著者
森田 のり子
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.198-218, 2020-07-25 (Released:2020-08-25)

本論はアジア・太平洋戦争期の日本において、それまで左翼思想を背景とした記録映画の表現方法に取り組んできた作り手らが、戦時国策プロパガンダの要請に対して自らの議論と製作実践をどのように変容させていったのかという問題を、「主観」的表現という論点に着目して考察するものである。具体的な対象として、当時国内最大のドキュメンタリー映像分野の国策映画製作会社であった、日本映画社の撮影技師・坂斎小一郎と演出家・桑野茂の両活動に照準する。まず、1940年代初頭までに記録映画の表現における「主観」「客観」の関係性をめぐる議論と実践が充実していたことを確認した上で、アジア・太平洋戦争期になると国民としての「主観」を持つ「戦記映画」が求められていったことを論じる。こうした状況のなかで、『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(1943)の撮影を担った坂斎は戦地の現実に向き合うこと自体に積極的意義を見いだしたものの、完成作品はその認識とギャップを呈していた。一方、『基地の建設』(1943)の演出を担った桑野は、戦争当事者の立場で想定したような現実に対面できなかったことで、結果的に自らの認識を生かした作品を手がけることとなった。それぞれの条件の下で異なる展開をたどりながら、両者とも表現する主体としての「作家」であろうとする問題意識に基づき、自らの左翼思想によって培った「主観」と戦時国家に要請される「主観」とを接続しようと試みたことを明らかにする。