著者
林田 恒夫
出版者
日本歯科理工学会
雑誌
日本歯科理工学会学術講演会要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.121, 2005

日本のタンチョウは今日では北海道の東部地方に約1000羽生息しており、コウノトリやトキのような絶滅の危惧は無くなっている。江戸時代は「東海道五十三次」で有名な安藤広重が「江戸名所100景」の中に描かれている三ノ輪(荒川区)の鶴でわかるとおり関東以北から北海道にかけて生息していた。その後各地から姿を消し、1919年(大正8年)の狩猟官の調査では、わずか3羽しか見つからず、絶滅寸前の鳥と考えられたほどであった。昭和になると戦争が起こり鶴のことは忘れられていた。 1952年(昭和27年)2月、寒波が釧路地方を襲い、餌の摂れなくなった鶴が突然、阿寒町や鶴居村に現れ、畑に置かれた家畜用のトウモコシを食べた。それを見た農民や子供たちが鶴を守ろうと餌付けを始め、その年の11月、33羽が見つかった。餌付けの成功で徐々に増え50年余りで今日のようになったのである。生息地も釧路から十勝、根室、網走地方まで拡大している。北海道のタンチョウは渡り鳥ではない。 4月になると東部地方の湿原や湿地で営巣を始める。現在、巣は約300ヶ所見つかっている。直径約1m高さ、15~30 cmに周りのヨシやスゲを積み重ね巣を作り、そこに2個の卵を産む。卵は長さ約10 cm、太さ6.5 cm、重さは200~280 gで茶褐色や白色をしている。雌雄の鶴が交代で抱卵して32~34日で孵化する。ヒナ誕生は5月~6月で2羽同時に孵化しない。2卵めを1~2日遅れて産むために1卵産むと直ぐ抱く鶴はヒナの誕生も第2子は1~2日遅れる。第2子が誕生して翌日には、巣の近くで餌を探す親鳥に餌を貰いに近づくことにより巣から離れて行く。餌はヨコエビなどの小さな水棲動物を親の嘴からヒナの嘴へと嘴移しで与える。生まれて1週間くらいの間は巣から100 m以内の間で餌探しをしている。足場の悪い湿地ではヒナは思うように歩けなく親鳥の動きについていけないためだ。成長とともに餌の量も多くなり、それを満たすために小魚やドジョウなどの多く棲息する河川や湖沼のある場所に移動して生活する。1ヶ月で体高50 cm余りになり、この頃になると小さな翼の羽ばたきをよく見かける。翼を鍛えるためである。80日あたりから親鳥が風に向かって走り、ヒナも真似をして続く飛行訓練を始める。そして90日くらいでヒナが飛べるようになる。9月には親鳥についてヒナが自由に飛ぶようになっている。多くのタンチョウは春から夏の間は湿原や湿地で子育てをする生活をしている。 10月になると、タンチョウたちは餌の乏しくなった棲息地を離れて釧路地方の阿寒町、鶴居村、音別町などに移動して行く。秋から冬は人里での生活を始める。初めは畑や牧草地で自然の餌を摂っているが無くなると、鶴のためにトモロコシが蒔かれている給餌場に集まり、そこを中心に生活する。 冬の1日の始まりは、ねぐらの川で目覚め、羽づくろい、餌捜し、給水などをする。その後、給餌場に飛んでゆく。給餌場で見せてくれる鶴の飛行、雌雄が顔を天に向けデュエットで鳴く姿はダイナミックで美しい、とくに白い雪の上で雌雄が大きな羽を広げ宙にジャンプして踊る求愛行動の意味を持つダンスは優雅で華麗な動きである。 3月になると、鶴たちは人里を離れ、新しい育雛のために湿原や湿地に戻って行く。これがタンチョウの四季の生活である。