著者
伊豆山 敦子
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.169-170, 2000-09-30

I.先行研究では,日本語文語の「未然形+ば」対応形(仮定「たら,なら」)の-a:-ab(w)a等と,日本語文語の「已然形+ば」対応形(既定・必然「ば,と」)の-e:-ja:等がある。その他,各方言独特の接辞(宮良-ki「から」および-Ka「たら」)がある。II.宮良方言の条件を表す形・用法を報告する。終止形kakuN「書く」utiruN「落ちる」 (1)動詞活用形 已然形 kakja:・utirja: 未然形+ba kakaba・utuba (2)接尾辞後接 テ形+ki kakiki・utiki 連体形+Ka kakuKa・utiruKa III.已然形対応形と未然形対応形+baの用法 (1)両者類似例 (a)tigami kakja:muci harja 手紙書くから持って行って (交換可) (b)tigami kakaba muci harja 手紙書いたら持って行って (2)アスペクト面の差異。行為が実現する(始まる)か,まるごと起きるか。 (a)ba:NboN hwaija:madagiri 私ご飯 食べるから退け(X hwa:ba) (b)ba:NboN hwa:ba makarI sjizjimiri 私ご飯食べたらお椀片づけろ(X hwaija:) (c)NboN hwaiki NboN iri ku: ご飯食べるのだからご飯入れて来い(理由) (a-1)ki:nu utirja:madagiri 木が落ちるから退け(X utuba) (b)ki:nu nara:utuba putsui 木の実は落ちたら 拾え(X utirja:) (3)モダリティ面の差異 話し手にとって,希望的事態なのか,事実判定なのか。 (a-1)ami nu huija:hate:ge:haNna 雨が降るから畑へ行くな(X hwo:ba) (a-2)ami nu huija:jasai du ibiru 雨が降るから野菜植える(X hwo:ba) (b)ami nu hwo:ba:yasai du ibiru 雨が降ったら野菜を植える(X huija:) (a)kazji nu hukja:hate:ge:haNna 風(台風)が吹くから畑へ行くな(X hukaba) (b)kazji nu hukabaは不可。台風を望む人はいないから,あり得ない。「屋根が壊れる」「船が出ない」など,一般的条件では,接辞hukuKa:(吹くなら)を用いる。同様にsInaba(死ぬ)jamaba(痛む)等望まない行為には不可で,一般的条件-Kaのみ可。同様例 (c)uigara utiruKa:sInuNdara 上から落ちたら死ぬよ(X utirja:X utuba)
著者
伊豆山 敦子
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.1, no.3, pp.155-170, 2005-07

文字資料がなくても、方言比較研究により、文法化の過程を知ることができる。文字資料がある日本語上代との比較により、日本語の文法化事例を加えることができる。琉球語の語彙項目^*i-(自動詞する)の文法化過程をたどる。八重山・石垣市宮良(みやら)方言の動詞語形変化の型は、日本語と異なる。5段活用対応型が、更に、1段活用対応型の活用語尾-i-(r-)と同じ形態素を持ち、同じ活用型を持つ。八重山・与那国方言の「する」を意味する自動詞i-(r-)と比較することにより、嘗て、語彙項目だった^*i-(r-)の文法化であることが推定される。その際、日本語連用形相当の形が最も基本的な形であること、その機能的意味が、話し手認識の関与しない、事象生起であることが注目される。
著者
伊豆山 敦子
出版者
日本語学会
雑誌
日本語の研究 (ISSN:13495119)
巻号頁・発行日
vol.1, no.3, pp.155-170, 2005-07-01 (Released:2017-07-28)

文字資料がなくても、方言比較研究により、文法化の過程を知ることができる。文字資料がある日本語上代との比較により、日本語の文法化事例を加えることができる。琉球語の語彙項目^*i-(自動詞する)の文法化過程をたどる。八重山・石垣市宮良(みやら)方言の動詞語形変化の型は、日本語と異なる。5段活用対応型が、更に、1段活用対応型の活用語尾-i-(r-)と同じ形態素を持ち、同じ活用型を持つ。八重山・与那国方言の「する」を意味する自動詞i-(r-)と比較することにより、嘗て、語彙項目だった^*i-(r-)の文法化であることが推定される。その際、日本語連用形相当の形が最も基本的な形であること、その機能的意味が、話し手認識の関与しない、事象生起であることが注目される。