著者
日埜 博司
出版者
流通経済大学
雑誌
流通経済大学流通情報学部紀要 (ISSN:1342825X)
巻号頁・発行日
vol.8, no.1, pp.93-136, 2003-10

ジョアン・ロドリゲスが一六二〇年にマカオで公刊した『日本小文典』は全三部から構成される日本語(特に口語)文法書であるが,その第三部はおおむね,日本人が生涯に種々変えてゆく名前および呼称に関する細かな説明のために費やされている。これは文法書という概念から一見逸脱した内容のように思われるけれど決してそうではない。日本人は古来より,ひとりひとりに固有の実名に呪術的な霊力(タマ)が宿るものと考え,実名をもって身分ある人物を無遠慮に呼ぶことを大いなる非礼と見なした。ロドリゲスはイエズス会の会計担当パードレ(プロクラドール)として重要な世俗的役割を担うとともに,通事(通訳)として豊臣秀吉らに代表される日本の権力者の愛顧を得ねばならない立場にあった。したがって,威光ある日本人をその地位にふさわしい呼称で礼儀正しく呼ぶことは,支配階級からの信頼獲得を主要な布教戦略と見なしたイエズス会に属する修道士として当然の義務であった。ロドリゲス自身,『日本小文典』の中で日本人のいわゆる実名敬避俗にことさら言及しているわけではないが,実名や仮名に代わる代称としての受領名,百官名,位階名をそれぞれ身分ある人物に対する敬称として詳細に紹介していること自体,ロドリゲスがわが実名敬避俗を熟知しこれを遵守することの重要性を自覚していたことの証左であると,私は考える。