- 著者
-
木下 憲治
- 出版者
- 法制史学会
- 雑誌
- 法制史研究 (ISSN:04412508)
- 巻号頁・発行日
- vol.64, pp.97-141,en7, 2015
<p> 近年初期・中期中世国制史研究において、儀礼や象徴的コミュニケーションに関連した研究が多数なされている。その第一人者はG・アルトホフである。しかし、彼らのグループは、カロリング期のハルミスカラにはほとんど関心を示してこなかった。本論文は、カロリング期のハルミスカラの意義を解明するためにカロリング期のハルミスカラに関連するカピトゥラリアと先行研究が扱わなかった史料を分析したものである。J・M・メグランは、ハルミスカラと公的贖罪には関連性があると示唆していた。また、彼は公的贖罪とは神の復讐であるという仮説を提起しており、ハルミスカラにおいても公的贖罪においても被害者の復讐の側面を強調していた。最近のM・デヨングとC・M・ブッカーのルイ敬虔帝の贖罪と国王官職概念についての研究を参照することによって、八二九年のハルミスカラに対してはメグランの仮説の正当性を裏付けることができた。しかし、八五三年以降のハルミスカラは、その意味の重点を変えていった。すなわち、ハルミスカラは、「神の復讐」という側面を希薄にし、鞍運びという儀礼的な行為と引き替えに、非行を犯した者を国王支配へと再統合する側面があった。また、カロリング期のハルミスカラにおいては、国王支配へと再統合される人物は、貧しい自由人ではなく、政治指導層から従軍義務が「免除されない」階層にまで及んでいた。後期カロリング朝の国王は、ハルミスカラによって中間層までをも再統合によって再び王国の秩序に組み込む必要に迫られていたのである。本稿の結論は、M・イネスが明らかにしたような局地的エリートとの連携及び彼らとの互酬性によって王国を支配する必要に迫られたカロリング王権の姿と密接に関連している。</p>