著者
牧野 晶世
巻号頁・発行日
2013-03-31

ムッソリーニのファシズム政権は、自らのイデオロギーを大衆に広め、政治体制に対する同意を形成する手段として映画を積極的に利用した。しかし、ファシズム体制が崩壊した直後から映画製作が活発に行われ、ネオレアリズモの映画が誕生し、世界的に注目された。この背景には、ファシズム体制下における映画産業の制度整備や基盤強化があったと考えられる。本研究では、ファシズム体制下の映画政策の成果が、戦後のイタリア映画にどのように継承されたのかを考察する。考察では、特に、ファシズム体制下で創設された映画関連の施設や機関、制度などの役割に注目する。また、イタリアと同じく枢軸国であったナチス・ドイツと日本の映画政策と比較し、イタリアの映画政策の独自性を明らかにする。著者はファシズム体制下における映画政策は、戦後のネオレアリズモの映画を生み出す基盤となったと考える。そして、その主な要因は、ハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェアの3つの面から見ることができる。ハード面では、映画実験センターやチネチッタなどの施設、設備の整備によって映画産業の基盤を強化した。ソフト面では、LUCE の活動などを通じた映画技術の向上、Cineguf などによる映画に関する情報提供と知識の深化が行われた。人材面では、LUCE や映画実験センターで戦後のイタリア映画を担う監督などが育成された。さらには、この政策の背景にあったファシズム政権の文化に対する姿勢も重要であった。芸術の多元的共存の容認や、その結果として芸術家が比較的自由に活動できたこと。また、ナチス・ドイツと比較して、亡命した芸術家が少なかったという事実も挙げられる。このように、ファシズム体制下の文化政策が一枚岩的でなかったこと、映画政策が統制と併せて映画産業の基盤強化を目的としたことが、技術面、人的面で戦前から戦後にかけてのイタリア映画に連続性をもたらし、ネオレアリズモの誕生に繋がったといえる。