- 著者
-
深谷 秀樹
- 出版者
- 東洋大学ライフデザイン学部
- 雑誌
- ライフデザイン学研究 = Journal of Human Life Design (ISSN:18810276)
- 巻号頁・発行日
- vol.9, pp.349-363, 2013
日本人は議論が苦手だといわれる。それを解消するために、コミュニケーション・スキル教育の一環として、議論の技術を習得させることが意図されているが、その試みが一定の効果を上げるには相応の時間を要する。そこで、現状において、議論がどのようにおこなわれているのかを検証することが重要となる。 本稿では、映画『12人の優しい日本人』(1991年公開)を取り上げ、作品の中で描かれた議論の検証を通して、議論に対する日本社会の現状をとらえ、その中でより有意義な議論をおこなうための方法を考察するものである。 本作品は、アメリカ映画の『十二人の怒れる男』(1957年公開)をもととして、当時の日本では存在していなかった陪審制度をテーマとしている。作品中では、年齢も職業もさまざまな12人の日本人が、ある殺人事件について、被告が有罪か無罪かを議論する。12人の議論に対する取り組み方はさまざまである。当然、中には論理的に主張することが比較的得意な者もいれば、日常まったく議論というものをしたことがない者もいる。しかし、12人が陪審員として集められたからには、全員の意見を総合した上で、評決を下さなければならない。 ここで重要なのは、一見論理的に見える主張をしている者であっても、その主張が常に正当とはいえない場合があるということ、また反対に、主張することが苦手な者の意見にも、事件を捉える上で重要な要素が含まれている場合があるということである。本作品では、法律や裁判についてある程度の知識を有する者が、意見を言うことが苦手な者に加勢することにより、事件の真相にせまっていくという展開がなされている。このことは、話が得意な者の意見だけを採用するのではなく、話が不得手な者からも意見を引き出すことが重要であることを示唆しているのである。