著者
三原 裕子
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, 2000-09-30

日本語では,語によってマ行音とバ行音が交替する現象が知られるが,この音韻現象は,表記を通してもうかがうことができる。そこで,本発表では後期咄本に現れた「ま」・「は」・「ば」行表記の推移を観察して,その推移の諸要因を明らかにし,併せて,そこから見て取ることのできる後期咄本の資料性を検討する。現れた表記のうち,交替以前の語形を反映していると思われる表記と,「ふをむと読む」,所謂「読み癖」の表記は文章語的なものと位置付けられ,交替後の語形を反映していると思われる表記は口頭語的なものと位置付けられると考える。このような見地から,各語の状況を整理してみると,以下のようなことが言える。調査した語の表記推移の要因として想定されるものには,(一)「意味分担によって,表記にもその使い分けが反映したと思われるもの」(「灯」ほか)や(二)「語の本義に関する記憶の薄れが,表記変化に拍車をかけたと考えられるもの」(「禿」ほか),(三)文章語として認識されていた語が丁寧な語から日常語へと一般にひろまり,口頭語として広く使われてきた語が,その地位を下げるといった「文体的価値の低下が表記に反映したと思われるもの」(紐)などがある。さらに,調査した語の中には,語形変化の過渡期をうかがえる語(「禿」)や,「ふをむと読む」伝統を踏襲した保守的表記で表される語(「居眠り」「煙」)もあった。従来後期咄本のような口語的性格を持つ表記が現れ易い資料は,口語資料としての価値を有すると考えられるが,その一方で,同資料には伝統的な「は」行表記を比較資料よりも多く残すことなど,表記の保守性もうかがうことができる。咄本製作者には,このような保守的表記を選択するものがおり,読者にもそれを許容して享受するという教養層が存在したことが指摘できる。