著者
小西 端恵
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学学芸学部論集
巻号頁・発行日
no.42, pp.49-64, 2005-03

最近の武士論では、代表的な論者の高橋昌明にみるように、武士は芸能人だったという見解にもとづく「職能的武士論」が中心となっている。従来から、武士論には、「職能的武士論」と「在地領主的武士論」があり、武士(武士身分)の成立について考える場合、前者が中心にならざるをえなかったが、高橋説は武士とはなによりも、「武」という芸(技術)によって他と区別された社会的存在であったと定義しているだけではなく、「在地領主的武士論」を武士論ではないとして全否定する内容であるところに問題があると考える。 10世紀の渡辺綱に系譜を引く摂津渡辺党二家(渡辺氏・遠藤氏)は、御厨経営・牧との関係・摂津渡辺津を本貫とする水軍・荘園の荘官、といった四つの特徴が三浦圭一によって指摘されていたが、河音能平の見解によりつつ、海陸にわたる能動的な武士団としての活躍を詳しく分析した。次に、渡辺党と比較されることが多い山城宇治の槙島惣官家を取り上げ、宇治網代・鵜飼等の漁業や交通・流通といった社会的分業を通じて王権や権門に奉仕しつつ、舞楽を家業とする芸能の専門家で、高句麗系の渡来人狛氏に系譜を引くことを明らかにした。狛氏は興福寺領狛野荘を本拠とし、戦国時代には、室町幕府管領家の被官・国人としての武士団を構成するが、南山城3郡における山城国一揆では、国人36人衆として主体となったことを実証した。このような中世武士の多面性を視野に、中世全般を通じた武士論を構築することが、これからの課題になると考える。