著者
榎村 寛之
出版者
法制史学会
雑誌
法制史研究
巻号頁・発行日
vol.59, pp.53-79,en5, 2010

<p>本稿は律令国家の初期段階における神祇祭祀法について、社会に対する法の効能と社会における法の受け取られについて考察するものである。<br>国家的な祭祀とは、習俗ではなく、国家の形成過程における重要な「政治」であった。七世紀後期の日本社会においては、祭祀は税の体系を維持するほどの効力があった反面、全国的な統制は未成立だった。<br>日本最初の総合的な法典である、「大宝律令」のうち「神祇令」は、「慣習としての祭祀」を「イデオロギー統制」に転化させる側面を持ち、祭祀に縛られた未開社会から社会が祭祀を規制し、国家が統制する文明社会への転機に出現した法といえる。しかしながら、社会体制の異なる唐の祠令から継授したという側面があるので、その内容には極めて不完全な部分が残されていたことが近年の研究により明らかにされている。<br>神祇令の目的は、多様な神から、「神祇」と呼ばれる神を抽出することである。神祇とは、天神地祇のことで、「天皇中心の国家秩序を確認するために有効な神」であり、その基盤イデオロギーは天孫降臨であったと見られる。祠令が、中国の伝統的祭祀すべての規定を意識しているのに対し、神祇令は「未定型の祭祀を神祇官の下に法として整理する」ための法だということができる。神祇令は神を定義する法なのである。ところが、国家的注釈書である『令義解』では、神祇令の注解は、天神地祇の定義をしていないことをはじめ、総体に些末な語義の注釈に留まり、法の観念性やその実効性についての議論には至っていない。これが九世紀前半の律令法の理解の実態であった。<br>神祇法を支える意識に大きな転換が見られるのは、一〇世紀に法細則を集成した『延喜式』の「神祇式」である。神祇式の条文からは、唐の祠令を読み込み、その解釈を日本社会に適合させようとする努力が読み取れる。例えば、国家的祭祀のシンボルである伊勢神宮は、八世紀末の政治改革によってその統制が強められ、国家的な位置づけが明確になるが、神祇式はその意識の下で書かれている。また、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇族女性である斎王は、神祇令には定義されなかったが、神祇式では、天皇の命令で置かれることが明記されている。天皇祭祀の存在を前提にした事務規定に過ぎなかった神祇令とは違い、神祇式は、王権祭祀の内容にまで踏み込んで規定した法なのである。<br>すなわち、延喜神祇式は単なる神祇令の細則ではなく、天皇の祭祀を含め、祭祀全般を法で規制することに一部成功した、画期的な法だといえる。<br>神祇式によって、天皇の責任下でシステム化された国家祭祀体制が確立された。すなわち、地域に定着した「神祇」意識と国家祭祀の方向性がようやく連動し、共通した神意識の形成が形成される道筋ができた。それは「神祇令」という「理念的な統治法」が「神祇式」という「実効性のある行政法」へ転換したことを意味するのである。</p>

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