著者
佐々木 邦博
出版者
信州大学農学部附属演習林
雑誌
信州大学農学部演習林報告 (ISSN:05598613)
巻号頁・発行日
no.30, pp.p1-90, 1993-12

この論文の目的はまずフランスの造園の歴史における二つのターニング・ポイント,すなわち17世紀の変革と19世紀の変革の内容と特徴を探り,明らかにすることにある。前者はヴェルサイユ庭園に代表されるフランス式庭園の成立の時期であり,後者はパリの都市改造において緑地計画が実行された時期である。また二つの変革には共通する指向性が存在する。それは近代化と見なされる傾向なのだが,この点について考察を進め,明らかにしていくことを第二の目的とする。以下が明らかとなったことの要約である。17世紀後半に起きた変革の特徴の一つは,それが一人の造園家,アンドレ・ル・ノートルによりもたらされたことである。また次に,彼が創造したフランス式庭園にヴェルサイユ庭園というまぎれもない代表作が存在することである。まずこの庭園の特徴と建設過程から明らかにする。ヴェルサイユ庭園の特徴は第一に比類の無い広大さにある。次に庭園の構成だが,東西と南北の宮殿前で直交する2本の軸を対称軸とした幾何学的構成をとっていることである。特に東西軸は地平線を見渡すヴィスタとなっている。さらに宮殿付近は緻密に,離れるに従って空間構成が大きくなるという密度の差がみられる。この差は宮殿に向かっては凝縮する感覚,反対方向へは無限の感覚を与え,2本の軸線と相まって宮殿を中心とする小世界を形成しているのである。そして最後に庭園の構成物,及びそれを含む空間はすべてが巨大であり,人間を相対的に矮小化させ,ヒューマン・スケールをはるかに超越した世界を構成している。すなわち王権神授説に基づく王の権力を具現化した世界なのである。次にこの庭園の建設過程だが,その特徴は王であるルイ14世が死ぬまで手を加え続けた点にある。建設作業と改変作業が間断なく続行されていた。そこで作業の特徴により時期を区分して考えると,第1期(1661-67)は地割りを確定する時期,第2期(1667-84)はボスケを中心に装飾が施される時期,第3期(1684-98)は装飾が変更される時期,第4期(1698-1715)は衰退期となることがわかる。この変化は王の権力基盤の強化と密接に絡まっており,その内実の変化を反映させながら建設が進められ,改変され続けたのである。次に宮殿と都市の変化を問題とする。ヴェルサイユとは庭園,宮殿,都市が一体となって発展した場所だからである。宮殿は1663年,1668年,1678年に大改造される。小さかった城館が王の一族,そして貴族まで部屋を持つ大宮殿に変身する。また都市も計画的に建設される。1671年からヴィル・ヌーヴが建設されるが,そこは宮殿付近には貴族,最も遠い地区には商人,中間には大商人とヒエラルキーを持って構成される。1685年からパルク・オ・セルフという地区が造られるが建物は造られなかった。以上のことを総合的に捉えるなら,ある一貫した動きが認められる。すなわち王を最高権力とするヒエラルキーが貫徹した世界を具現化しようとする動きである。庭園を祝宴の場として建設し,その架空の世界の中でその世界を演出していたのが,宮殿の拡大と都市建設の後にここに宮廷を移転してその世界を実体化したのである。17世紀における造園の変革を整理すると,次のような点にまとめられる。まず庭園造りの点だが,一種の始源的世界を表わす模様造りから広大な空間の構成を巡る課題へとその重心を移動したことが上げられる。そしてこの中で闇の世界を表現するような奇怪で無秩序な事物は姿を消し,人知に基づく合理的な世界が新たに姿を表わすのである。またこの中で技術的な面でも対応が迫られる。すなわち測量の技術と噴水などのための水の技術の発展である。次の点は他分野との協力関係である。ヴェルサイユは造園家ル・ノートル,建築家ル・ヴォー,装飾を担当した画家ル・ブランが協力して造り上げた。造園の変革も他分野との協力関係の中で生まれているのである。最後に造園と都市計画が極めて関連し,同じ構造を持っている点が上げられる。造園のこのように大規模な変革の意義だが,それは造園の政治的,美術的,文化的,思想的などの多様な側面にわたることであり,そしてそれは社会経済的背景とも密接に関係していた。そのためにフランス式庭園はまずヨーロッパ中で迎えられ,全世界に広まったのである。19世紀中葉に起きた変革はパリの都市改造計画の一環として行なわれた緑地計画によりもたらされる。皇帝ナポレオン3世が指示し,それを受けたセーヌ県知事オスマンが実行するのだが,彼は緑地部門の責任者にアルファンを任命する。こうして緑地計画が進められていく。この緑地計画はパリ中に緑地を体系的に配置するものだが,それらの緑地の特徴はまず面積によるカテゴリーがあることが上げられる。広い順に並べると,森,公園,スクワールであり,しかもこれらを並木道が結ぶという,階層を持った構造を伴っているのである。次の特徴はこれらの配置にある。3段階に分けられた緑地はそれぞれ市内に均等になるように散りばめられる。さらに緑地のデザインがほぼ同様の傾向であることを考慮するなら,この計画は市内のあらゆる区域の均等化を狙っているといえるのである。次にそれらの緑地を創出した目的だが,それは第一に都市衛生の改善にある。そして同時に緑地はプロムナードでもあり,散策する場所であった。しかし利用する市民の側から見るなら緑地は新たな社交の場であり,また娯楽施設的な面を兼ね備えた場なのである。つまり緑地は都市の特別な装置となったのであり,都市文化の産物として用いられたのである。この緑地計画の責任者であるアルファンは「プロムナード・ド・パリ」と題された詳細な記録を残している。この本には長文の序文があり,そこには彼の造園に対する考え方,パリの緑地の造園史上の位置づけが記され,さらに新しい庭園が提案されている。そこから以下のことが明らかになる。すなわちアルファンは当時造園が社会的におろそかにされていた状況に反発し,造園の社会的重要性に社会の眼を開かせようとした。そのために造園は芸術であると主張し,証明しようとした。彼は芸術が製作者の思考の反映された創造物であるという定義を下す。そして造園の歴史からみるならパリの緑地は最も進んだ創造物なのであり,しかも芸術に値する作品であると自負していた,ということである。そしてこの主張は当時の社会の中で重要な思潮だった科学主義に影響を受けていたのである。次にアルファンが提案した新しい庭園だが,整形式庭園と非整形式庭園に分けて説明されている。その全体を捉え,特徴を整理するなら,次の4点にまとめられる。第一に二つの様式を対等に評価する観点が上げられる。つまり土地の広さと起伏からよりよい効果が得られる様式を選択すべきという考えである。次に自然らしさへの志向がある。自然樹形を重んじ,しかも植物学の知識に基づいた上での志向である。第三に庭園のデザインは利用を中心として構成されるべきとすることがある。美しさだけではなく,歩き易さも求めるのである。そして4番目に,庭園の構成手法の体系化を試みたことが上げられる。最後にこのような新しい庭園,つまり近代的な庭園を一言で表現するなら,それは生身の人間が利用することに主体をおいた庭園なのである。19世紀の変革は緑地の体系的な建設にとどまらず,造園界の認識が以上のように大きく変化してきたことにも求められるのである。19世紀における変革を整理すると,まず造園が対象とする空間として公共空間が生まれたことが上げられる。この公共緑地はプロムナードとして把握され,散歩する楽しさを語っている。新たな都市文化であった。次にそのデザインだが,穏やかな自然風景を基調としている。理解するためには一定の教養が必要とされる事物は捨象され,万人が味わえるよう大衆化されたのである。また各方面で体系化がなされていくことがある。緑地配置,造園史,構成手法,施工プロセスなどの面で行なわれた。この変革の意義はそれが社会的な必要性の面からもたらされ,実用的な面から造園が捉えられたことである。そして緑地は新しい都市文化の舞台となり,社会的に重要な役割を担うようになった。またこの変革は合理的で実証的な思考に基づく科学主義に支えられており,近代という時代にふさわしい形態に変革する近代化であったといえる。これらのことからパリのプロムナードは近代都市の象徴の一つとされ,世界中の都市に広まっていく。17世紀と19世紀の変革に共通する傾向を捉えるなら,主に二つの面が浮かび上がる。まず都市との関係である。17世紀の場合は都市の新しい形を生み出すためのヴィジョンを庭園が提供し,19世紀の場合は公共緑地が近代都市形成の有力な構成要素となる。両者ともに都市と造園空間の一体性,あるいは類似性が指摘されるのである。次の面は普遍性,合理性,計画性である。これらの特徴を獲得したことによりいずれの場合も世界的に注目され,新しい形態を発信しえたのである。これらのことから判明することは17世紀の変革は19世紀の変革の先駆的意味を持っていたのであり,近代の先駆けとなり,近代を準備した変革であったことである。このような点で両者は密接なつながりを持っていたのであった。

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