著者
今野 徳好
出版者
愛知県立芸術大学
雑誌
愛知県立芸術大学紀要 (ISSN:03898369)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.113-127, 2006-03-31

視覚媒体が過剰に拡大する現代おいて人間の視覚領域は映像が大半を代理し、共有する視覚の繋がりに時代空間が成立している。身体的な欲望まで肥大させる代理視覚とその共有の現実は、映像に内在されて行く世界を示す。個別性に在って体験すべき世界までが映像に先取りされた私達は、映像が創る均質な世界像を知覚の対象としている。いま映像に既済された明るく透明な日常という空間から、私的な視覚体験を紡ぐ写真表現が生まれ評価されている。身軽な写真行為が生起させる個別性のライブ感に浸る写真表現である。写真は私的な記録手段として発明された。その始まりから一人称の視覚に委ねられた写真の客観性と主観は、個別する眼差しに曖昧に仮託されてきた。相反する解釈を許す曖昧な写真の在り様が相克するリアルを雑居させている。写真光学と化学は、裸眼の現実を新しい写真的現実に差し換え世界を異化する。日本の写真表現は、写真に異化された世界の目新しい具体性から比喩するに見合うものだけを選択してゆく。世界を異化する写真の狂気が体現する辛辣な具体性に自己を相対化し、個別性において世界と自己を再構築する写真表現は置き去りにされている。