や「気分の悪い馬鹿げたドイツの悲劇」によってシェイクスピアやミルトンの作品が無視される状況に追い込まれていることを批判している。ここでいう「狂った小説」とは当時のゴシック・ロマンスを指し,「ドイツの悲劇」は特にドイツの劇作家アウグスト・フォン・コツェブーによって書かれた作品を示している。コツェブーの悲劇の中でも『ペルーのスペイン人,またはロラの死』(1796)は英語への翻訳や翻案がいくつも作られ,イギリスの劇場で多大な人気を獲得していた。ここには『ペルーのスペイン人,またはロラの死』(1799)として翻訳したアン・プランプトリの他,『ペルーのピサロ,またはロラの死』(1799)のトマス・ダットン,『ピサロ』(1799)のリチャード・ブリンズリー・シェリダンに加え,『ロラ,またはペルーの英雄』(1799)の訳者「マンク」・ルイスの名も見られる。ゴシック・ロマンスの豊富な先行研究に比べ,『ペルーのスペイン人』はこれまでその文学的価値を十分議論されてこなかった。しかし,スペイン人征服者ピサロがペルーの民に行った残虐な所業,およびそれに対する彼らの抵抗を描くこの劇作品は,ゴシック・ロマンスと比較考察すべき特徴を十分備えている。この作品を文学的,歴史的,また社会的視点から考察することで,ピサロがゴシック研究において指摘されているある特徴を備えていることがわかる。つまり,ピサロの暴君的な行いや性格はゴシックにおける悪漢の性質を持ち,ペルーに対するスペインの残虐な行為の描写はイギリスの観客や読者の反カトリック的感情を煽る仕組みになっているのである。また同時に,スペインによるペルー人征服を劇化することは,当時のイギリスの文学潮流における反奴隷制論争や博愛主義運動の高まりとも関係している。これらの問題はイギリス・ロマン主義文学研究においても昨今取り上げられるようになったテーマである。『ペルーのスペイン人』はゴシック・ロマンス研究とイギリス・ロマン主義文学研究とをつなぐ作品であるといってよい。本稿はコツェブーの『ペルーのスペイン人』を同時代のゴシック・ロマンスと比較考察し,ゴシックの特徴と照らし合わせてその文学作品としての意義を探る。また,この劇の人気を歴史的文脈において実証的に検証し,その政治的側面についても議論する。さらに,このような比較検証によって『ペルーのスペイン人』で描かれている内容がポストコロニアル批評やオリエンタリズム研究によって提起される重要な問題とも関係していることを示す。この方法により,ゴシック文学研究とイギリス・ロマン主義文学研究双方に有益な知見をもたらす。本稿は2018年3月16日,アメリカ,フロリダで行われたThe 39th International Conference on the Fantastic in the Artsにおいて口頭発表した "'Pizarro' as a Gothic Villain" を日本語にし,大幅に加筆・修正を加えたものである。また,JSPS科研費 17K13413の助成を受けた研究成果の一部でもある。