著者
倉地 真梨
巻号頁・発行日
2023-03-31

本稿は、アトラスピアノ製造株式会社(浜松市、以下「アトラス」)を事例として、戦後の浜松地域において中小ピアノメーカーがどのように発展し、なぜ衰退したのかを明らかにすることを目的としている。調査にあたり、アトラスは現存していないピアノメーカーのため、元従業員やピアノ製造業関係者へのインタビューを実施した。また、インタビュー調査をする中で、ごくわずかながらも内部資料が現存していることが判明した。本稿ではこうした貴重な内部資料も使用しつつ、雑誌・新聞記事等二次資料によって事実の裏付けや補完を行った。 アトラス創業者の頼金忠は、浜松地域出身でも、ピアノ技術者(ピアノ製造・設計・調律・修理の技能をもつ者)でもなく、創業時は小さなピアノメーカーだったにも関わらず、国立音楽大学というピアノ技術者養成課程をもつ大学との提携、郡司すみという企業人と技術者とのバランスがとれた逸材がピアノ開発のかなり深部まで関わっていたこと、提携先の大手電機メーカー・ブラザー工業株式会社(名古屋市)との良好な関係構築といった3つの要素が有機的に働いたことで、アトラスは中堅ピアノメーカーとしての地位を獲得した。 また、浜松地域には中小ピアノメーカーを主な取引先とするピアノ部品メーカーや、中小ピアノメーカー出資による組合事業も存在しており、産業集積地としてのメリットが大きかった。アトラスが発展するには、浜松地域という立地が不可欠だったことも明らかになった。 開発に関わった元従業員の証言と技術開発に関するわずかな資料から、郡司すみら技術開発のスタッフは数々の開発・改良施策を行っていたことが判明したが、本稿ではその中でも大規模な開発だった「部品合理化計画」と「ハンマー開発」を取り上げた。この2つの開発の一部始終を追うことで、アトラスのピアノ作りは、戦後急激に増加したピアノ需要に対応するために、音作りへのこだわりよりも増産が優先され、経営判断と技術開発との間での葛藤があったこと、圧倒的規模・ブランド力を持つ大手の前では、「音色」「タッチ」といったピアノの本質の部分では客から選ばれないという諦念があったことが明らかになった。 技術開発と社内技術の蓄積を切り捨て、増産に踏み切ったアトラスは、1980 年代後半以降、ピアノ不況となり、小規模生産を迫られる中で生き残ることはできなかった。また、相次いだ中小ピアノメーカーの倒産・廃業によって、多くのピアノ部品メーカーも苦境に立たされ、浜松地域でピアノ作りをすることは難しくなった。部品メーカー、特にピアノ部品専業メーカーの集積が、いかに中小ピアノメーカーにとって重要だったかわかる。