著者
宮平 光庸
出版者
関西学院大学
雑誌
関西学院経済学研究 (ISSN:02876914)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.93-140, 1997-12

キリスト教と経済学の関係といえば,ただちに,マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が想起されるだろう。同書の一般的な理解によれば,プロテスタント・キリスト教のなかでもカルヴィニズムの影響の強かった信仰的な生活実践の場において,すなわち,聖・俗が分離された修道院の中においてではなく,通常の人々が現実に生活をする世俗的な場において,もっとも大切なこととされていた救いの確証を得るために,勤勉に労働することによって得られる経済的な繁栄を神からの祝福だと思い,いわゆる「世俗内禁欲」的な生活を送り,それが結果的に資本主義的経済発展の原動力となったとされている。(より聖書的な理解によれば,救いの確証を得るためではなく,むしろ人間の業である功徳によらないで神の恵みによりまた信仰によって救われた感謝の印をその生活で証しするための神への応答としての勤勉な労働と生活であったという方が,より説得力をもつように思われる。)いずれにせよ,そのように清教徒的な信仰と倫理的なエートスが,歴史的に経済活動に影響を及ぼしてきたとされる根強い理解の延長線上にあって,キリスト教的な経済観と言えば,どちらかといえばキリスト教の理想的な道徳・倫理を現実の経済活動に適用しようとする立場だと一般的に理解(誤解?)されているように思われる。本論文で試みたいことは,誰に対しても共通する生活基盤であり,また,研究対象でもある市場経済を観察するに際して,その観察者の思想なり価値観が異なることにより,その市場経済観が相当変わってくるという事実を明らかにすることである。すなわち,一方では新自由主義の立場に立つF・ハイエクおよびM・フリードマンの市場経済観と,他方では聖書的立場に立つB・グリフィスおよびD・ヘイの市場経済観とは,いずれも基本的に人間の自由を重要視するところから出発しており,市場経済に対する基本的な考え方においてはかなりの点で類似している。ところが,市場経済の社会的な枠組みとして法的なルールで十分とするか,道徳・倫理的な枠組みを必要とするかについては,それぞれの背景にある哲学思想や価値観が異なり,当然のことながら,その強調点が相違している。そこで,両立場の市場経済に対する姿勢を比較検討することにより,その類似点と相違点を明示し,前者に対する後者の批判点を明らかにしながら,聖書的立場からの市場経済観,とくにこれまでほとんど紹介されてこなかったD・ヘイによる市場経済に関する聖書的諸原則を紹介することが,当論文の主要な目的である。