著者
広田 肇
出版者
鹿児島国際大学
雑誌
鹿兒島経大論集 (ISSN:02880741)
巻号頁・発行日
vol.23, no.4, pp.87-111, 1983-01-15

ワーヅワスが大学一年生であった夏休みから彼の神聖な生活は始まった。それは個性の無器用で不十分な発見であった。それを部分として想定すれば, 詩心の自由で十分な確認を全体として想定する事も可能である。全体と部分を比較する事によって詩人の条件は共通点や相違点として浮かぶ。第5巻においてワーヅワスはコウルリヂが見た夢の中から詩人の運命を実感する様に, 最終巻において両詩人は協力者の使命として混乱の世界全体に対する福音の予言を決意する。表面的に見れば, それは共通点である。相違点は, 前者は夢の中の判断の結果であるけれども後者は現実の問題意識の誘導であり, そこにおいて両詩人の想像力が散策する人間全体の思想的な形成過程の強弱が区別される。各事件の数例が持つ年代順の無視は想像力の優性を強調する。再び表面的に見れば, 問題点はそれの中における詩人が余りにも個人的な生活の領域を徘徊する事である。全体の視点から部分を判断する事によって, ワーヅワスが見事に完成した様に, 部分的な各事件は結論を導入する為の機能的な例示として認められる。幼少の段階は一般論として通用する。青春の段階は個性の開拓であり, 特殊論である。成熟の段階はそれらの総合論である。原『序曲』の限界は全体的な社会性の欠如である。それの拡大によって出現した表面的な相違点や問題点を除去する為に, 視点の位置は部分の中に設定される。それは, ワーヅワスに人間として詩人として付与された精神の充実と独立の必然性を理解する為に便利である。増補による拡大の為に敷衍は必要であり, 更に引用は不可欠である。精神の発達に深く関係する各事件を記憶の中で年譜的なグループとして整理する事によって, それぞれにおいて想像力の可能性はいわば無限大に発散する。知性は感触と観察によって人間における希望の確実な所在と精神の健全な在り方を志向する。詩人の究極的な精神構造, 又は, 人間全体の生活目標は世界的な苦闘の生き方を生命の組織において彼が統率した結果である。ワーヅワスの精神的な座標は, プラスの側面においてコウルリヂの友情や革命の闘士ボォピュイの愛情, マイナスの側面において人間の現象や教育の実験屋ウェヂウドの出現によって区分される。詩人の原点を通して日常生活の反復の中において変化を認める事は精神の成長であり, 無変化を認める事は理性の堅持である。教育や社会の混乱は, それが宗教や文化, 政治や経済の領域において処理されるかどうかは別問題であるけれども, 少なくとも詩人の世界において人間が自然に向かって上昇接近しながらその図形を描き, ボォピュイの味方になる事によって解消すると思われる。考察の分量において6. が比較的に多い理由は, 1. から5. が価値に乏しいからではなく, それらが実現する為にそれは不可避の大問題となるからである。元来, それらは整然としていたけれども, それが積極的に正当な評価を確保しない限り, いわば精神的な冬眠を余儀なくされる性質を持っている。それは, 引用が1つもない第11巻が『序曲』冒頭の原動力として相乗的な関係を持つ様に, ワーヅワスの人格と文体を顕著に特徴づける契機に対する核心的な切開である。ここに1805年5月1日付けの手紙の写しがある。それは, 人格も文体も総合された自伝の完成が間近である時にワーヅワスが失意の中で自己を分析した点において貴重である。詩人像の点睛として, 第11巻の代役として, それは要約の価値を持つと思われる。