著者
原田 麻衣
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.164-182, 2022-08-25 (Released:2022-09-25)
参考文献数
25

フランソワ・トリュフォーのキャリアは映画と文学の横断について思考するところから始まった。批評家として論考「フランス映画のある種の傾向」を発表し、当時のアダプテーション作品を批判したトリュフォーは、その3年後に初監督作『あこがれ』でモーリス・ポンスによる『悪童たち』の翻案に挑戦する。そしてその1年後、論考「映画における文学の翻案」でレーモン・ラディゲの同名小説を原作としたクロード・オータン=ララ『肉体の悪魔』を取り上げ、改めてアダプテーションの問題にアプローチしている。これら二つの翻案論と『あこがれ』からわかるのは、トリュフォーが一人称回想小説の翻案に関心を持っていたということである。本稿では、『あこがれ』における奇妙な語り手——「一人称の特定できない語り手」——について、一人称回想形式の翻案という観点から考察する。まずは二つの翻案論を参照しながらトリュフォーの主張した「正当なアダプテーション」の内実を明らかにする(第1節)。次に文学と映画における回想する一人称の語り手について整理し、『あこがれ』での語り手の位置を確認する(第2節)。最後に、『あこがれ』では、特定できない語り手を置くことによって、小説に備わる「私たち」語りを可能にしていると論じる(第3節)。『あこがれ』でなされた文学作品の映画的変換を「語り」に注目して明らかにすることが本稿の目的である。