- 著者
-
中村(笹本) 雅子
- 出版者
- 一般社団法人日本教育学会
- 雑誌
- 教育學研究 (ISSN:03873161)
- 巻号頁・発行日
- vol.64, no.3, pp.281-289, 1997-09-30
アメリカにおいて1960年代の「文化剥奪論」論争でたたかわされた、マイノリティ集団の子ども達の学業成績不振を説明する諸理論は、支配的文化とマイノリティ文化の関係のとらえ方に即して、「欠陥モデル」「差異モデル」「二重文化内化モデル」の三つに区別される。マイノリティ集団にとって、支配的文化との差異が不利な条件になっていることの指摘から、「文化剥奪」を解釈するための二つの枠組みを本稿では設定するか、それは「支配的文化を剥奪されている」という枠組みと「自らの集団の文化を剥奪されている」という枠組みである。この二つが実は「支配的文化による剥奪」として統一的に把握されるとの理解から導き出されるのは、支配的文化を構成するものとしての「文化剥奪力」の想定である。多文化教育の実践は様々に類型化されている。その多くが、文化剥奪の二つの枠組みのとちらか、あるいはその両方の側面に対処するものであるか、社会構造や人種主義等の、支配的文化の問題にとりくむものはほとんとない。ローマンか「多元主義としての差異」イテオロギーと表現ずる、差異や多様性そのものを価値として称揚するアプローチも多いが、それは差異に内在する権力関係の認識を欠くものとして批判されねばならない。アイリス・ヤングの「差異の政治」の議論は、同一性の理想とのがかわりで集団間の抑圧を分析するものとして注目に値する。社会関係と抑圧を構成するものとしての集団間の差異の重要性を明らかにするヤングは、抑圧を崩していくために集団の差異に注目し、それに対処する「差異の政治」を主張する。特に重要なのは、同化の理想、あるいは普遍的人間性の理想が; (1)特権化された集団と異なる文化をもつ集団を不利な立場におくこと、(2)特権化された集団の規範が中立的で晋逼的とみなされるのを許すこと、(3)標準から逸脱する集団のメンバーに自己否定をもたらすこと、を通じて抑圧を永続化させるという彼女の分析である。文化の支配は、普遍性や規範性の占有に基づくということがここでは示されている。教育の問題として考えるとき、この普遍性の占有の問題は、カリキュラムの批判的分析の視座を提供すると共に、白人教師と白人生徒が抑圧された集団との関係で自らをどのように位置づけ理解するかという問題を提起する。多様性を付加するだけではなく、カリキュラムの規範性の検討が必要である。「白人性の肌構築」を課題として提起するスリーターとジルーの議論への注目から、さらに教育における文化政治の可能性を探ることが課題として位置づけられる。