著者
沈 念
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.113-133, 2020-01-25 (Released:2020-02-25)

本論はポストコロニアル理論を踏まえ、小栗康平の『伽倻子のために』翻案をめぐる従来の言説を分析し、これまで酷評されてきたこの作品における「美化」の問題が、実は欠点ではなく、あえて新しい表現を試みている証しであることを主張する。第1節では、従来の日本映画における在日朝鮮人に対する美化は、日本人/在日朝鮮人という二項対立を強調し、在日朝鮮人の受ける差別を批判しながら、在日朝鮮人のイメージを一般化している現象を考察する。さらに、このような傾向を風刺する大島渚の3作を例として、二項の概念を抹消しようとしても、自らの優位に立つ日本人としての立場を認識しなければ、本質的に二項対立を打破できないと指摘する。それに対して、『伽倻子のために』の美化はそれほど単純なものではないと主張する。映画は原作におけるハイブリディティの人物設定を敷衍し、男女主人公の人物像と人物関係を美化することによって、「不純な」二人の恋が持つ象徴的な意味を増幅し、従来の二項対立に対抗していると、第2節では論証する。そして第3節で、李恢成の文学世界を翻案する手法は、本作の主人公相俊を李恢成の他作における人物たちと緩やかな結びでつなげていることを考察する。この緩やかな結びは在日朝鮮人全体を少数の在日朝鮮人で代表するような表象を回避していると主張する。最後に、『伽倻子のために』における子供時代の挿入シーンを分析し、これは在日朝鮮人を代弁するのではなく、彼らに語らせる手法であると、第4節で論証する。さらに、この手法は内部と外部の異質を受け入れ、その共存をはかる試みともいえると結論づける。