- 著者
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山本 眞功
- 巻号頁・発行日
- (Released:2018-07-26)
『本佐録』は「慶安御触書」と称される文書とともに、江戸時代に幕府や諸藩がおこなった農民統制の基本的な考え方を知ることができる記述を含む史料として、かつては多くの日本史教科書等にも取り上げられていた書物である。たとえば、「幕藩体制の経済的な基礎は農業であった。武士階級は「農は国ももとなり」といって農業を重視しており、農民の生活については、「百姓は財の余らぬやう不足なきやう」(「本佐録」)に統制することを心がけた」(実教出版)といったような形でである。そうした場合、著者は引用文の書名に示されているように、徳川家康に仕えた本多佐渡守正信という人物であるとされ、それをも根拠として、この書物は長く江戸時代初期の幕府政治の基本的理念を示す典型的な史料として扱われ続けてきた。しかしながら、その一方では早くからこの書物の著者を藤原惺窩とする見方も示されてきた。『本佐録』は、著者問題からしても、少なからぬ問題をかかえた書物であった。そうした事情もあって、『本佐録』の著者問題をはじめとする成立事情をめぐる問題については、江戸時代から新井白石や室鳩巣といった人々によって様々な議論がなされていた。また、江戸時代における論議をうけて、明治三四年には中村勝麻呂氏による詳しい検討もおこなわれたが、その成立事情については未だに十分に解明されたとは言えないままの状態が続いている。ここに提出する本論文は、その解明されていない成立事情を少しなりとも明らかにしようと試みるものである。そのために本論文は、まずこの書物の成立時期を明らかにすることから検討を始めるという方法を採用した。成立時期の問題については、書誌学や文献学に基づく検討によって解明することが可能だと考えたからである。検討は具体的には以下に記すような手順でおこなった。『本佐録』には四〇本近くの版本と一二〇本程の写本、さらには十数本の関係書が残っている可能性があることが確認されている。そこで本論文においては、これに私の所蔵する十数本の史料を加えて、まず可能な限りの史料にあたって、書誌学に基づく成立時期の検討をおこなった。その結果判明したことは、『本佐録』の確認できる成立時期の可能性の上限は、延宝五年(一六七七)を少しさかのぼったあたりであるということであった。そして、続いて文献学に基づく検討を試みた。『本佐録』には『心学五倫書』は系統の書物のなかの記述が用いられているという事実があるからである。『心学五倫書』は、版本としては慶安三年(一六五〇)に現在知り得る限りではじめて著者不明のまま姿を現した書物であるが、一七世紀後半の寛文期になって『五倫書』さらには『仮名性理』という名の書物に姿を変えている。これらの書物は数度にわたる改変の過程の折々で細部の記述を変えており、したがって『本佐録』に用いられているこの系統の書物からの記述がどの折りの書物から引かれたものかを文献学の方法に基づいて検討することで、我々は『本佐録』のおおよその成立時期を特定することが可能となる。検討の結果、『本佐録』が引いているのは『仮名性理』の記述であり、その『仮名性理』の成立時期からすると、『本佐録』の成立時期は寛文七~九年(一六六七~一六六九)から延宝五年(一六七七)の間の約十年間である可能性が高いということが確認できた。この結論は、書誌学の方法に基づく検討の結果とも符合する。『本佐録』は、元和二年(一六一六)に世を去った本多佐渡守正信や同五年(一六一九)に五九年の生涯を終えた藤原惺窩には著すことのできるはずもないものであり、明らかに偽書として流布したものなのである。偽書『本佐録』は、したがって江戸時代初頭の幕府や諸藩の政治理念を問題にするための書物などではない。この書物は、むしろ幕藩体制の確立期と言われる寛文延宝期の政治状況や思想状況を探るための材料として重要である。この観点に立って本論文では、『本佐録』として流布したこの書物の思想内容を“「文道」の重視”“「百姓」への対応”“「侍」の使い方”という三つの点から検討し、続いてそれが寛文延宝期という幕藩体制史上の重要な時期において、どのような思想的機能を果たすものであったのかを問題とした。本論文は、著者を本多佐渡守正信や藤原惺窩とする見方に基づいて幕藩体制成立期の問題を扱うための史料として長く用いられ続けてきた『本佐録』という書物を、改めて実際に書かれた時期、すなわち幕藩体制の確立期の現実と突き合せて読んでみようとしたものである。それは、この書物の成立の意義、特にこの書物が成立以後に果たした思想的機能や社会的機能に対して新たな視線を向けてみるという試みでもある。
哲学