著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.27-46, 2019-03-31

本稿では、備後奴可郡(現広島県庄原市東城・西城町)における神職の中世末から近世にかけての歴史的変遷を明らかにするとともに、奴可郡における神職の組織・階層について論じた。その結果、中世から近世への時代変化が、奴可郡の神職にいくつかの変転を起こさせたことが判明した。その一つが、神職としての立場を保障する方法の変化である。中世末の備北地方における社役の安堵は、備後一宮において開催される座直りへの出席と、在地領主からの宛行状の発行により行われていた。その後近世になると、京都の吉田家から神道裁許状を取得するようになる。こうした変化に伴い、神職の職名・立場を表す言葉として「太夫」という言葉が公の資料に現れることはなくなり、吉田家から取得した官途・受領名が名乗られるようになった。二つ目は、中世に淵源を持つと考えられる備後国一宮の権威や機能の変化である。近世初期には、一宮の祭祀組織の再編、広島藩と福山藩という二つの政治体制の構築、近世中期以降には、京都吉田家による備後国内の神職支配の拡大が起こった。これにより、備後国内の神職に対する一宮の影響力が低下する。その結果、備後国内の広島藩領の神職は、藩内神職の惣頭役を務める広島城下の社家野上氏の統制下に入ることになり、広島藩の支配をより強く受けるようになった。三つ目は、奴可郡における神職組織の在り方の変化である。中世末には、在地領主が広大な領地の産土社(鎮守社)を定め、神職を任じ、祭祀を経済的に支えていた。その後、中世末の在地領主の領土が近世の村切りにより分割されることで、かつての在地領主の領地と一致する広い氏子圏を持つ社格の高い大氏神と、一つの近世村を氏子圏とする小宮が生まれたと思われる。近世初期には、郡内に数社存在する「大氏神」を単位として、共同で神事を執行する神職組織がいくつか形成されていた。その後近世中期になると、吉田家の影響により広島藩の神職組織が整備され、その末端として「郡」を単位とする神職組織が新たに形成される。こうした近世の奴可郡において神社祭祀に関わる者の間には、吉田家から神道裁許状を取得し祭祀を担当する「吉田殿裁許の官」と、日常神社の管理を担った「鍵取(地神主)」の違いがあった。さらに、「吉田殿裁許の官」の間には、大宮の社家(幣頭)/小宮の社家(一本幣)/抱えの小宮を持つ下社家/抱えの小宮を持たず裁許状を取得していない下社家という、中世以来の家格に基づく階層があった。
著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-31, 2018-03-31

本稿は、比婆荒神神楽の伝承者が、明治から第二次大戦終戦までの近代をどのように生き、現在まで神楽を伝えてきたのかを明らかにする論考である。本稿では、政治経済や社会動向など、地域社会の外部から伝承者に与えられた影響に注目して考察を行う。広島県庄原市東城町・西城町の神主と明治以降に農民たちにより結成された神楽社は、比婆荒神神楽を伝承している。神楽の執行に伴う経済的側面に注目して神楽を捉えると、執行者にとって神楽は、祭料やお花など収入を得ることができる稼ぎの手段でもあった。近世期のこの地域では、神職たちが郡毎に神楽組を結成し、独占的に神楽を執行しており、一般家庭出身の者が神楽を舞うことはなかった。こうした状況は、明治新政府が実行した新たな宗教政策により変化し、一般家庭出身の村人たちが新たに神楽団を結成して神楽を舞うことが可能になった。その後、明治の中頃から、国家の宗祀たる神社に奉職する神職は神楽を舞うべきではないという意見が強く主張されるようになる。また、地域の基幹産業であったたたら製鉄の不振という産業構造の変化があり、都市部への住民の流出も始まった。このような状況下で、産業に乏しい山間地域で暮らす農民たちは、冬季の出稼ぎとして積極的に神楽を舞い始めた。その結果、神楽における神事舞を神職、遊興的な能舞を神楽社が担当する近代的な執行体制が構築された。こうした執行体制のなかで、近世まで独占的に神楽を執行してきた神職たちは、明治時代の新たな宗教政策に応じた神楽の組織・規約を構築することで、神職たちが保持していた神楽に関する諸権利の維持を図っていた。また、近代の歴史を見てきた結果判明したのは、神楽の伝承者たちが、自分たちが伝承する神楽を、時代の文脈や価値観に即して意義付け、変化させながら伝えてきた複雑な過程である。比婆荒神神楽は、神職たちから模範的と称賛され、天皇制と結びついた国家の神話を演ずる「神代」の神楽という正当性を得ることが出来た。伝承者たちは、こうした「模範的神代神楽」というブランドイメージを武器に、引率者である神職が有していた人脈や聖蹟顕彰運動などを利用して、出張公演を盛んに行っていた。このような民俗芸能を「資源化」する試みは、すでに戦前から始まっていた。以上の考察より、比婆荒神神楽の地域社会における「民俗的」な側面ばかりを強調してきた先行研究者たちは、地元の外へ積極的に進出を試みていた近代の姿を見てこなかったことが理解されるだろう。本稿は、こうした研究史上の欠落を補うという意義を有している。
著者
鈴木 昂太 Kota SUZUKI スズキ コウタ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural and social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.1-31, 2018-03

本稿は、比婆荒神神楽の伝承者が、明治から第二次大戦終戦までの近代をどのように生き、現在まで神楽を伝えてきたのかを明らかにする論考である。本稿では、政治経済や社会動向など、地域社会の外部から伝承者に与えられた影響に注目して考察を行う。広島県庄原市東城町・西城町の神主と明治以降に農民たちにより結成された神楽社は、比婆荒神神楽を伝承している。神楽の執行に伴う経済的側面に注目して神楽を捉えると、執行者にとって神楽は、祭料やお花など収入を得ることができる稼ぎの手段でもあった。近世期のこの地域では、神職たちが郡毎に神楽組を結成し、独占的に神楽を執行しており、一般家庭出身の者が神楽を舞うことはなかった。こうした状況は、明治新政府が実行した新たな宗教政策により変化し、一般家庭出身の村人たちが新たに神楽団を結成して神楽を舞うことが可能になった。その後、明治の中頃から、国家の宗祀たる神社に奉職する神職は神楽を舞うべきではないという意見が強く主張されるようになる。また、地域の基幹産業であったたたら製鉄の不振という産業構造の変化があり、都市部への住民の流出も始まった。このような状況下で、産業に乏しい山間地域で暮らす農民たちは、冬季の出稼ぎとして積極的に神楽を舞い始めた。その結果、神楽における神事舞を神職、遊興的な能舞を神楽社が担当する近代的な執行体制が構築された。こうした執行体制のなかで、近世まで独占的に神楽を執行してきた神職たちは、明治時代の新たな宗教政策に応じた神楽の組織・規約を構築することで、神職たちが保持していた神楽に関する諸権利の維持を図っていた。また、近代の歴史を見てきた結果判明したのは、神楽の伝承者たちが、自分たちが伝承する神楽を、時代の文脈や価値観に即して意義付け、変化させながら伝えてきた複雑な過程である。比婆荒神神楽は、神職たちから模範的と称賛され、天皇制と結びついた国家の神話を演ずる「神代」の神楽という正当性を得ることが出来た。伝承者たちは、こうした「模範的神代神楽」というブランドイメージを武器に、引率者である神職が有していた人脈や聖蹟顕彰運動などを利用して、出張公演を盛んに行っていた。このような民俗芸能を「資源化」する試みは、すでに戦前から始まっていた。以上の考察より、比婆荒神神楽の地域社会における「民俗的」な側面ばかりを強調してきた先行研究者たちは、地元の外へ積極的に進出を試みていた近代の姿を見てこなかったことが理解されるだろう。本稿は、こうした研究史上の欠落を補うという意義を有している。This paper discusses the modern performance of the traditional form of entertainment, Hibakojin Kagura, during the period from the Meiji era (1868–1912) through to the end of World War Two. It will focus particularly on influences from outside the community, such as political and economic factors and social trends.Hibakojin Kagura has been passed down through the generations by Shinto priests and villagers in Saijo-cho and Tojo-cho in Shobara-shi, Hiroshima Prefecture. Those performing kagura in a festival context are also financially rewarded, through service fees and flowers made as offerings to the gods. Therefore, it can be said that for performers, these kagura festivals are an occasion for earning money.During the Edo era (1603–1868), only Shinto priests were permitted to perform kagura in this area of the country. This situation changed under the policy of the Meiji government. From that time on, farmers from ordinary families began to perform kagura.Subsequent to this policy change, around the middle of the Meiji period, it came to be commonly believed that Shinto priests should not perform kagura. Furthermore, there were changes in the industrial structure of the area, which contributed to an outflow of residents to urban areas. Under these circumstances, the farmers living in mountainous areas where agricultural possibilities were limited, began travelling to perform kagura as a way of making money during the winter months.As a result, a modern system was created in which the Shinto priests were in charge of ceremonial duties, and farmers were in charge of entertaining. This arrangement was a way of ensuring that the priests, who had held the monopoly over kagura performances until early modern times, continued to maintain the various rights related to kagura.In modern times, the performers of Hibakojin Kagura handed the artform down through generations, while altering it to ensure it remains meaningful according to the context and values of the times. As a result, Hibaku Kagura became praised as 'exemplary' by priests, and legitimized as a form of Jindai Kagura, a name reserved for schools of kagura performing national myths associated with the Emperor System. Drawing upon this 'legitimacy', Hibakojin Kagura performers began to take frequent trips to other areas of Japan, making the most of the connections which the priests had accumulated and the authorization of the imperial mausoleums. These attempts to utilize folk performing arts as a cultural resource began even before the start of the Second World War.