著者
塩谷 透
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.127-147, 2004-12-31

メールヒェンの最後にはいわゆる「結末句」が置かれることが多い。この句の機能をグリムの『子どもと家庭のメールヒェン集』を例にして考察する。他の物語には見られない,この結末句の働きは,語りの終了を告げることで,物語の世界と現実とを明確に区分することにある。結末句の中には,物語られたことの信憑性を否定するようなものも存在するが,これも聞き手を,時間と場所を特定することのできない虚構の世界から現実の世界へと連れ戻すためのものである。またこれには「語り手」の存在も関わっている。元来,メールヒェンは語られるものであり,語り手を必要とする。その語り手に要求されるのは,非現実的な内容を素直に信じ,共感してみせることである。つまりメールヒェンを語る者は,そのような本来の自分ではない者を演じなければならない。物語の信憑性を疑う結末句は,その虚構の役割を演じていた者が,現実の人間へと戻るための仕組みでもある。
著者
塩谷 透
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.103-124, 2003-12-31

リューティはフォルクス・メールヒェンの独自性は個々のモティーフにではなく,それが語られる様式にあるとして,その様式の特性を表す様々な概念を提唱した。それによって彼が目指したのは,他の口承文芸のジャンルとの相違を,語りの様式を通して明確にすることであったが,同時に,一定の様式を持つものとしてメールヒェンを文学の一つのジャンルとして認知させることでもあった。その際,彼はヴォリンガーの抽象芸術についての理論に依拠した。ヴォリンガーは未発達なものと評価されていたエジプトの美術などを抽象衝動という観点から解釈し,稚拙と思われることが一つの様式の必然的な結果であり,ギリシアやルネッサンスの美術とは異なった基準で評価されねばならないと論じた。この美学は,同様の評価の下に置かれていたメールヒェンに対して,小説などに対するのとは異なる評価と理解の基準を構築することに努めていたリューティにとっても有効なものだったのである。